熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
煩悩ということも
修行をやっていくうちに
それに悩まされ、
かき乱され、惑わされ、
汚されていくということで
たくさんの名前があります
修行の中から
それを対治していった
中から生まれたのでしょう
随眠ズイミン、眠らせる
漏ロ、もれだすという
自分では隠そうとしている
のですが漏れ出てくる
それで、煩悩があることを
有漏ウロ、無いことを無漏
といいます。
一休さんの歌に
有漏路より無漏路に至る
ひとやすみ(一休)
雨降らば降れ
風吹けば吹け
というのがありますが、
迷いの煩悩の世界から
その迷いを超えたさとりへ
行くという
その途中には雨も嵐もある
だろう、が
今はその一休みという
ところから名前がついた
のではないかと思います
その有漏、無漏という
言葉はよく出てきます。
「この染というのは
何であるかというと、
別の仏教の言葉でいえば…
清浄というのは無漏という
こと。無漏であると。
それから染汚(ぜんま)
というのは有漏といって、
漏というのは煩悩のこと
ですが、
つまり何というか、
宗教心と世間心ですね。
関心ということです。
人間関心です。
人間関心の中には、
人間というものはただ
何でもかんでも
世間的なものを要求しとる
というものじゃないと
思うのです。
そういうように考えるのは
人間を馬鹿にした考え
じゃないかと思うんです。
何か純粋なものを求めてる
もんじゃないかと
思うんです、
人間というものは。
そりゃ何も
金と富と、そういうものが
あれば満足だというような
こと言ってる人は、
その人自身嘘ついている
んじゃないかと思うんです
それはその人の本当のこと
じゃない。
その人の理知がですね、
そういうことをいわさせ
とるんだと思うんです。
「わしが」なんてこと
いっとるだけですね、
本当のわしはないと思うん
です。
そういうように
純粋な要求もあるんだと
思うんですね。
しかしそうかといって、
そうでない正反対の、
この世的なものに惹かれる
ような関心もあるわけです
そういうものが
相交わっとるんですね。
そういうのが現実の人間と
いうものじゃないかと
思います。
そういうものがあればこそ
このような会が開けとるん
です。
これが、
純粋な人間だったら
こんな下手な講義なんか
聞きに来ません。
それからまた、
まったく浄なんか全然ない
ものなら
こんな馬鹿な所に誰も
来ませんです。
何か、相交わっているから
来てですね、
何かちょっと
一つはっきりしたいと、
こういうものが
みんなあるわけです。
あなた方にもあるし
僕にもあるわけです。」
前に「染浄世界」という
ことが出てきました。
染と浄が入り交わっている
世界、それと「純浄世界」
もっぱら浄だけの世界、
私たちも
淨だけでも生きれんし
かといって
染という煩悩だけの世界
でも生きれない。
染と浄とが相交わった
世界に生きているのが
現実ということのようです
シュトゥルムというのは
英語のストーム・嵐という
意味になり、
ドランクは衝動とか渇望
という意味です。
この言葉も広辞苑にある
ので有名な言葉なのです。
広辞苑には「疾風怒涛」
とあります。
ゲーテが興したドイツの
文学革新運動という
ことです。
こういう言葉を安田先生は
宗教心が抑圧されている
という意味で
使わてれいます。
「宗教心のない人という
のはないもんだ。
ただ、それがみんな何か
他のものに、
覆われとるんだと
思うんです。
よくシュトゥルム・
ウント・ドランク
(sturu und drang)
ということがあります。
何か圧迫されることです。
ドランクというような
状態じゃないかな。
その純粋な宗教心が展開
したいんだけど、
それが圧迫されとる。
何か押さえられて。
だからして
起こさんのじゃない、
圧迫されとるんだ、
宗教心が。
その人自身は分からんです
その人の底を流れとる
宗教心が圧迫されとるんだ
だからその人は、
圧迫されとるのもその人、
圧迫しとるのもその人です
その人が二重性をもっとる
んです。
その人というのは人間です
圧迫する方も自分だし、
圧迫される方も自分なんだ
自分がそういう
二つの世界を……。
人間というのは、
単純なものではない
のであって、
人間そのものが何か
中間的なもんですね。
パスカルのいうのは、
人間のあり方が中間的だと
それは、緊張と弛緩ね。
その間の中間におると。
人間は朝から晩まで
まじめにしておれんと。
じゃ遊んどれといったら
朝から晩までは
よう遊ばんのです。
哀れなもんです。
よう遊ばんのや。
そういう具合に緊張と弛緩
というものの間を何か、
ふらついとるものが人間
だと。
パスカルの有名な話です。
だけど、
緊張と弛緩でも
まあ悪くはないけど、
いまいったようにですね、
この純浄の世界と……。
染浄ですね。
こういう中間です、一つの
人間そのものが中間なんだ
それで、
この染浄の世界というのは
交わっとるんです。
この交わるというような
ところに本当の現実という
ものがあるんじゃないか。
純粋に浄とか、
純粋に染とかいうものは
かえって抽象的であってね
実際に現実に具体的な人間
というものは両方持っとる
という感じがする、がある
んじゃないかと
僕は思うんです、
雑起しとるという。」
人間の在り方を
そしてその底には菩提心を
もっているということを
いろいろな人の言葉を
駆使して表現されている
ことは面白いところです。
染浄世界と純浄世界
このことも
よく分からなかったこと
なんです。
「染」というのは
心が悪に染まっていく
ということで煩悩のことで
詳しくは染汚(ぜんま)と
いいます。
ですから、染浄というのは
染と浄
汚れた世界と浄、清らかな
世界が交わっている
ということです。
最初聞いた時は
善いか悪いか、善悪と
いうような二つの世界で
いいのではないかと、
さらに、純浄という
もっぱら純浄の世界と
いうことが必要なのかと
思っていました。
「仏子よ、たとえば
二つの世界の如し。
一つは染浄世界、二つには
純浄の世界、というんです
この染というのは、
染汚ゼンマというんです。
それから浄というのは、
清浄という意味です。
この二つの世界といっても
染汚の世界と清浄の世界と
いわずにですね、
染と浄とのある世界と、
もっぱら浄ばっかりの世界
と、こういうように
二つの世界になっとる。
染と浄とが交わっとる世界
と、もっぱら浄そのものの
世界と、こういうような
これで二つになっとる。
ここの
交わるというところに何か
非常に意味がある
のではないかと思います。」
考えてみると
仏教では「十界」といって
私たちの住む世界を十に
分けて考えます。
下からいうと
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅
そしてその中間に人間
その上に天という世界
ここまでが迷いの世界です
その上に仏の世界が
声聞ショウモン、縁覚エンガク
菩薩・仏とあります。
人間という字も
よく見れば不思議な字で
当たり前に(にんげん)
と読んでいますが、
熟語としてみても
人をニンと読む熟語は
ないようですし、
間をゲンと読む熟語も
見当たらないようです。
漢字からいえば
人間はジンカンです。
人類とか人生とか。
これは呉音で読むと
ニンゲンですが
漢音で読むとジンカンです
ですから、
人間という字も仏教語の
読みではないかと
思うのです。
十界にしても
人間の立場は中間です。
上には仏がいて
下には地獄がいる
つまり間的アイダテキ存在が
人間です。
人と人との間で苦しみ
スルメのようにぺったんこ
になっているのが
私たちのあり方のようです
十界から見ても
天から地獄までの間が
染浄の世界でしょう
もっぱら浄そのものの
世界が声聞・縁覚・菩薩・
仏の世界でしょう。
私たちの生きている世界は
六道輪廻ロクドウリンネと
いいます。
地獄餓鬼で苦しみ
少し良いことをしては
有頂天になりという、
そういう染と浄が
交わっているのが私たち
の世界のようです。
「我々の場合でも
まあ七地でなくてもですね
宗教心というようなことが
あるんですが、
純粋に菩提心を起こして
来い、といっても
なかなか来れやしません。
また、そんなこと
人に言うもんじゃないです
そう言っとる人間が
まず起こせということに
なるんですね。
だからして
菩提心のない人はないと
思うんです。
それが何か他のものに
覆われとるんです。」
というように続きます。
なかなか大事な問題が
展開していきます。
力ある人というと
権力者ということを
思い浮かびますが
やはり仏教ではそいう力
ではなく、
能力ある人という意味に
なるのです。
十波羅蜜の第九番目は
力リキ波羅蜜です
六波羅蜜の次が
方便波羅蜜、次が願波羅蜜
力波羅蜜、智波羅蜜と続き
ます。
善き師について
正しい教えを聞き思惟し
劣った意欲を勝れた意欲に
転じ、実行する力
ということです。
力という実践行
意欲があっても持続しない
七地沈空という
空に沈むということもあり
そういう時に諸仏の激励が
あって、また修行に励む
ということがあります。
まあ、そういう意味で
力(りき)ということは
七地の中で重要な言葉です
「この力という字が、
七地の大事な点です。
八地になればもう力を必要
としないのです。
六地まではまだ力にならん
初めて力というものが、
この遠行地オンギョウチという、
つまり人間の努力の行、
人間の努力の極致という
ようなものです。
遠行地とはそういう意味
です。
だからまだ努力が足らん
もんなら力はないんだし、
努力というものがないのが
八地なんです。
だから努力の極致という
ような点がですね、
初めて力という字で代表
されるんじゃないかと
思いますね。
力のある人と。
それは非常に静かだと。
自己を主張せんと。
お前は駄目じゃないかと。
その通りですと。
こういうのが力のある人
だというんです。
何くそなんてこと
いうんじゃないんだ。
頭が下がっとる。
下がる人は、これは力の
ある人だというんだ。
自力無効というような人は
そうなんだ。
自力無効とは、腰抜かした
というんじゃない。
本当に他力という力に
触れた人が自力無効ですね
それは非常に静かな
もんじゃないかと思います
興奮なんかせんのです。
それから質素という
文章にしても。
諄々として説いて。
言葉も非常に少ないんだ。
そして地味なんだ。
そういう人が力ある人と
思いますね。
本当に力ある人は静かだと
思うんです。
質素なんです。
だからこの力という字が
ちょうどニーチェでいう
ライオンを思わせるね。
八地は子供です。
六地以前はこれ、ラクダ。
ふうふういっとる。
やっぱり力というものの
象徴はライオンや。
この力という字は七地を
表すのに非常にいい字です
ね。」
ライオンとラクダと子供
これはよく修行の段階にも
表されます。
初めは柔順で何事も素直に
よく聞いて修行に励む
最初から自分を出したら
修行になりません。
それから、
自立するというか
独立心というか
責任を持って立つという
そういうのを象徴するのが
ライオンというのです。
諄々とやっていた修行が
大きな転換を迎える
そこが七地というのです
そういう意味で力という
ことが出てくるのでしょう
最後は子供のように
遊びも仕事も区別がなく
すべてに遊べる
こういう心境になれば
八地、仏の境地
なのではないでしょうか。
努力、
「力」という字は仏教では
とても重要な意味をもって
います。
この場合は「リキ」と発音
します。
自力・他力、とか
日々のお経の中では
「三力偈」(さんりきげ)
という文句があります。
以我功徳力イガクドクリキ
如来加持力ニョライカジリキ
及以法界力ギュウイホウカイリキ
自分と仏と一切の縁ある人
そういうすべてのカらが
集まりものごとは成就する
というような意味です。
文字を見れば何となく
分かるようないい言葉です
それから『観音経』という
中には「念彼観音力」
(ねんぴかんのんりき)
というフレーズが
繰り返し出てきます。
それから神通力、威神力
など、力という字は
よく出てくる言葉です。
十地経の中では
「上地というものに
勝れとるという意味を表す
のはこの力です。
この一段の経文で、
この力という字が非常に
大事なんです。
初地からずっとやってきた
行がですね、
第七地に満足したと、
満足したその力をもって、
その智慧の力をもって、
『第八地菩薩地よりないし
十地に至るんだと』
これが上地です、
八地から十地までです。
初地から積み上げてきた
その七地の力が、
その力によって十地までに
至ることができるんだと。
それで上地に対しても増上
勝れとると。
上地に対して勝れている
ということは、
前を受けて後を展開する、
そこに力、七地があるわけ
です。」
仏教の「力」というのは
パワーというような力
ではなく、
能力というような意味を
もった言葉です。
だからあくまでも
自分の修養の力という
ことになります。
五力(ごりき)という
ことがあります。
信力(しんりき)
勤力(ごんりき)
念力(ねんりき)
定力(じょうりき)
慧力(えりき)の
五つです。
信力は信仰の力、
勤力は努力の力、
念力は憶念不忘の力、
定力は禅定の力、
慧力は智慧の力で、
ここでいう「力」とは
悪を破るのに力がある
力リキというのです。
そしてその力も
外から持ってきたものでは
なく、自分の精進努力の
力なのでしょう。
そこで、講義では
努力が満足したということ
を自然ジネンという、
努力が自然に行えるという
そういうことを
純熟ジュンジュクとい言葉で
表現します。
純熟、何かいい言葉です
熟するというと、
成熟、豊熟、などという
言葉もありますが
習熟という言葉もあり
純粋に熟するという純熟
熟し方もこうでなくては
「自然ジネンはですね、
純熟したというような意味
ですね、
もう修練を積んでですね、
もう念念に一刹那も道を
離れたことがないと。
寝ても覚めても
道とともに歩んでいると。
こういうのが、つまり、
これから努力してやるぞ
というもんじゃない。
努力というけども
それはもう生活そのもの
なんです。
それも一つの自然ジネンと
いえんこともないと
思うんですけど、
それは純熟したという
ような意味ですね。
努力しても
努力の意識がないという
努力しても、…
どういったらいいでしょう
努力するという意識という
のもやっぱり、修練の結果
としてそういうものが
ないんだ。
よく身についた、
ということが、世間でも
学問でも何でも
身についたというような。
考えとる間は身につかんで
心にはあるけども。
心にあるような努力じゃ
これはすんどるでしょう。
そうじゃない、
もう身についとるんです、
努力が。」
何でもそうですが
身につくという
取って付けたような振舞
でもなく、
それこそ自然に行える
何事もそこまでやるという
何か、七地ということの
意味があるようです。
こういう歌があるのですが
お寺に行ったりして
お話を聞く、その時は
何となく、そうだ、そうだ
と頷くのですが
お寺の門を出る頃になると
いい話だったけど
果たしてそうかなと
ちょっとした疑いの心が
出てきて
家に着く頃には
話しはそうだけど現実と
なるとそうはいかんよねと
すっかり元の木阿弥と
いう事になりかねません。
ある人が、
お話を聞いている時は
なるほどとよく分かるのに
家に帰るとすっかり忘れ
元のようになってしまう
どうしたものでしょうか
と聞いたそうです。
するとその答えが
あなたの頭はざるのような
もので、水に浸けている時
は一杯入っているのです
ざるを上げると
水は全部出てしまう。
そのようなもので、
そしたら
ざるを水の中に浸けて
おけばいいというのです。
つまり、
時たま聞くだけでは
教えもすぐに落ちてしまう
私たちの頭も
教えの中に浸りきりに
なれば忘れることもない
ということです。
その反対で
よく先生はパチンコの話を
されるのです。
何も、
パチンコが悪いのではない
パチンコばかりしていると
頭がパチンコ的な頭になる
そこが怖いというのです。
現代の
功利的な考えからいうと
自分のノルマさえ上げれば
後は遊んでいてもいい
という事になるのですが、
理屈からいえばそうとも
言えますが、
ところがそうはいかない
もので、
虎視眈々と狙っていてこそ
チャンスは生まれる
ものです。
また講義では
「パチンコへ行っていても
ですね。
パチンコへ行くのは
菩提心があるから行くんで
菩提心があっても
それが成就せんでしょう。
えーい、やけくそだって、
やけというのは、
純粋だからなんです。
純粋なものを持っとるん
だけど、純粋がどうも
展開せんのです。
まあそれは、あきらめる
というわけにかんもんだ。
それで、
もうパチンコぐらいで
ごまかすというような、
そういう具合になるんじゃ
ないかと思うです。
パチンコみたいな、
そんなとこいかんというの
は、そりゃよっぽど悪党や
はや、古狸ですね。
年寄りですね、
そろばん弾いとるのは。
算盤なんかあわんでも
行かずにおれんというよう
な、そういうところに、
これは。
年寄り行っとるんか、
パチンコ、どうやね。
僕はのぞいたことがない
から、行っとるんかね。
〈あれは純粋な年寄りが
行ってます〉。
行っとるんか。
そうかも知らんね。
まあ青年とか老人とか
いうのはね、
この普通の生理的な意味
じゃなしにね、
がありますから。
だからして
全然宗教心がないという
人はないと思うんです。
人間そのものの構造だと
思うんです。
宗教心のない人というのは
ないもんだ。
ただ、それがみんな
何か他のものに、
覆われとるんだと
思うんです。」
あるとき、講義の席に
お酒に酔って来られました
一番前の席に陣取り
しばらく
聞いておられたのですが、
どうにも睡魔には勝てず
「先生今日は帰ります」
と、
席を立っていかれました。
なんと失礼な、
と思ったのですが、
「あの君は純粋だからね
酒でも飲まずには
おれんのでしょう。」
と言っておられました。
先生の人を見る眼の深さに
驚いたことがあります。
まあ、寝ても覚めても
考え続ける、思い続ける
というのが第七地でしょう
今更ながら
読み返していくと
本当に聞いていなかった
という事が
思い知らされます。
真剣に聞いて実践して
いたならばもっと
色々なことが上手に
運んだと思うのです。
「初地からずうっと
一本調子というのではない
ここに何か大きな、
真中に難関というよな、
まあ昔の言葉でいえば、
七地沈空の難
というものがあるんです。
それに必ず出会うと。
出会わん人は、
七地に入っていないんです
わしは十地に入っとる
つもりだけど、
沈空にまだ出会わん
といったら
入っとらんのです。
つまり何もやってない
のです。
人間は、
立ち上がるというのが
初歓喜地なんです。
立ち上がるということが
ないといかんですね。
いつまでも何か
待っとるということじゃ
だめですね。
まず立ち上がるという。
第一、地という字は、
これはいってみれば
スタンドポイントというか
立脚地でしょう、
立つという。
だから地は、
向うから来るのだけど、
立つのはこっちじゃないと
困るね。
立つまでも、向こうから
もらうというわけには
できんじゃないか。
地に触れれば
我々は立つんです。
そういう立つ、
しかし立ったら、
必ず何か、
そこでね、
壁にぶちあたると、
それでにっちもさっちも
いかんようになった
ということに出会うんです
これが立つにも、
立ち上がったのに、
まして大事な意義がある。
何も失敗のない人という
のは、何もしてない証拠
じゃないか。
やった人は必ず
失敗に出会うんです。
ちっとも失敗のないという
のは、何もやらん人の
ことですね。
頭で考えていたら、
何も失敗はないです。
まあおおざっぱなたとえで
いうとそのようなこと
になります。
十地がやっぱり一つの難関
に触れ、かつそれを超えて
いったと。
どうしても、考えてみても
こういうような難関という
ものは、教理から出てこな
いんじゃないかと思います
やっぱり実際の、
実践というものが
それを開いてくるんで
あってですね。」
考えてみると
私たちは立つ場所を
与えられているんですけど
なかなか分からずに
腰掛けて、座ってしまう。
立ちなさいと
抱きかかえられて
立たされても、
何かしんどそうといって
座り込んでしまう。
この講義を聞いていた頃は
いろいろ場を与えられた
ように思うのですが
それに応えられなかった
ようです。
今いる場所を
よく見まわしてみると
それなりに活躍する場所を
与えられているのです。
その場所を活かしきった人
は自分の力を出せて
自分の存在感を感じること
ができると思います。
ほんとうに、
やれば失敗するものです。
やったから失敗するのです
失敗したら実践したという
証拠なのです。
苦しいけど、
そこがまた面白味が
出てくる所でもあります。
この講義を聞きながら
あらためて
本当に聞いていなかったと
思い知らされました。