本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

穀潰しの、路傍の石に過ぎん人間が…

2022-01-31 21:30:11 | 十地経

難しいかもしれませんが

読んでみてください

 

「衆生の中に人もある。

だからして、

我々人間だけが生きとる

わけじゃない。

衆生はみんなが生きとる。

だからして

人間が別に偉いわけじゃない

 

生という問題は

死というものを抜きに

考えるというと、

あらゆる生きとるものの中で

人間が偉い、高等動物だと。

魚は人間に食われて

成仏するだけだ。

こんなように考えますね。

人間の特権のごとく考える。

山を削るのも、道路作るのも、

人間の特権だと。

それは人間がつけた理屈です。

魚はそんなこと承知せんわ。

人間に食われるために

生きてきたんじゃない。

 

生きとるものは

みんな生きとる、

何も人間が偉い

ということではないけど、

けどね幸せだということが

あるんです。

偉いというんじゃない。

何でかというと、

生きとるということを

考え得るから。

 

そしたら、

人間が自己の生というものを

あきらめ死をあきらめたら、

一切衆生の生と死が

超えられるんです。

それが一切衆生を超えさせる。

一切衆生の問題は

人間一人に引き受けて

解決するという機会が

与えられたことが人間だ。

それで、

かたじけない

ということがいえるわけだ。

人身受け難しいますでに受く

というのは、

かたじけないという意味だ。

そこに

生という問題があるでしょ。

 

この生という問題を離れて

浄土というのはない。

浄土というものは

呑気なもんだ、

死んでからあとの、

生きとる間は生きとる間で

うまいこと、

死んでからなお欲を起こして

というような話でない。

やっぱり生死の問題から出とる

生死の問題から浄土という問題

も出てきとる。

つまり

不生不死なんでしょ、浄土は。

不生不死の中に

生死を見出してくるんです

意味をね、意味です。

 

それで、

そういうものに到達して、

始めて生まれて死ぬる

ということがですね、

一つの大きな象徴になって

くるわけです。

我々は、

不生の生に生き、

不死の死を死んでいくんだ。

 

生死に悩んどる人間

というような問題を総合して、

生死をあきらめて、

そしてそこに

生死を超えさせていくという

一つの原動力でしょう、

願といったら。

願心荘厳というようなのが、

だからして、

究極的な意味になる。

 

本当いったら、

穀潰しの、路傍の石に過ぎん

人間がですね、

浄土を荘厳するというような

ことができやせんのですけど

… …。

 

Teilnehmen(タイルネーメン)

という言葉がありますが、

何か、

与えるというような意味です

参与するとか。

荘厳浄土するという

力あらせんけど、

それに参与できるという

意味ですね。

それはもう何か

身に余る光栄じゃないかね。

我々が、

穀潰しの我々がですね、

荘厳浄土という超世界的な

事業に参与できると。

 

こういうのが

人生の究極の結論じゃ

ないかね。

 

浄土へ行って安楽だと

いうようなことじゃないんだ

人生は苦しい、

苦しいのが嫌なんじゃない。

苦しくても

苦しい意味が見つかれば、

喜んで苦しんでいこうと。

その喜んで苦しいという

意味が荘厳浄土や。

永遠に流転に耐えていこうと

その荘厳浄土という意味が

見出されるならばです。」

 

究極の問題が提示されている

ように思います。

 

 

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仏になりつつもて行く

2022-01-29 19:34:20 | 十地経

行ギョウということが

なかなか難しい問題で

どうも翻訳しにくい言葉だ

そうです。

ある時、

比叡山の千日回峰行を

海外のテレビ局の取材で

ワンサウザンド

ハードトレーニング

と訳していました。

どうもしっくりきません

向こうの方から見れば

行はハードトレーニング

ということでしょう。

 

十地経の講義では

ないのですが

このことについてこのような

・言葉に出会いました。

「行者という意味ですが、

鈴木大拙先生が『教行信証』

の行を英訳されている。

教・行・信・証とあるが、

一番難解なのは行なのです。

教も信も証もだいたい

中アタらずと雖も遠からず

という概念は見つかるのです

が、行はなかなかないのです

 

行はドイツ語のタート(Tat)

がいいのではないかと、

英語ではアクト(act)ですか

こう思っていたのです。

普通一般には

プラクティス(puractice)

という訳語をあてるのです。

しかし

どうもそれではまずいと、

何か実践箇条、箇条書き

みたいになる。

 

鈴木先生は

リビング(living)という

訳語を与えられた。

鈴木訳の大きな特色です。

リビングの ing というのは

英語独特の、

英語がもっている非常に

特色のある進行形です。

ドイツ語にはないのです。

道元禅師の『正法眼蔵』の

中にやはり、

「仏になりつつもて行く」

というのがある。

 

仏であるとか仏でないとか、

そういうことは言わない。

仏になりつつ行くと、

なりつつということがある。

信仰は信じてしまった

というものでなく、

永遠に過程だと、

こういうことを言われる。

「白道」という言葉が

あるでしょう、

人間は道なのです。

道を歩くと言っても、

人間が歩けばそれが道に

なっていく。

 

ニーチェに

ユーバーメンシュという

言葉がありますが、

人間を超えていくものが

人間なのだと、

人間が人間を超えていく過程

ユーバーメンシュだ。

ニーチェは「橋」という字を

使っています。

善道大師は「道」という字で

表している。

固定したものではない、

無限に自己を破ていく

ものです。

それを求道心というのです。

 

そこへ停滞したら

その人の思想は止んだのです、

止んだら、

そこで堕落が始まるだけです。

だから、ing ということで

行をリビングと訳すなら、

行者は生活者という意味でしょう。

信仰は生活者を生み出す。

 

以前、ティリッヒが日本へ

来られた時の話ですが、

東京でいろいろな仏教学者に

会ったが、

しかし

仏教の学者はおられても、

仏教に生きた人がいない、

仏教の学者はいるけど

仏教を生活的に分かっている

人がいない、

つまり仏教を身証している人

がいない。

京都にはまだそういう人が

おられると、

こういうようなことを言って

おられた。

だからして、

仏教に生きている人が

なければ何もない。

 

それでは仏教に生きている

人はどうして生まれるのか。

 

これが教学の問題、

大事なことです。

仏教に生きている人を

どうして作るのか。

それで教育という問題が

大きいのです。

大きいけれども、

今の幼稚園から大学まで、

真の生活者を作る教育は

ないのです。

ないというより、

いろいろ模索している。

ないと言って馬鹿にしている

意味ではない。

ほっておけないのですから

いろいろ真面目な試みがある

政治とか経済とか

言うけれども、最後は

人間の問題になる。

人間の問題なら

教育でしょう。」

 

とあるのです。

人間の問題となると

宗教と教育ということが

重なってくるのです。

とても響く言葉でした。

 

 

 

 

 

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コギト・エルゴ・スム

2022-01-28 20:32:34 | 十地経

「コギト・エルゴ・スム」

(cogito.ergo.sum)

デカルトの有名な言葉で

日本語では

「我思う故に我あり」

といいます。

いろいろ懐疑的に疑っても

その疑っている私がある

ということは疑えんだろう

というような意味です。

 

ちょうど講義では

「デカルトは

『我思う故に我あり』と

いうことで、

思惟ということで、

思惟する自己、

自己とは思惟するものである

が、

そういう私があると、

である私があると思惟する

私が存在しとる。

私がある。

私であるという意味もある。

私は何であるか。

思惟するものである。

そういう私がここに思惟する

ことにおいて、

… があるわけです。

こう言って、

デカルトのああいう

有名な言葉がありますけど、

何かちょっと

もの足らんところがある。」

 

デカルトは1596年~1650年の

フランスの哲学者です

それより1000年も前の

アウグスチヌスの話が

出てきます。

アウグスチヌスは354年~430年

の人です。

 

「これは古い話ですけど

アウグスチヌスに『神の国』

という本がある。

三位一体ということを

述べている本ですけど、

その中に非常に哲学的な要素

を含んどる部分がありまして

こういうところがある。

(第一)私は私が存在する

ということを知っています。

第二には、その存在する

ということを知る

ということを知っています。

(第三)更に、

存在するということを

知るということを知って

これを愛します、と。

三つある。

あるということと

知るということと

愛するということと

この三つで非常に深い問題に

触れてます。

デカルトは初めの二つを

おさえた。

あるということと

知るということ。

我思う、

だから私はあるとこういう。

 

思惟が存在であると、

こういう認識というのが

今の哲学では根本智になる

わけでしょうね。

唯物論とか唯心論とか、

それは第二義的な話なんです

やはり唯物論者でも

承認せんならんような真理

がある。

それが、

存在するということは

知るということだと、

こういうことは

唯物論の立場に立っても

承認せんならん前提になる。

 

すぐそれは観念論だと

いうわけにはいかない。

デカルトは二つを言ったけど

アウグスチヌスには愛する

ということがある。

そういうようなところが

やはりなにか、

デカルトよりも

アウグスチヌスの方が

深いものをもっているという

感じがする。

思想家として。」

 

空とか智とかいう話しが出て

デカルトとか西洋哲学の

「知る」ということが出てくる

のですが

知る、智といっても

あらゆる方面から

見ていかれるところが

面白いのですが、

 

「ある」ということも

「私がある」という

以前から気になっていたこと

で、

シナイ山でモーセが神と

出会う

あなたは誰かと

尋ねると、

神が「Ⅰ am who Ⅰ am」

と答える

「私は在りて在るもの」

ということですが

どうもわからなかった

あるとき

子どもの話で

先生から名前を呼ばれた時

who Ⅰ am

と答えるそうです。

何かそこにヒントがあって

「私はここにいます」

というそういう存在を

名乗りを上げるような

感じがしたのです。

 

わたしがある

私があることを知る

そしてさらにそれを愛する

洋の東西は違えども

何か共感するものがある

ような気がしました。

 

 

 

 

 

 

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「知る」ということ

2022-01-26 20:13:25 | 十地経

物事を知るといっても

いろいろな知り方があって

よく三浦先生は

こういう譬えで

話しておられました。

 

水というものを知る場合

常温では液体

100度以上では気体

零度以下になると個体となる

と、そういう

科学的知り方もあれば

喉が渇いた時

飲んだ水の味はというと

何とも言えない美味しさ

という知り方もあります。

こういう知り方が

主体的真理であると

このように

話しておられました。

 

今では知ると言えば

科学的知り方が重要になって

主体的な知り方は

個人の問題としてあまり

重要視されないようです。

 

そのことを講義では

「空ということは

空ということを分別しとるん

じゃない。

空ということに触れた

ということは、

ノエマ的に空ということに

触れたということは

ノエシス的には無分別に

なったということです。

空というのもやはり

一つの真理、

やはり空ということも

知られたことなんです。

知られなかったら

何もあらせん。

空も無もない。

やはり空ということは

知られたことだけども、

しかし空と分別され、

対象的に知られたことじゃ

ない。

 

まあ主体的に

知られるといいますか、

実際いうと主体的に

知られるのは感という字、

感覚とか感情という字が

主体的な知り方

というものじゃないかと

思います。

感ずるのは

単に知られたんじゃない。

感ずるということは

知ったということと

反対の意味じゃなしに、

感ずるということが

主体的に知ることだ。」

 

先生の本に

『感の教学』という

ものがあったように

思いますが

感ということを

とても大切にしておられます

前の話にもあったように

知の世界は薄っぺらいもので

知るといっても

頭で知るのではなく

腹の底まで届き

腑に落ちるという言葉も

あるように

腹の底に響いてくる

そういう知り方が

本当の知り方です

「うなずく」という知り方

何かしら

聞法ということも

そういう話しの聞き方の

ように思います。

 

講義ではそこから

デカルトの

「我思う故に我あり」

という言葉から

知るということの意味を

掘り下げて行かれます。

 

 

 

 

 

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読誦(経を読む)

2022-01-25 20:39:29 | 十地経

日々の勤行

何も考えずに

日常の勤めとして行っている

あらためて

辞書を紐解いてみると

経典を文字を見ながら

読み(読)、或は

そらんじてとなえる(誦)こと

とあります。

「経は持って読め」

といわれたように

暗記していても必ず

経本を持って読む

というのが基本です。

 

その読誦も

いろいろな言い方があって

読経、転経、諷経(フギン)、

誦経(ジュキョウ)、諷誦(フジュ)、

看経(カンキン)、念経(ネンギン)と

経を読むといっても

その言い方には沢山あります。

 

さらに、

諸経典には

経典をとなえ

身にたもつことによって

得る功徳の大きい

ことを説いています。

経典を読誦することは

インド以来行われ、

主として経典の意味内容を

理解し実践するために

読んだのですが

後には読誦すること自体が

一つの修行と

なってきたのです。

 

そのことが更には

仏の前で経を読み

仏の徳を讃え

それによって願い事を

叶えようと祈ったり、

死者に読経の徳を差し向け

死後の幸せを祈る

ということが今の読経の

意味になってきたようです。

 

ところが

十地経の講義では

「経文は表現的です。

釈論の方は解釈ですから

分析的ですが、

経典は読誦するということを

言われています。

読誦は読むことじゃないかと

いうけど、

 

読誦というのは

そこに流れとる精神に触れる

という、感動する。

感動が読誦だと思う。

 

如是我聞……と、

坊さんが読むのが別に

読誦というもんじゃない。

なんぼどもっとってもよい。

流れるものに触れれば、

それが読誦だ。

経典というものは読誦すべき

ものでしょうね。

本当いったら、

直観力ある人には

解釈はいらん

というような性質のもの

なんでしょう。

 

『十地経』の経文は

十句で述べてあるように、

非常に洗練された経文だと

いうことは確かだ。

だからこういう

世親の厳密な解釈という

ものに耐えとる。

こういう立派な勝れた解釈が

できるということが、

経文自身が非常に

磨かれとる。」

 

経を読むという

毎日同じ経典を読む

時にはそらんじているので

経を見ることなく

読んでしまう。

つい感動というものを

なくしてしまいます。

先生が言われるように

丸暗記してすらすら読む

のではなく

たどたどしくても

経典に流れている精神に

触れるということが

大事なのでしょうけど

なかなかそういう事には

ほど遠いようです。

 

難しいもので

お経の文字を見ながら

意味をふと考えると

経文を間違えてしまいます

かといって

すらすらと読めば

精神どころか

お経に触れることすら

できません。

ただ、なんというか

響き、文字の響き

経文が持っている

言葉の響きのようなものは

何かしら響いてくるものが

あるように感じる時も

あるようです。

 

「感動が読誦」

ということは分からなくても

響いてくるものは

あるようです

お釈迦さまのお弟子方は

お釈迦さまの言葉に感動され

その感動されたことを

一つずつ実践されたのです

そういうことが

お経になっていったのでは

ないでしょうか。

 

経文に身を浸す

分からなくても

そういう事がまずは

大事なことのように

思います。

 

 

 

 

 

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離言の法性

2022-01-24 20:23:51 | 十地経

『離言の法性』

(りごんのほっしょう)

という、安田先生の本が

あったように思いますが、

この『十地経』では

無言の言という表現で

出てきます。

 

国土という問題が出てきて

その国土の主体は私たち

ですから国土という環境

その環境の主体は身ミ

ということです。

 

そこで講義では

「身があったから、次は

声が出てくるでしょう、

諸仏の音声は無声であると。

『諸仏の音声は無声にして

本来寂滅にして、

相を説くべからざることを

知って、しかも

一切の衆生に随って種々に

差別して音声を荘厳する

ところの行を起こす』。

種々に説法するという

意味ですね。

 

面白いことがある。

声というのは言葉です。

言葉というものは

本来いうと離言の言葉、

無言の言だというのが

言葉の本質。

こういう言葉、

経文でも仏教の教学でも。

 

有言の言だと

初めからいうと、

それは理論闘争がすぐ起こる

負けちゃおれん。

えらい汗かいて議論したけど

何のために議論したか

最後は分からんように

なってしまう。

何でも、

科学でも哲学でも、

そこらはどんなもんだろう。

このような無言の言だろうか

 

キリスト教神学の言葉なども

やはり無言の言ではなく

有言の言だと思う。

仏教はそういうことがない。

言葉そのものが離言なんだ。

 

学問なんかしとると

かえって同じようにしか見えん

論理的に正しい議論の方が

上だと、

沈黙したらあれは負けたと

いうように解釈するけど、

くだらん問題には

黙っとるのが勝ったんだ。」

 

維摩の一黙、雷の如し

ということがあります。

安田先生も最初の頃は

どうでもいい質問には

黙っておられました

質問した方の方が

返って顔を真っ赤にされて

おられました。

しかし、晩年には

若い学生の質問にも

丁寧に答えておられました。

 

講義の続きですが、

「言葉というものが、

本当の言葉か嘘の言葉か

ということは

その言葉がどこから出て

きとるかということが

大事なんじゃないか。

分別から出た言葉なのか

無分別から出とる言葉なのか

 

そこですよ。

そこには言葉を

色々分析しても出てこんので

何かそこに響きというものが

あるのかもしらん。

言葉の響き、

これが声、音声。

言葉には

響きというものがある。

言ってあるままが

もう言えないことが

言われてある。

そういうものが響き

じゃないかと思いますね。

 

響きなどというものは

頭なんかで受け止められん

ものだ。

響きは頭を越えて

腹のところまでいってしまう

感心なんかしとらん。

うなずくんです。

頭というものは

人間の存在の

一番うすっぺらな部分だ、

知の世界は。

感の世界はもっと深い。

知の世界を越えて

感まで響く。

知に響くということはない。

頭に響く

ということはないですけど

感に響く。」

 

分からないけど

心に響いてくる文章です。

たしか、

本蔵院の本堂の横にある額に

「感応」

という文字が

あったように思います。

「感応道交」

(カンノウドウキョウ)

という言葉もあります。

感に応じて道に交わる

何かしらいい言葉です。

 

 

 

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一切をやってしかも一事もやってない

2022-01-23 20:20:33 | 十地経

ここのところの経文は

「功徳の法を起こして

増上波羅蜜の行を作すも、

しかも法として

取るべきこと無し」

という文です。

何のことか分からない

のですが、

 

先生の説明は

「色々なことをやるけれども

やったという意識はないんだ

というわけです。

一切をやっても、

しかも一事もやっとらん。

やったという意識が入れば、

もうやったことにはならん。

本当にやった人には

やったという意識はない。」

 

というようになっています。

本当にやった人は

自慢することもなく

本当に謙虚な人だと思います

 

思い出すのは

安田先生自体ご自身で書かれた

という本は一冊もないのです

先生の話をテープに取り

それを書き起こして

本にして出版されたようで

それも有志の方々によって

最初はガリ版刷りのものを

読みたい方に配布された

というのが始まりです。

 

ある時、

先生の本も出版され

ある人の提案で先生の全集を

出版しようという話しが

持ち上がりました。

そのことを先生に話すと

そんなものは出す必要はない

ときっぱり断られた

というこいとです。

 

その時、

お経はお釈迦さまの話に

感動した人たちが作られた

のですよね! と

三浦先生が尋ねられました。

それはそうですね。

ということで

先生の話に感動した人たちが

集まり全集を出す運びに

なったのです。

 

先生も話の中で

トマス・アクイナスという

キリスト教の神学大全という

膨大な本を書かれた方が

亡くなる時、

あんなものは焼いてしまえ

といわれたということです。

この本も口述で書かれ

それは神が乗り移ったように

話しが次から次へと

湧き出るように飛び出してきた

ということです。

 

よくは分かりませんが

話している時が全てで

書き写したものは

もうカスのようなもので

もうそれは終わった話で

生きた話ではない

ということでしょう。

 

よく先生は

書きとる必要はない

目をみてじっと聞きなさい

と仰っておられました。

本当に感動したものなら

心に残るだろう

その感動した言葉を

一つでも実践することが

聞法することの意義だと

話しておられました。

 

話しは

えらい身近になりますが

女性の方を見ていると

日々の食事

誰に恩を着せることもなく

やった、してやった

ということもなく

されていることは

この経文の一文のような

気がします。

「一切をやってしかも

一時もやってない」

ということに当たるよう

ですね。

 

「雑事は仏事」

ということもあります

何でもないような

当たり前のこと

そういう雑事こそ

本当は仏さまの仕事

というわけです。

人が驚くような修行だけが

行というわけではない

ようですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国土は行によって作られたもの

2022-01-22 19:56:51 | 十地経

「むかしさむらいさんは

本気でチャンバラした」

と歌ったあのリズムは

歌舞伎の時の雪の降る音を

太鼓で表現した

ということだそうです

が、

昨日は朝から外を覗くと

 

 

深々と雪が降っています

この寒い日にネット環境の

設定にお見えになりました

 

 

まあ

下の道は大きな通りとあって

車は流れているようです

ネット環境も無事に

開通したのですが

この寒さのせい ?

パソコンがフリーズして

どうにもこうにも動かない

 

今日やっと

正常に動いてくれました。

 

環境も変わり

それなりにコンパクトに

生活するようになりました。

賑やかな街の中で

生活には何かと便利な様子

5分とかからない範囲に

すべてのものが揃っています

 

静かな環境もいいようですが

先生も講義の中で

「あまり環境が良すぎても

あっち見てこっち見て

良い景色と返って気が散り

勉強ができない、

雑踏の中の方が勉強できる

弘法大師も都の中に

綜芸種智院大学を作った

でしょう」

と、

そんな話をしておられました

 

どちらが勉強できるのか

分かりませんが

見たい知りたいところが

近くにあり

またまた、興味が膨らんで

くるようです。

 

講義の中で

「『善く一切の国土の道は

虚空なるが如きを知って

しかも荘厳浄仏国土の

行を起こす』

道といい行といい同じことを

言っているんじゃないか

国土というものは

ポンとあるもんじゃない

のであって、

行によって作られたもの

形成されたもの。」

ということが出てきました。

 

何かしら、

これからのことを暗示する

ような気がします

環境ということも

良い環境というものが

ポンとあるのではなく

日々の自分が行う行によって

作られていくのではないか

ということです。

 

浄土といっても

そういう世界がある

というのではなく

その浄土にいる人によって

作られていくもの

道とか行が出てくるのは

やはりそこに歩みがある

ということです

歩みもなく浄土という世界は

存在しないのでしょう。

 

行も歩みもなく

浄土という何の苦労もない

世界という、勝手に考えた

世界ではないのです。

道に則った行によってのみ

浄土という世界は

作り上げられていくものです

 

さらに詳しく

「道というのは

やはり因果を表す。

行が因であって

国土が果である。

因の行を通じて

国土の果に到り、

また国土の果というもの

を以て行の因にこたえる

というように、

因が果にこたえるから

道になるわけです。」

 

というように続きます。

国土というものは

ただ与えられた

というものではなく

国土は作られたもの

ということです。

何かしら

そういう楽天地があるように

錯覚していたところが

あるようです。

 

目から鱗が落ちるような

一文です。

 

 

 

 

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伽藍堂(がらんどう)

2022-01-12 19:47:44 | 住職の活動日記

引っ越しも佳境に入り

大型ごみで出すものは出し

家具調度品も片付け

孫たちの写真もおろして

何だか部屋の中が

それこそ、がらんどうに

こういう品々がなくなると

途端に生活感というか

無機質な空間になってきます

何でもないような写真や

雑多なものが

生活を彩り豊かにしていた

ということを思い知ります。

 

何もない広い空間を

「がらんどう」といいますが

漢字で書くと「伽藍堂」と、

本来は仏教語で

それもインドの言葉を音写した

というものです

サンガーマーラという言葉を

僧伽藍と音写し、

衆園とか僧院と訳しました。

そこから、

お寺の大きなお堂とか

建物を伽藍というようになり

七堂伽藍という

お寺の荘厳を言うように

なりました。

 

昔のお寺はやはり

お釈迦さまのお骨を祀る

塔が中心に据えられました

五重塔や三重塔を中心に

その周りに金堂や講堂、

僧堂が建てられました。

塔という言葉も

インドのストゥパという

お墓という言葉が

卒塔婆になり、塔婆となって

単に「塔」と略されたのです

昔のお寺の古地図には

五重塔婆と表記されています

 

お釈迦さまのお骨・舎利が

中心です

舎利という言葉もシャリーラ

の音写でもともとの意味は

小さな粒という意味です

そこから「銀シャリ」と

子どもの頃はご飯は麦や

稗、粟、薩摩芋などが入り

それこそ銀シャリという

これだけで

何よりのご馳走でした

 

それがもとになって

お釈迦さまのお骨を舎利と

仏舎利といいます

今、後七日御修法という

天皇陛下の衣を御祈祷する

という行事が行われています

その法要の中心は

やはり、仏舎利です

それで、舎利守という

お役目もあるほどです。

 

その五重塔も時代と共に

本堂に当たる金堂が

中心になり五重塔は

お寺の東西に建てられました

東寺の場合は

羅城門を中心に東に東寺の塔

西に西寺の塔が建立され

平安京としてみれば

左右対称に五重塔が

建っていたのです。

 

五重塔は

どこから見ても変わらぬ姿で

美しくそびえる塔は

お釈迦さまの教えが

ここにありますよという

旗印になっていたのです

 

七堂伽藍ということも

時代や宗派によって違いは

ありますが

五重塔、金堂、講堂、

食堂(じきどう)、

お坊さんの生活の場である

僧房、

お釈迦さまの教えを護り

伝える経蔵、

そして時を伝える鐘楼

などがあげられます。

 

いよいよ明日には

色々な器具の取り外し

ネット環境も外され

ここでのブログは今日が

最後ということになります。

 

私たちの生活に合わせた家

であっても

家というのも時と場所

その時々に合わせた

移り変わりを

していかなければいけない

ようです

それでも、

孫たちも楽しみ

友人達もたくさん泊って頂き

楽しい時を過ごせたのも

この家の働きなのでしょう

また新しくこじんまりと

動きやすいような生活に

なっていくようです。

寂しさもありますが

新たな出発でもあり

その楽しみを願っての

片付けでもあり

日々奮闘の最中です。

 

 

 

 

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世界という概念

2022-01-11 19:52:21 | 十地経

三世ということから、

過去現在未来という三世

講義では

「二世というものはひとつの

この、『世』というのが世界

つまり世界という概念も

いろいろあるけど、

この場合の世界というのは

世の中という意味の世界です

真理の世界とか、

文章の調子でいっとるだけの

話しで、

世界という概念は

二義も三義もある。

その時その時に応じて

世界概念は吟味せんならん」

 

ということが出てきました。

世界ということも

仏教辞書にあるように

仏教語としても重要な意味を

もっています。

 

普通には世界ということも

「世界は一つ」とか

いっていますが、

英語では World ワールド

もともとの意味は

人の一生とか寿命という

そこから人の住む土地

ということになったようです

しかし、世界は一つ

ということも

よくよく考えないと危険な

言葉のようです。

 

世界は一つ 

というのはいいのですが

その中心は誰になるのか

そういうことで

今、世界はいろいろ混乱を

きたしているのでしょう。

 

仏教でいう世界は

本来の意味は

「壊れるべき場所」

ということです。

「世」というのは三世と

いわれるように

過去・現在・未来という

時間を表すものでしょう

「界」は東西南北上下と

空間を表しています。

世界ということで

人間の住む時間と空間を

表現しています。

 

仏教は凄い世界観があって

一世界が千個集まって

小千世界、

小千世界が千個集まって

中千世界、

中千世界が千個集まって

大千世界、

この大千世界を三千大千世界

ともいいます

「三千大千世界」

この言葉は

よくお経にでてきます。

 

よく似た言葉で

「世間」ということがあります

略して「世」ともいいます

やはり、壊れるべきもの

という意味です。

こういう意味があるのは

世の中というのは

煩悩につなぎとめられて

存在しているもの

ということで、

壊れるべきもの

というのでしょう。

 

それで、

「世」ということには

否定され滅ぼされねば

ならない(対治)

うつろいゆく(不静住)

真理に背いたそらごとである

という(虚妄)の

意味があるといわれています

聖徳太子の

「世間虚仮・唯仏是真」

という言葉は

こういうとこらから

出てきたのでしょう。

世間は虚仮(うそいつわり)

である、

仏のみ真実であると、

 

これは

ほんの一部の解釈ですが

「世界」ということも

単なる空間と時間はなく

もっと人の精神面にも関係

してくる言葉なのです。

 

「三世」という

過去・現在・未来

「現在というものは、

過去に対する答えであり

未来に対する約束である」

という言葉のように

過去世・現在世・未来世

去来現とも已今当イコントウ

ともいわれ、

 

最近は「不透明な未来」

ということを言いますが

未来という言葉も別には

当来トウライともいいます

当マサに来るべき、

ということで、

未来は偶然に不透明に

やってくるものではなく

現在の中に内包されている

ということで、

当来ともいうのです。

 

現在の中に未来がある

そう考えると

あだや疎かに今という時を

過ごしてはいけないような

気がしてきます。

 

 

 

 

 

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