本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

わ~い、わ~い、さくら祭りだ!

2021-03-29 18:05:36 | 住職の活動日記

お邪魔した「奥村歯科医院」では

子どもたちがさくらの下で

わいわい賑やかに遊んでいます

 

 

みな、さくらの樹を見上げて

さくらの花が散るのを

楽しんでいるようにも見えます

 

昨日のお不動さまは

あいにくの雨

それでも、その雨のなかを

厭わずにお参りして頂きました

本当に有り難いことです

そのせいで、大分花も散ったと

思っていたのですが

 

「ちる桜 残る桜も散る桜」

 

というように

 

 

歩道の上は散った桜の花びらが

まだ踏み散らされなくて

美しいまま残っています

 

 

花びらが頭に落ちてきて

それがまた楽しいようにも見えます

 

 

竹馬に乗ろうとしている子

ここのお人形さんも

実に愛くるしい表情です

 

 

かざぐるまを置いて

花吹雪が面白いように見えます

そういう子供たちの楽しい風景を

見ていましたせいでしょうか

通りすがりに見たヤツデ

 

 

子どもさんの可愛い手のひらに

見えてきます

 

 

ヤツデも新しい葉は

何となく可愛く見えてきます

 

 

白川沿いの桜たちも

まだ半分ほどは花を残しています

新緑の若い葉も出始めています

 

 

この場所いつもでしたら

場所取りで賑わうところです

見られようが見られまいが

さくらは満開に咲き出しています

私たちは花を楽しむのですが

草や木々にとっては

花を咲かすのは一つのはたらきで

本来はもっと大きなハタラキを

見えないところでしています。

 

 

溢れんばかりの桜たち

通りすがりというものの

その下を通り

存分に桜の花を楽しみました

 

今年はコロナということで

さくら祭りはありませんでしたが

人形の子どもたちの姿を見て

自分の中で勝手に

「わ~い、わ~い、さくら祭りだ」

と楽しんでいました。

 

 

 

 

 

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分別と無分別

2021-03-28 17:51:53 | 十地経

「分別」と「無分別」

この言葉も普通使う場合と

仏教の言葉として使う場合とでは

まったく意味を異にするようです。

 

分別ある人といえば

物事の道理をわきまえて

正しい判断ができるような人を

いうようです。

反対に

道理に外れたことをしてしまうと

年甲斐もなく無分別なことを

してしまってと、

揶揄されることがあります。

 

ところが、

仏教で使う場合は

分別はヴィカルパという

言葉の訳で、思惟とも

計度ケタクとも訳します。

推量思惟するということです。

よく言われたのは、

「分別するな、計らいを捨てろ」

ということで、

あれやこれや自分勝手に

思うことを止めよ、

という意味で、

自分の小賢しい思い込み

ということで

分別ということは迷妄の所産、

虚妄分別コモウフンベツで

さとることは出来ないと

説かれています。

 

反対に、

無分別ということは

無分別智といって智慧になります

空のことを無分別智とも

いうようです。

本当のことを知るには

有分別を離れて無分別の

智慧を得なければならないと

いわれています。

 

庭掃除をしていると

いろいろな方がお参りに見えます

家族連れでお参りし

お供え物をして賽銭を入れ

皆さんでお参りしておられます

思いはそれぞれ違うかもしれません

勉強ができますように、

または、病気平癒を祈り

はたまた、宝くじが当たるように

願っておられるのかもしれません

 

祈る方としては

いろいろな分別をして

少しでもよくなりますように

祈るまでは色々あるかもしれません

ところが、

祈っているある瞬間、

手を合わせ、頭を垂れる

そのときには一瞬

無分別になるようです。

その証拠に

お参りした後、必ず

心が清々しくなるはずです。

 

最初は計算があるでしょう

しかし、手を合わせていると

何かしら一瞬そろばんが外れる

その時には、無分別になっている

ように思います。

 

最初はあれやこれや

自分勝手な思いが胸一杯になり

願うことも大変になるのですが

それが願っているうちに

次第にいろいろな思いも消えて

純粋に祈るということが

出てくるはずです。

その一瞬の出来事

心が無分別になる

そのことが大事なように思います。

 

縁はいろいろあるでしょう

その縁により

足を運び、仏の前に額ずき

手を合わせる

その行為が自分を

あれやこれや思う心を遠ざけ

本当の純粋な心が芽生えてくる

そのことを大事にされたと、

思うのです。

最初から純粋な心でお参りする人

はいないと思います。

 

無分別智も

加行智ケギョウチ・根本智コンポンチ

後得智ゴトクチ、というように

三つあります。

 

ですから、ただ単純に

分別・無分別と分けることは

出来ないと思うのです。

 

しかし、これも実践の問題で

やれば分かってくる

やっているうちに分かってくる

分別も徹底してやっていけば

無分別ということが

問題として出てくるのです。

 

何かの縁で足を運び

日参していたことが

自分の思いを超えて

自分の思いが打ち砕かれて

そのときに、

分別のいらない世界を

感じ取るということがあります

 

ここに、分別・無分別の

大きな転換があるように思います

 

 

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見渡せば 桜柳こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける

2021-03-25 21:29:56 | フラワー

我が家の牡丹

つぼみが膨らみ始めています

 

 

よく見ると

蕾の中心はピンク色に

染まっているようです

 

 

5輪ほど花がやってきました

待ち遠しいほど楽しみです

 

 

また、ピンカミノールも

たくさんの花を咲かせました

 

 

「見渡せば 桜 柳こきまぜて

  都ぞ春の錦なりける」

 

という素性法師の歌が

古今集にありますが、まさに

今はいたるところで花が咲き

春の錦のようです

これといって

花見に行っていないのですが

通りすがりに

花見を楽しんでいます。

 

これは16日御所へ行った時の

桜ですが

 

 

まだしっかりとした蕾です

しかしながら、この膨らむ姿は

いのちの勢いを感じます

 

 

もう今頃は

すっかり満開でしょう。

それからいつも気になっている桜

 

 

黒松に宿木した桜

黒松が倒れてからそこから根を張り

元気に成長して

もうもとの松の姿はなく

今は倒れたままの姿で桜が

咲いているのです

 

 

その桜もたくさんの花をつけて

今では御所の一つの名物に

なっているようです。

満開の桜もいいですが

私はこのつぼみの状態が好きです

 

 

ご近所を歩いても

白に真っ赤なボケの花

このコントラストもいいですね

 

 

ちょっとした空き地に植えられた

ムスカリもニョキニョキと

花を出しています

少し前までは気配さえ

なかったのに

顔を出し出したら

あっという間に咲いています。

 

 

この花も外国の花で

何とも不思議をしています

 

 

枯れた草の中から出てきた水仙

この場所は草刈りされ

そのためか短い花になってしまった

ようです

 

 

こっちを向いてくれたらいいのに

日当たりの関係でしょう

全部向こうに向いて

誰も見ていない方を向いて

私たちには関係ない

といわんばかりに自分の花を

咲かせているようです。

 

今はどこを歩いても

真っ白の雪柳や

それに合わせるように桜が

競演しているようです。

しかし、

あっという間に花も終わり

その次には美しい新緑を

楽しめるようです。

 

まさに、素性法師の歌のように

桜 柳 こきまぜて

春の錦なりける

という姿そのもののようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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鳥が空を飛んだ … !

2021-03-24 20:15:32 | 十地経

「鳥が飛んだという事実はあるが

 その後には何も残っていない」

 

ということをよく講義に中で

仰っておられました。

聞いた当時はまだ若く内容までは

よく理解できませんでした。

 

「鳥が空を飛んだ

 その後には何もない」

 

当たり前のようなことです

そこに何の意味があるのか

分からなかったのです。

 

今、「固執・我執・妄執」

ということが出てきて、

何かしら

わかるのような気がするのは

自分というものへの固執が

どうしても

取れないということです。

 

虎は死んで皮を残す

人は死んで名を遺す

ということがありますが

やはり、

自分が生きた証というものが

欲しいというか、

何かしら残しておきたい

そういう欲望があります。

中には自分で自分の

銅像まで作る人もおられます。

 

けれども、先生は

「そういうものは

 必要ないじゃないか

 生きたという事実はある

 それでいいじゃないか

 何を残す必要があるのだ」

ということを

話しておられたようです。

 

自分が確かに生きたという事実

それは何も

人に知らせるものでもなく

自分が自分で納得すれば

自分の命を全うすれば

それでいいのだと思います。

 

安田先生も一切、

本を書かれなかった。

聞いた人たちが心に響いた言葉を

本として出されたのです

全集を出版する時

先生はそんなもの出す必要はない

ときっぱりと答えられました。

そのとき、

お経も感動した弟子たちが

書き残したのですよね。

というと、

それはそうだ

感動したから口伝えに

伝えていった

それが書き止められお経になった

というようなことで、

全集を作成するということが

進んで行ったのです。

 

そこには自分で出すのと

感動した人が出すのとでは

大きな違いがあります。

 

最近思うのは

鳥が飛んだ後には何も残らない

ということが、

なんだかとても頷けるのです。

それでいいのではないか

何を残す必要があるのか

そういう生きたという事実は

自分が自分で知ることであり

そのことに自分が頷けたら

それでいいように思います。

 

しかしながら、

人間の固執・我執というものは

そう簡単に取れるのも出はなく

何だかだいっても

まだまだどこかに

執着というものが残ってくる

死ぬまでそれとの闘いでしょう。

 

まあ、

理想としては

生きたという事実はある

しかし、

後には何も残っていない

そういう人生を歩めたら

最高だろうなと思っています。

 

 

 

 

 

 

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いかなるが苦しきものと…

2021-03-23 21:33:09 | 十地経

「いかなるが苦しきものと

  問うならば

 人をへだてる心と答えよ」

 

という良寛さんの歌があります。

私たちにとって人と比べ合い

また、知らず知らずのうちに

人を差別しています。

今もいろいろなところで

この問題が問われています。

 

差別ということ

仏教語としては、「差別・平等」

と対句として出てきます。

また、仏教読みでは「しゃべつ」

といいます。

 

十地経講義でも、

「仏教の厳しさは、

固執に対する厳しさ」

とか、

「主観の妄執に対する厳しさ」

そして、

「主観の妄執というものを

どこまでも分析する」

 

ということが出てきています。

この固執、妄執ということが

差別ということを生み出している

ように思います。

よく、

「自分は差別なんか

したことがない」

と仰る方がいらっしゃいます。

 

それは、

自分に対する認識不足で

人は差別するもの

差別するという心の構造を

もっているということです。

 

人間の深層心理に

仏教では末那識(まなしき)

という心があるといっています

自他差別心とも言います

自分と他人を差別する心です。

ある面では

煩悩よりも大変な一面を

もっています

煩悩は方向さえ変えてやれば

煩悩即菩提というように

煩悩が菩提に変ずるという

欲望が求道心に変わる

 

道を求める、

それが自分だけ

ということであれば

自分さえよければ

という心(煩悩)が人のために

という心に変わってきたときに

菩提心という求道心になる

ということがあります。

 

自分と他人を差別する

それは、自分の思い込みや、

自分さえという、身に付いた

固執や妄執ということです

だから、

差別するなといっても

固執や妄執を打ち破らない限り

差別してしまうのが人間です。

 

その差別している固執や妄執を

破るのは、

破るという表現ですが

叩き壊して打ち破るのではなく

無生法忍という認識です。

 

「無生法忍は人間を解放する

ような智慧だけれども、

その智慧といっても神秘的な

そういう智慧じゃなしに、

あくまでも、分析を包んだ

認識だという、

厳密な意味の認識なんだ」

 

と述べておられるように

固執や妄執を破っていくのは

智慧による分析力の認識

ということです。

差別をしないということや

差別なんかはないということは

認識不足で

自分は差別するものだという

深い認識しか差別をなくす

方法はないように思います。

 

そういう認識に立てば、

「みんなちがって みんないい」

という、

金子みすゞさんの言葉になる

のでしょう。

皆が違っているという認識です

それが認識できたとき

違っているからこそ素晴らしい

ということになると思います。

 

「くさいろいろ

 おのおの花の手柄かな」

という、芭蕉の句があります

留別吟リュウベツギンといって

旅立つ時に弟子たちに

当てた句です。

みなそれぞれ

素晴らしいものを持っている

比べ合うことなく

切磋琢磨して励んでほしい

ということを表しているように

思います。

 

この固執という末那識の問題は

もっと深いものがありますが

この末那識により人間は苦しむ

ということです。

卑下するのも優越感をもつのも

この末那識の仕業なのです。

 

 

 

 

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いかなるが苦しきものと…

2021-03-23 20:58:49 | 十地経

「いかなるが苦しきものと

  問うならば

 人をへだてる心と答えよ」

 

という良寛さんの歌があります。

私たちにとって人と比べ合い

また、知らず知らずのうちに

人を差別しています。

今もいろいろなところで

この問題が問われえています。

 

差別ということ

仏教語としては、「差別・平等」

と対句として出てきます。

また、仏教読みでは「しゃべつ」

といいます。

 

十地経講義でも、

「仏教の厳しさは、

固執に対する厳しさ」

とか、

「主観の妄執に対する厳しさ」

そして、

「主観の妄執というものを

どこまでも分析する」

 

ということが出てきています。

この固執、妄執ということが

差別ということを生み出している

ように思います。

よく、

「自分は差別なんか

したことがない」

と仰る方がいらっしゃいます。

 

それは、

自分に対する認識不足で

人は差別するもの

差別するという心の構造を

もっているということです。

 

人間の深層心理に

仏教では末那識(まなしき)

という心があるといっています

自他差別心とも言います

自分と他人を差別する心です。

ある面では

煩悩よりも大変な一面を

もっています

煩悩は方向さえ変えてやれば

煩悩即菩提というように

煩悩が菩提に変ずるという

欲望が求道心に変わる

 

道を求める、

それが自分だけ

ということであれば

自分さえよければ

という心(煩悩)が人のために

という心に変わってきたときに

菩提心という求道心になる

ということがあります。

 

自分と他人を差別する

それは、自分の思い込みや、

自分さえという、身に付いた

固執や妄執ということです

だから、

差別するなといっても

固執や妄執を打ち破らない限り

差別してしまうのが人間です。

 

その差別している固執や妄執を

破るのは、

破るという表現ですが

叩き壊して打ち破るのではなく

無生法忍という認識です。

 

「無生法忍は人間を解放する

ような智慧だけれども、

その智慧といっても神秘的な

そういう智慧じゃなしに、

あくまでも、分析を包んだ

認識だという、

厳密な意味の認識なんだ」

 

と述べておられるように

固執や妄執を破っていくのは

智慧による分析力の認識

ということです。

差別をしないということや

差別なんかはないということは

認識不足で

自分は差別するものだという

深い認識しか差別をなくす

方法はないように思います。

 

そういう認識に立てば、

「みんなちがって みんないい」

という、

金子みすゞさんの言葉になる

のでしょう。

皆が違っているという認識です

それが認識できたとき

違っているからこそ素晴らしい

ということになると思います。

 

「くさいろいろ

 おのおの花の手柄かな」

という、芭蕉の句があります

分か分かれわれに祭

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仏教は妄執に対する厳しさ

2021-03-21 20:59:38 | 十地経

繰り返し出てくるのですが、

固執、妄執、執着という

その執をいかに打ち破るか

正確には打ち破るのではなく

その執ということを深く認める

その事実を知れば

自ずから執は消えていくと、

そこで、

「執」ということを

見てみると、

事物や理を固執して離さない妄執

迷執、執着をいう。

というように出ています。

さらに、

五蘊がかりに和合するところに

人等の衆生を仮説ケセツする

ということを知らないで、

人我即ち実我があると妄執するのを

人執、我執という。

ようにありますが、

辞書ですから難しい表現です。

 

一休さんの歌に

「拝借申す 四大五蘊

  お返し申す今月今日」

というのがあります。

拝借申すというのは

生まれてきたということで

人の身体は四大という

地・水・火・風の五つのはたらき

から出来ている

さらに、五蘊という色受想行識

色は物質的なもので

後の四つ受想行識は心の作用

そういうものが仮に集まって

人という体を構成している、

ということです。

 

それから、

お返し申すというのは

死んでいくということです。

仮設ケセツというのは、

借りに設定するということで

実際にはないのですが

そういってしまうと説明も

出来なくなってしまうので

借りにあるというように立てる

ということです。

 

人の身体は

仮に集まったものといっても

理解しにくい

事実ここにあるじゃないかと

いわれますが

それはよくよく見ると

地水火風や色受想行識が

仮に集まって人という体を

構成している

ということです。

 

そのことを、一休さんは

拝借申すと

私の身体は仮に借り受けて

この世に生まれてきたのだと

だから、

その時がきたら

お返しいたします

ということです。

 

それで、固執したり

俺が俺がと

執著する自分はないのだと

その妄執に対する厳しさ

それが仏教の厳しさ、と

いっておられます。

 

けどもなかなか取れないのが

固執であり我執です

人からちょっと言われると

腹が立つし、

これでも自分は何十年も

やってきたんだと

自分を立てて我執に執着するのです

なかなか素直になれない

そこに、

ちょっとやそっとの認識だけでは

どうにもならないものを

固執や我執や妄執を持っている

というのが私たちで、

 

「主観の妄執というものを

どこまでも分析するんだ。

後に一つでも残したら、

ちょうど堤防が蟻の穴から崩れて

いくように、崩れるんです。

ちょっとでも残したら。

なかなか死なんもんだ。

一遍はへこたれるけども、

ズーと内にこもってしまって、

それが機会を得たら

バァ―と爆発するもんです、

人間の妄執というものは。

息の根をとめんとあかんのです」

 

というように述べておられます。

ここのところは前にも書いた

ようですが、

分からないもんで

何回も出てくるようで

くどいかもしれませんが

まあ繰り返し繰り返し読んでいく

ことが大事と思いますので

このページは何日たっても

同じところを読んでいるようです。

 

 

 

 

 

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悔過・懺悔・布薩

2021-03-20 20:59:35 | 十地経

今は少なくなりましたが

お釈迦さまのときから続けられて

法要というのが

自分の犯した罪、

過ちを悔い改めるという

懺悔サンゲのお勤めです。

その中に定期的に行われたのが

「布薩」(ふさつ)という

お勤めです。

 

毎月、満月と新月(15日・30日)

に行われました。

布薩フサツというのは

ウポーシャダという言葉を

音写したもので、

直訳すると、長浄・長養・浄住

などと訳され、説戒ともいいます

戒律を説くという意味です。

この布薩会というお参りも大変

珍しく、今ではたぶん、

東寺で見ることが出来るできる

ようです。

その布薩の内容は

半月ごとに集まり罪があれば

告白懺悔する行事です

戒師という人がたてられ

「諸仏子諦聴タイチョウ」

という言葉で始まり

罪は犯してないかと尋ねます

儀式化してるというものの

お水取りの悔過とはまた違った

形式のお参りです。

 

ですから、罪ということが

宗教性の深さを表しています。

罪をどのように認識するか

それによって宗教の違いが表れる

ように思います。

 

『十地経』の第六地は

般若現前地ハンニャゲンゼンチです

般若が目の前に現れる。

智慧が表れてくるという

ことです。

 

講義では、

「般若が現前したその時

同時に大きな過失も現前する。

般若が現前した時に同時に

般若を失うような過失も生まれる

 

般若を得ておらない人には

意識できなかった、

夢にも考えることのできなかった

ような過失がそこへ現れてくる。

だから前にも言ったように

罪という概念は宗教的過失

ですけど、

それは信仰を得た人だけが

自覚する。

罪というものは

信仰のない人にはない。

ない人にまで罪だといって

やりだすと、それは教義でしょう

ドグマです。

すると反感をもつ。

人間を罪人扱いにするのか

というようなもんです。

そうかといって、

人間はおまえ偉いもんだと

いわれてみても

落ち着きはしませんよ。

それで喜ぶような馬鹿もおらん

だろう。

罪と言ったら怒るかもしらんけど

それならおまえ偉いもんだと

神さんだといったら喜ぶかね。

どうもなんか気持ちが悪いでしょう

そういうものがある。

それを得なかったときには

夢にも描くことができなかった

ものが自覚内容になってくる。

そういう過失です。

それが、般若現前するという。

般若は空と、

空の智慧が般若です。」

 

というように出てきますが、

罪の自覚というのは

宗教心をもった人だけに

でてくるものです

そこに、回心懺悔エシンサンゲ

ということがありますが、

今までの心を翻して

本当のことを求めようと

そういう心が起こるのは

懺悔という、

今までの自分の罪の自覚なのです

 

そこに大きな節目があるようです

今までの自分を

そのままにしておいて

回心ということは成り立たない

ように思います

悔い改めるという

そして心を翻し、

本当のことを真に知りたいという

欲求が起こってくる。

 

般若現前ということは

智慧によってあらたに自分の罪が

見出されてくる

智慧というのは自分の罪を見出す

ことになるようです。

 

智慧が進んでくるということは

新たに罪が見つかるということで

さらなる、修行が見つかる

というとことにつながるようで

そこに十地という歩みが

生まれてくるということです。

 

布薩・悔過・回心懺悔・智慧

十地経の修行の道程

こういうことがつながってくる

ように思います。

 

 

 

 

 

 

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菩提樹苑の醍醐桜

2021-03-19 20:16:54 | 住職の活動日記

今、見ごろを迎えています

熊本地震の復興を祈念して

植樹された「醍醐桜」

 

 

菩提樹苑の一番上

復興記念の梵鐘の横に植えられ

熊本市内を一望しています

 

 

淡いピンク色をしています。

秀吉によって植えられた

醍醐の桜

その桜を今の科学技術によって

住友林業が

クローン化に成功したのです。

ですからこの桜は

秀吉由来のクローン桜なのです

熊本では、

当院の菩提樹苑と、

熊本城を見つめている加藤神社

そして、

当院とのゆかりのある阿蘇神社

の三か所に植樹されました。

 

 

その桜が

今年は見事に花開きました

 

 

明日はちょうどお彼岸のお中日

お墓参りされた方々は

この桜を愛でてお先祖さまと

ご一緒に楽しめることでしょう。

他にも

菩提樹苑には沢山の桜があり

 

 

ちょうど見ごろを迎え

何よりも素晴らしい

ご先祖さまへの

送り物となりました。

 

暑さ寒さも彼岸まで

ということでしょう

今日も熊本は20度を超える

暖かさとなりました

一気に春の陽気です。

 

暑くもなく寒くもないという

仏教でいう中道を表現しています

中道、真ん中の道

ということもありますが、

どっちつかずということではなく

まさにこの日

という意味があります。

 

仏道精進するには

まさに、

このお彼岸の七日間です。

お寺にお参りしたり

ご先祖さまのお墓に参る

普段の忙しさにかまけた日々を

振り返り

本当の自分自身を見直す

絶好の機会なのです。

 

心豊かにお参りいたしましょう。

 

 

 

 

 

 

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お水取り・修二会・十一面観音悔過

2021-03-17 19:53:15 | 十地経

奈良の二月堂で執り行われている

お水取り・修二会の法要に

テレビカメラが入りました。

私たちは外から見るだけで

松明の勇壮な姿だけしか

窺い知ることが出来ません。

 

内部の様子は

とても動きのある珍しい法要です

激しく動き回る僧侶の方々

大きな音を立てて

体を板にぶつけておられる

これが「五体投地」ゴタイトウチの

方法なのです

普段、私たちも五体投地は

行うのですが、静かなものです。

やはり、仏教の修行の基本は

五体投地から始まります。

 

解説の方も

「闇と炎の秘儀」という

表現で語られています。

傍目にはそうでしょう。

ゲストの女性も

「存分に楽しみたい!」

というようなことを仰っています

 

しかし、

この法要は「十一面観音悔過」と

いって、十一面観音に悔過する

今までの自分の罪を悔いあらためる

というのがその内容です。

今はその形が珍しく

長い歴史の中で今もって

崩れずに廃ることなく

伝えているのです。

 

お釈迦さまの御在世当時も

月に2回は行われていたようです

半月間の自分の行いを反省し

間違いはなかったか

それを告白し罪を認め

懺悔サンゲして許しを乞うという

ことです。

お釈迦様ご自身も、

もし自分が罪を犯していたら

遠慮なく申し述べよ、と

仰っておられます。

 

そのことを講義の中では

このように述べておられます。

「懺悔サンゲするとか、

自分の過ちを認めるというような

ことですね、普通は感情でしょう

現実には感情としていうでしょう

仏教では智慧なんだ、

回心懺悔エシンサンゲというのは。

反逆しとるものを

反逆しとるとこう認めるんです

だからそれを破って取り出す

ということはないんです。

反逆しとるものが

反逆と知ったら、反逆を超えた

のでしょう。」

 

懺悔サンゲも仏教読みで

キリスト教では懺悔ザンゲといい

字は同じでも内容は違います

自分の罪を認め悔い改める

ということは心が翻る

そのことを回心エシンといいます。

 

「回心懺悔というものがないと

宗教が成り立つ場がないでしょう

つまり、それは倫理的な厳しさ

じゃないんであって、

妄執に対する厳しさ。

倫理的な厳しさというのは

キリスト教の特色でしょう。

その厳しさによって支えられとる

仏教に厳しさは

そういう厳しさじゃないですね

固執に対する厳しさだ。

一点の妥協も許さんと。

 

仏教の方は倫理とか

そういうものは案外

おおらかなんです。

倫理的厳しさのために人間が

煩悩で苦しめられやせんけど

倫理で苦しめられるわけです

倫理の地獄に堕ちるわけです

また、キリスト教は堕とさんと

承知せんでしょう。

キリストを裏切ったユダが

救われたということは

ないでしょう。

反逆した者に対する残忍さは

肯定するでしょう。

ところが、

仏教はそうじゃないんです

恨みに対して恨みをもって

受けてはならんということを

いうのが仏教の原則です。

 

憎むべきものはその、

我執です。法執だ。

それを一遍でも妥協したら

崩れてしまう。

ですから、

仏教のこの厳しさは

厳粛性というより厳格性です

厳格的な厳密な実存です。

 

主観の妄執というものを

どこまでも分析するんだ

ちょっとでも残したら

崩れるんです

なかなか死なんもんだ。

一遍はへこたれるけど

ズーっと内にこもってしまって

それが機会を得たらバァ―と

爆発するもんですわ、

人間も妄執というものは。

息の根を止めておかんと。」

 

こういう背景があって

二月堂の修二会という法要が

出てきたのでしょう

ああいう激しい動きは

私たちのもつ我執、妄執を

打ち破るという

そういう所作なのかもしれません

そういう目で見ると

あの内容も何とか分かるような

気がしてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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