本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

身を運ぶということ

2019-06-30 20:50:25 | 住職の活動日記

毎月のお不動さまのお護摩は

決まっているので早くから飛行機を

予約していたのですが、

テレビとかの情報で気が付くと

なんとその日はちょうど

G20大阪サミットということで

高速道路はたぶん通行止め

ということで、急遽キャンセルして

新幹線に変更

久しぶりの新幹線での旅となりました

熊本につくと

 

 

ミッキーマウスが迎えてくれました

 

 

 

九州新幹線ではこういう列車が

走っているようです

 

 

まあ、意外なものに出会いました。

これもラッキーなことです。

 

台風3号が発生という

梅雨入りもしていないのに

もう台風か!

本当に異常気象です

 

それでも雨にもかかわらず

お不動さまにはいつものように

お参りの方がお見えになります

本当に有り難いことです

 

信仰は代わりがきかない

ということもいうようです

やはり自分の問題です

食事もそうですが

代わりに食べておいてといっても

代わりに食べた人は

腹は膨れるかもしれませんが

当の本人はお腹いっぱいになりません

同じように

信仰という自分の問題も

代わりがきかないのです

お話を聞いてきて

といっても聞いた本人は納得する

かもしれませんが

どういう話だったかということを

聞いても、それは

聞いた本人しか味わえない

ことがあるようです。

 

G20のサミットでも

わざわざ遠方よりやって来られます

この進んだ時代便利なものも

たくさんあります

テレビ電話でもインターネット会議でも

よさそうなものですが

やはり、面と向かうということが

大切です

色々万難を排して身を運んで

一堂に会されるのです。

 

やはり身を運ばないと分からない

ことがたくさんあるようです

顔を見ることで

色々なわだかまりも

解けるでしょうし、

顔を合わせることでまた話の展開も

出てくるようです

 

難しい話かもしれませんが

いつもの方々が

「勉強会」なるものに

お見えになります

こんな七面倒くさい話に

お付き合いいただけるのですから

有り難いことですが

やはり、足を動かし身を運ぶ

話す内容は

大体プリントするのですから

それさえ読めばそれでいいのですが

やはり、面倒な話でも

聞きにお見えになる

そこには聞くだけでなく

お不動様のおひざ元の空気というか

その場の空気を感じに

身を運んでこられるのでしょう。

 

やはり、面と向かって

その場の空気を感じながら

話を聞く、または食事をする

そういうことが

私たちにとっては本当に

大切なことのように思います。

 

地獄は言葉の通じぬ世界

人間は言葉を必要とする世界

仏さまは言葉がいらない世界

ということがあります

顔を会わし言葉を交わし

そうやっていらぬ誤解を解いて

解りあう世界を作っていくのでしょう

お互い人間同士でも

言葉が通じない世界になった時

本当に苦しいものです

 

話せばわかる

ともいいますが

話せば話すほど誤解する

通じなくなってくる

ということがあります

そこに人間の難しさもあるのです

 

だからこそ

身を運ぶということの大切さを

ひしひしと感じました。

 

 

 

 

 

 

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六堀(ろくほり)

2019-06-26 20:21:55 | 住職の活動日記

六堀、つまり堀川通六条のことで

ここにはいつもお世話になる

「井筒法衣店」さんがあります。

この井筒さんが経営するレストラン

「六堀」があります

 

 

なかなかお洒落なお店です

 

 

堀川通に面して二階からも

通りの人通りを見ることができます

 

 

二階の席に通されます

表とは打って変わって階段は

特徴のある色使い

 

 

こじんまりとした席もあり

 

 

ゆったりとした席もあります

今日は名物のオムレツを

 

 

先ずは立派なナイフが出てきました

オムレツを切るためのものだそうで

 

 

出てきたオムレツは

ボリューム感のある代物

言われた通りナイフを入れて

 

 

切り開くとご覧のように

中から半熟の卵がでてきます

今の私の腹にはちょっとたっぷりめ

お腹いっぱいになります

 

 

看板にあったように

色々の酒も取り揃えてある様です

お腹も一杯になったところで

この六堀には

通りに面して反対側に

「西本願寺」があります

 

 

ここも蓮の花が開き始めています

 

 

この蓮は咲き終わって半分の

花びらが落ちているようです

 

 

なんとも壮大なお堂です

木造建築としては日本一だそうで

国宝になっています

中に入ると

さすがこの大きさの建物

たぶん冷房はしていないのでしょう

けどひんやりと涼しく

お参りしながら汗の引くのを

待っていました

 

 

ここのイチョウも好きな木です

上に大きく伸びるのではなく

横広がりに伸びていきます

そしてまた紅葉の時が見ごろなのです

 

※お西さんもお東さんも駐車場も

 拝観料もいらないのは助かります

 信仰で生きているお寺ということ

 なのでしょう。

 

 

 

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半夏生

2019-06-25 21:04:07 | 住職の活動日記

6月24日は師匠の祥月命日

それはまた、

母の祥月命日でもあります

師匠の三回忌に出席していた時

時を同じくするように

母は一人で静かに旅立ちました

 

母のお参りをした後

師匠の墓参へ

久しぶりにお墓を磨きました

お参りした折、

簡単には掃除していたのですが

今日はたわしで丁寧に磨きました

知らず知らずのうちに

薄っすらと苔が生えかけています

それを落として

一応つるつるになりました

お花をお供えし龍華香を焚き

お経をあげました

 

ふと、

恩着せがましい仕事はせんでも

いいで!

という声が聞こえたような

いつも師匠の部屋の掃除をしていた

のですが

たまには休んでもいいかと

まあ、一日くらい

というつもりで

その日はちょっと遊びに行きました

帰ってくるなり

目の玉が飛び出るくらい

叱られました

たった一日休んだだけで

そこまで言わなくてもいいのでは

と、内心思っていたのですが

あてにならんような仕事はするな

ということなのです

たとえ一日でも

このことは強く心に残りました

 

それ以来

たのまれた仕事は手抜きせずに

しようと心に決めたのです

人はちょっとやると

どうしても恩着せがましく

なってきます

この心が障りになるようです

恩を着せていたら

人は成長しないようです

反対に、

恩を着ることは大変です

素直に、ありがとうございますと

恩を着るということは

なかなか難し

 

そんなことが思い出されました

 

 

そう思っていると

帰り道に「半夏生」の花に

出合いました

今いろいろのお寺では

この花が見ごろを迎えています

 

 

葉っぱが半分白くなる

半分お化粧したようなところから

半化粧(はんけしょう)

半夏生(はんげしょう)と

呼ばれるようになったようです

 

 

本当に面白い花です

ドクダミ科の植物

そう言われれば

葉をもう少し丸くしたような形が

ドクダミになります

季節は夏、梅雨も終わり

7月の1日ごろを指すようです

 

でも今年はまだ梅雨入りもせず

記録を更新中とか

どうも明日か明後日ころには

梅雨入りしそうです

 

 

ちょっと珍しい花の形の紫陽花にも

出合いました

そういうともう蓮が見ごろを

迎えるようです

 

 

大きな鉢のなかでは

白蓮がつぼみを膨らませています

ちょうどつぼみも膨らみ始め

未敷蓮華(みふれんげ)

という形でしょうか

菩薩がすわる座になります

まだ悟りを開く一歩手前

ということで蓮も開ききっていない

という形をとります

 

 

どちらかというと

この蓮の方が未敷蓮華に近い

のではないでしょうか

 

 

私たちはまだ固いつぼみか?

というより、いや

もっと下の泥の中の状態でしょう

 

それが仏、如来となると

開敷蓮華(かいふれんげ)

満開に開いた状態の花です

そして蓮の台(うてな)に座る

 

 

というように

花びらも落ちその額というか

台だけになったすがたです

 

蓮の花と紫陽花は

咲いてよし、又枯れた姿も

味わい深いものを感じます。

 

師匠も蓮の台に座って

私たちの生き様を見つめて

おられることと思います。

 

 

 

 

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ハイドランジア

2019-06-23 20:44:45 | フラワー

先日わが家へやってきたアジサイ

名札を見てみると

「ハイドランジア」

とあります

勝手にそういう種類のアジサイか

と思っていたのですが

学術名が「ハイドランジア」で

英語でいう名前です

 

まあ、アジサイが好きな私には

また別の呼び名が分かって

よかったのですが

紫陽花という名前も

新しいものかと思っていましたら

『万葉集』にも出てきて

「味狭藍(アジサイ)」とも

「安治佐為」という

表現でも出てきます

平安時代には「阿豆佐為」とも書かれ

藍色が集まったものということで

「集真藍」(アヅサイ)とも

書かれたようです

 

 

通りすがりながら

道端に咲いているガクアジサイ

あまり注目されないのでしょう

 

 

そっと密やかに咲いているようです

 

 

まだこれからという花もあります

紫陽花は美しいのですが

この木には毒があり

間違うと死に至る場合もあるとか

 

これとは反対に

似た花に「甘茶」があります

葉っぱはまるでそっくりです

けど甘茶は甘さがあり

薬になっています

普段はあまり飲みませんが

お寺では降誕会とかに

甘茶をかけてお祝いします

お釈迦様が生まれたとき

天地も喜び甘露の雨を降らした

ということに由来します

 

 

そういえば、アジサイの葉を食べる

虫はいないようです

不思議なことに雨が降ると

どこからともなく出てくるのが

カタツムリです

紫陽花に似合うのはカタツムリです

 

 

我が家のアジサイも

変化を見せてきました

しかし、

どことなく自然に咲くアジサイには

かなわないようです

 

 

白かったところもピンクに染まり

 

 

ピンクだったところは

緑から茶色に代わっていく

途中でしょうか

せっかくわが家へ来て

申し訳ないのですが

作られた色のアジサイより

野に咲くアジサイの方が

風情があるようです

 

我が家ではこれから

あまり手入れも行き届きませんので

次第に自然のままに野趣あふれた

紫陽花に代わっていくことでしょう

花だけの鉢植えでしたが

段々横から葉が顔を出し

自然のままの生きる姿を

見せてくれているようです

 

冬になると

茶色になった枯れた姿を現し

それはそれで趣があるのですが

そして新しい新芽をつけてくれます

そういう姿も楽しいものです

咲いてもよし、

枯れてもよし、

その時々の姿を見せてくれるのが

紫陽花です。

 

 

 

 

 

 

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死ぬまで毎日よ!

2019-06-22 21:10:48 | 住職の活動日記

エゴスキューの先生の言葉です

いつものトレーニングで

「死ぬまで毎日よ!!」

という檄が飛ぶらしいんです

エゴスキューというのも

よくは知らないんですが

彼女のやってているのを見ると

ヨガにも似てるとことがあるし

簡単のような

見ていると私たちの体は

自然と癖のようなものがって

自分の好きな方に傾いてきて

ゆがみが生じる

それを元に戻すというよな

姿勢を取って

人間のゆがみを直す

というののようです

 

これでいいと安心してはいけない

癖はなかなか元には戻らない

だから日々鍛錬

死ぬまで毎日続けなさい

ということなのです

 

赤ちゃんを見ていても

そう思うのですが

知らず知らずのうちに

寝ぐせというか

どうも好きな方に向いて寝てしまい

気が付けば

頭の形がいびつになっています

髪の毛で隠れていますが

人間の頭の形は結構

ゆがんだ形になっています

最近では

そうならないような器具も

出来ていて

赤ちゃんの時からヘルメットの

ようなものをかぶっている

子供さんを見かけます。

 

「死ぬまで毎日よ!」

という言葉も

ふと思うと、ドキッとする

言葉でもあります。

 

十地経の講義の中でも

「願というものは無限に求めて

 止まんものが願です

 願が終わることはないんだ」

と言う言葉が出てきます

修行ということも

終わりのないことを見出すという

ことが修行ということです

これで一段落ということはない

 

「どこまで~?」

と思うかもしれませんが

本当はやればやるほど

やることが見つかってくるというのが

修行ということです

だから、

「どこまでやれば」

という消極的な考えではなく

もっと、もっと、と

求めることが湧き出てくるのが

修行なのでしょう

 

『十地経』のなかで

楽足という言葉が出てきます

ちょうど、七地から八地へ入って

菩薩が満足するんですね

それで、

楽足する菩薩に声をかける

諸仏の激励です

諸仏はその菩薩に呼びかけると

その満足していることを

仏法は無限であると

ところがお前は、

そこらで満足するのか

まだ得ざる仏法は無限なんだと

得たところで満足するなら

無限のものを失うことになるだろう

そういう呼びかけが

出てきます

 

菩薩ですらそういう難関

もうここらでいいだろうと

満足してしまう

その心を打ち破る諸仏が出て

励ますという

経典でもそういうことが出てきます

まして、

私たちにとっては

ちょっとやっただけで

満足してしまい

まるで完成したかのような

錯覚をしてしまいます

 

そのような中で

「死ぬまで毎日よ!」

という響きは新鮮でもあり

ハッとする言葉でした。

 

 

 

 

 

 

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ご褒美をいただく

2019-06-21 20:59:09 | フラワー

フラワーアレンジの教室も

回を重ねるごとに

いろいろのご褒美が準備され

今回は花器

 

 

なかなか面白い器です

こういう企画も

生徒さんには励みになるのです

 

 

そして今日のお花は

白い枝が縦横に伸びて

花に動きを与える

役割をしているようです

 

 

ちょっと上からのぞいてみると

生き生きとした花の姿が

見えてきます

 

本当は先ほどのように

真正面の花と平行な位置から

見るのがいいのでしょうが

普段見る姿は

やや仰ぐような立ち位置から見る

姿です

 

 

行ってきますと

振り返ってみる花の姿

可愛い姿で送り出してくれます

 

 

ただいまといって

靴を脱いで上がると

こういう姿で迎えてくれます

あまりに美しい姿に

振り返ってのぞき込むと

 

 

また、こういう表情を

見せてくれます

 

ほめるという字も面白く

衣編の字です

衣という字を上下に割って

その間に保という字が入っています

「褒」

ですから本来は着物の意味

わきの下にマチを入れて

脇裾を広くした衣のことです

それからほめたたえるという意味が

出てきました

何々褒章と言う言葉や

毀誉褒貶(ほめたりけなしたり)

と言う言葉がよく使いますが

褒美と言う言葉は

なんとなく美しい言葉ですね。

 

 

 

 

 

 

 

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『十地経』に出てくる「即位」ということ

2019-06-20 20:40:18 | 十地経

安田先生の「十地経講義」で

心に残っている言葉のなかに

「即位」ということがあります

今ではもっぱら天皇の即位という

ことで使います

しかし、仏に即位するとか

菩薩に即位するというようにも

仏教語としても使われます

 

ちょうど読んでいるところで

出てきましたので紹介します

「凡夫に菩提心が起きたとき

 菩薩に即する」

と結論的にですが、

その前に、

修行の段階として五つあって

資糧位・加行位・通達位・修習位

最後に究竟位ということです

資量位(しりょうい)は

 仏になるもとで、資糧ですから

資生堂の資生も生活のもとでと

なるもの、

そういう思いでネーミングされた

のでしょう

というこでこれも仏教語です

修行ではひたすら善を積むという

目に見えない修行の実践

 

加行位(けぎょうい)は、

資量位で積み重ねた善をさらに

修行を加える、という

 

通達位(つうだつい)は

初めて真理を体得したという

十地経では「初歓喜地」

見道にあたります

初めて真理を見たという歓喜

通逹というのは

その道に通じた達した

ということです

 

修習位(しゅうじゅうい)は、

修というのは繰り返す

ということですから

これからが本当の修行が始まる

ということでしょう

『十地経』でいうとここからが

第二地が始まっていきます

『十地経』では修道ということです

 

究竟位(くきょうい)は

仏の位です

究竟は究極ということで

仏教の最終目的大涅槃のことを

究竟涅槃といいます

横文字ではアルティメイト

というのでしょうか

アルティメイトコンサーン

という究極的関心と

宗教問題ということで

人間にはいろいろの関心事が

あるのですが最終的な関心事

何のために生まれて

何をして生きるのか

という究極的関心です

 

という五つの位があって

修行が進んでいくと

それぞれの位に位づけられる

ということがあります

 

そのことを講義では

「衆生に菩提心が起こった時

 その菩提心によって

 衆生は初地に入ると

 衆生が菩提心を起こすというと

 この衆生に起こった

 菩提心がその衆生を

 菩薩地に位づけると

 初めて衆生におこれば

 凡夫であった衆生を転じて

 菩薩という位に位づけると

 だから菩提心が起きたとき

 菩薩地に即位するのです」

 

菩提心、菩薩と繰り返し出てきます

面倒なようですけど

お経というものはこういう

同じ言葉が繰り返されるのです

一回でいいような気もしますが

そこが大切なところで

先生も同じようなことを何回も

繰り返し繰り返し

おっしゃっておられます

 

迷っている凡夫に菩提心が起きる

迷った心はどこまでも迷いで

菩提心は菩提心から起きる

その時凡夫という衆生が転じて

菩薩という位に位づけられる

という、

迷いはどこまで行っても迷い

途中から菩提に代わることは

ありません

何かしらやっていると

いつの間にか仏の心が出てくる

と思うのですが

迷いの心の中にある菩提が

目覚めるのです

 

膝を叩いて、

なるほどそうかと頷いたとき

迷いの心が転じるのです

言葉ではなかなかいい表せない

のですが

私たちが何かやろうと

思い立った時

実体験として知らず知らずのうちに

菩提の心が芽生えるのです

 

言葉でいうと面倒になるのですが

実際行ってみると

何でもないことなんです

 

何かやろうと決めたとき

自分の心の中に異質なもの

今まで考えもしなかった心が

起きてくるということがあります

普通であれば

寝て楽して儲かることはないかと

思うのですが

そうではなく志を起こしたなら

たとえ儲からなくても

やりがいのあることなら

損してでも悔いないという心が

起こってくるのです

 

まあそういう時に

菩薩という位に即位する

ということです。

 

なんだか面倒なような話ですけど

申し訳ありません

自分にとってちょっと

ひらめくものがありましたので…

 

 

 

 

 

 

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宇治川の浮島(塔の島)

2019-06-19 21:27:34 | 住職の活動日記

宇治川にある浮島の護岸工事も

完成し、美しい公園になりました

 

 

右側が平等院方面

左側が今度護岸工事が完成した

浮島です

 

 

歩きやすいように自然な感じの

タイルも張られています

 

 

この朝霧橋を渡ると

左側に興聖寺、宇治上神社があり

橋の右側が平等院

美しい護岸になっています

 

 

この木々の向こうに平等院があります

ですから、

藤原頼通は宇治川を

六波羅蜜の川と見立てて

平等院を建立したということです

平等院の池が迷いの川ではなく

もっと大きなスケールで

極楽浄土を再現したようです

 

 

浮島には柿本人麻呂が詠んだ

 

「もののふの八十宇治川の網代木に

  いさよふ波の行へ知らずも」

 

という万葉集の歌があります

 

 

 

また、

鵜飼のウッティ君たちがいます

ここで人工ふ化したウッティー1号

最近2号も誕生したようです

宇治川は鵜飼いでも有名です

 

 

それから、向かいには

宇治川発電所

1906年創業明治39年です

宇治川電気といって関西電力の

前身の会社です

新旧混然と一体としてあるのが

宇治川です

 

大化2年(646)

僧・道登が架設した日本最初の橋が

宇治橋です

 

 

波が立つように流れは激しく

たびたび流失し

久しく途絶えていたのを

弘安9年(1268)

奈良西大寺の僧・叡尊が再建します

その時、

橋を構築するにあたり

放生会を修する祈祷の道場として

作ったのが浮島(塔の島)です

 

 

日本で一番高い十三重塔

叡尊がその祈願の為に建立し

「一度、卒塔婆を見るものは永く

 三悪道を離れる」

という経文からという由来です

開眼法要には亀山上皇も参し

大橋の落慶と供養が盛大に

執り行われたということです

 

 

塔高五丈八尺は五智如来

十三層は十三大会の諸尊を

表すといわれています

 

 

遊覧船もあり

ちょうどお食事の最中のようです

 

 

そのすぐ先は急流

 

 

このような流れで

この手前でUターンのようです

 

 

堤の木陰もとてもいい遊歩道で

ちょっとおしゃれな建物

 

 

自然に溶け込むように

表に回ってみると

 

 

スタバのコーヒー店です

宇治も古いものもあり

橋は646年ということで

新しいスタバもあり

千年以上の歴史が混在し

調和しながら生きている街です。

 

 

 

 

 

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認知症を学び地域で支えよう

2019-06-18 20:21:59 | 住職の活動日記

今月の宇治鳳凰大学の講義は

「高齢者と福祉」

ということです

中でも興味を引いたのは

やはり、「認知症」ということです

これからは

高齢化率が21%をこえると

超高齢化社会

宇治では平成22年に21.3%

国では平成19年に21.5%

ということです

そこで問題になってくるのが

年と共に成ってくる認知症

遅かれ早やかれ

誰にでもやってくる病気と

いうことです

 

こういう記事もありました

「もしも眠っている間に、

知らない場所に連れていかれたら?

目が覚め、

親しげに声をかけてくる人がいる

けれど

それが誰なのか分からない」

認知症になった人は

朝起きたときこういう経験を

するのかもしれない。

時間や場所、人との関係

自分の置かれている状況を

理解するのに支障が出る

「不安で仕方がない」

ということを経験するのでしょう

 

アルツハイマー病

脳が委縮していく病気

それから血管が詰まって

一部の脳が死に認知症になる

病気もあるということです

 

なるほどと思う図で説明があり

 

 

イソギンチャクにたとえ

若いときはいろいろの情報を

触手で取り入れ脳に蓄えて

必要な時そこから取り出すことが

できる

その触手も何かないかと

周りの状況を忙しく動き回る

それが若い時の頭の中でしょう

それがだんだん

年と共に

 

 

触手の動きも鈍くなり

必要な情報を入手できなくなり

それを仕舞い込むにも時間がかかる

そして取り出すにも時間がかかる

まあこれは正常な老化

ということです

以前息子から、

親父はなんでそんなに遅いんか

といわれたことがあります

自分では

以前のようにやっているつもりでも

傍から見たら

そのように見えるのでしょう

今でも

人の名前が思い出せない

歌でも知っているのに

曲名が出てこない

記憶の壺には入っているのに

さっと取り出せない

 

これだったらまだしもいいのですが

病気になると

 

 

触手の動きも衰え

新しいことを記憶できない

ちょっと前に

聞いたことや見たことを

記憶の壺に入れらなくなって

くるのが病気です

それがさらに進行してくると

 

 

今のことはすぐに忘れても

案外、昔のことはよく

憶えているものですが

更に進むと

それさえも、昔のこと

妻や子供のことも

「おたくはどちら様ですか」

という風に

なってくるということです。

 

ひとつの記事を

紹介しておられましたが

30代後半でアルツハイマー病になり

段々記憶がなくなっていく

それでも一生懸命に

生きようとしている

その時、

優しく見守って欲しい

ということです

それはさっき聞いたとか

また同じことを言ってとか

叱らないでほしい

新しい世界を見出している

のだからそっと見守る

ということが大切ということです

 

そして一緒に

 

 

こういう

「認知症サポーターキャラバン」

という輪っか

 

 

腕にはめるもので

認知症の講習を受けて

地域の人や家族に出来る範囲で

サポートができますよ

というしるしだそうです

 

サポートする方かされる方か

これから分かりませんが

まあなにはともあれ

よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

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朧車(おぼろぐるま)

2019-06-17 20:53:56 | 漢字

最近「龍」ということが

気になっていると、

そういえば、弘法大師も

都に雨が降らなかったとき

禁苑である「神泉苑」で雨乞いし

都に雨を降らせたという伝説が

伝わっています

守敏というお坊さんが法力で

日本のすべての龍神様を閉じ込めた

そこで弘法大師は

中国にいる「善女龍王」を勧請して

雨を降らせたのです

 

「龍」という字も色々に変化し

普通にはサンズイをつけると

「瀧」になります

これはよくわかるのですが

龍神様と瀧、気っても切り離せない

関係があります

ところが、

月をつけると「朧」おぼろ

全く龍とは関係がなくなってきます

「朧月夜」という歌もあります

 

「菜の花畑に入日薄れ、…」

と懐かしくもあり

個人的には好きな歌です

二番の歌詞で

「さながら霞める朧月夜」

と出てきます

 

また源氏物語では

「朧月夜の君」という人物が

登場します

桜を愛でる宴のときのこと

機嫌よく歌を口ずさみながら

歩いていたところ

心地よく酔った源氏

(本当は藤壺に会いたくて

 歩いていたのですが)

偶然に出会い、

流されるままに一夜をともに

してしまいます

夜が明けていく中

さまざまに思い乱れながら

朧月夜は源氏に名前も告げず

お互いの扇だけを交換して

その場を去ります。

(扇はその当時、とても大切な

 所持品だったのです)

その後、朧月夜は朱雀帝に仕え

無類の寵愛を受ける身になりますが

光源氏との逢瀬はその後も続きます

というくだりがありますが、

 

これが「朧車」となると

これは妖怪になってしまいます

賀茂の祭(葵祭)の見物で

牛車に乗って場所取りをする

牛車も色々形があって

装飾品も違うし、材料も違う

その形が一つのステータスの

ようにもなっていたようです

その場所取りで車争いが生じ

それに負けた人が朧車の妖怪

になるといいう

後ろの御簾が掛かっているところが

全面恨めしい顔の妖怪になる

というものです

 

またお寺では

「参籠」と言う言葉もあります

タケ冠に龍と書いて籠(かご)

普通に使うカゴも籠と書きます

その中でこもるという意味もあり

参籠と言う言葉も出てきたのです

 

こういう「襲」という字も

龍の下に衣と書きます

おそうという意味で使いますが

もともとは

衣という字が入っているので

かさねるということで、

上下の着物がそろっていること

ということです

そこから、

つぐ、という意味もでてきて

世襲とか襲名披露という言葉にも

使われます

そして、最後の意味として

おそう、ということも出てきました

今では着物を重ねるという意味は

なくなり、もっぱらおそうという

意味で使うことが多いようです

 

最近よく見かける言葉に

時の寵児ということがありますが

この寵という字もウ冠に龍です

本来はウ冠は家を表し

立派な建物ということから

神や天子から賜るほまれ(光)

の意味に借用し

そこからめぐみとかいつくしむという

意味になったようです

 

何でもないようなことですが

見て行くと

それぞれの意味の変化や深さに

驚かされるものです。

 

 

 

 

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