本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

分別と無分別

2018-12-19 21:20:50 | 住職の活動日記

仏教の場合、往々にして

一般の考え方と逆になることが

あるようです。

無学ということも

知識がない人を無学といいますが

仏教では、

もはや学ぶべきことはない

という、仏の位を無学といいます。

反対に

有学というのは世間では

学識経験者というように

学のある人のことですが

仏教では、

まだ学ぶべきことがある人と

迷いの世界にいる人を指します。

 

分別ということも

分別ある人という経験や知識ある

人のことをいいます。

無分別というと

考えのない人をいうようです。

 

ところが、

分別知と無分別智というと

逆転します。

分別知は迷いで

無分別智はさとりの智慧のことです

 

最近話題になっている

5Gを巡る米中の覇権争い

今使っている携帯は4Gという

そういえば

携帯はもはや電話というより

私の場合主に探し物をするネット

として利用していることが

多いのです。

5Gになるとそれが驚くほど進み

自動運転とか電化製品を動かすとか

ありとあらゆるものが繋がって

何でも携帯で済ませるという時代が

そこまできています。

 

先日の京都新聞「天眼」

佐和隆光先生が

「人工知能と暗黙知」という

ことを書いておられました。

人工知能AIが進むと

計算するという仕事は必要性が

なくなってくるだろうと、

会計士、税理士の人とか80%の

人が消滅するのではないかと、

しかし、

そこに長年の経験に基づく暗黙知

(言葉や数式では表せない知識)

こそが両仕業の極意ではないかと。

述べておられます。

 

知識ということも

ものを分別していく分析の力が

知識を深め研究も進んで行く

ということでは分別ということは

とても大切なことです。

分析がなければ

学問は成り立ちません、

直観だけでは。

閃きという直観も大切ですけど

それは長年の経験から出てくるもので

思いつきのような直観では

学問は成り立たないのです。

 

仏道の最初は

「初歓喜地」というように

仏道に会ったという直観です

ですから、歓喜、

喜びが湧き上がってくるのです。

その時に、煩悩までなくなって

しまったのなら、

十地という段階はいらないのです

初歓喜地という見道の智慧が

見つかった、それは大きな喜びです

そうであったかと!

しかし、

やっぱりそこにはまだ煩悩とか

いろいろのものがあるんです。

それを「夾雑性」(きょうざつせい)

講義の中で先生は

「雑夾性」とよばれています。

その雑夾性を克服して

無分別智を完成させていくわけです

 

分別知がなければ始まりませんが

それだけであれば

ある意味、AIの仕事になるでしょう

分析してビッグデータ―を集め

それを解析してより良いものを

見つけ出していく、

それは5GとかAIの得意分野

そこから、

AIにできない仕事は

見い出したものを

自分の経験値に照らし

それが「暗黙知」といわれている

ものでしょうか

その智慧を自分のものとして磨き

雑夾性を排除して

純粋な智慧に高めていくには

暗黙知の修行が必要なように

思うのですが?

 

これからAIの進歩により

人工の10~20%の人は失職する

といわれています。

そこには

今まで磨いてきた人間の暗黙知

そして、その智慧により

いかに自分の煩悩を克服するか

そういう問題もあるようです。

 

これからはAIのする仕事

人間がより人間らしく生きていく

自分の煩悩とどう向き合うか

そういう仕事を明らかに

していかなければならないように

思います。

 

これから経験したことのないような

時代が来るように思います。

驚きと警戒と自重と厳しさをもって

見守っていかなければ

ならないようです。

 

 

 

 

 

 

 

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