ホームメイド・ケフィアを好きな方のために

ホームメイド・ケフィアをこれから始めたい方、すでに始めている方のブログです。ケフィアについての感想や質問をお書き下さい。

花粉症を抑える乳酸菌の働き

2009年03月22日 17時57分19秒 | Weblog
ホームメイド・ケフィアが花粉症を抑制する可能性を、私たちは大阪大学医学部への委託研究によって明らかにしましたが、本日(2009年3月22日)の日経新聞に、藤田紘一郎先生の興味あるコラムが載っていましたので紹介します。
「私たちは自分の体を必要以上に大切にしすぎている。ちょっと熱を出しただけでも抗生物質を服用するようになった。食中毒への恐れから、食品には防腐剤や食品添加物を含むものが増えてきた。しかし、抗生物質を飲み過ぎたり、防腐剤や食品添加物を含む食品ばかりを食べたりしていると腸内細菌のバランスが崩れてアレルギー症状が出やすくなるのである。
 最近、腸内細菌を整える細菌として乳酸菌やビフィズス菌が注目されてきた。そして乳酸菌やビフィズス菌が含まれるヨーグルトをとると花粉症を予防できることもわかってきた。
 市販のヨーグルトに含まれる乳酸菌の種類は実に多い。しかし、興味深いことに花粉症の抑制効果のある乳酸菌の種類は人によって異なる。花粉症の症状を抑えるには自分の体質に合ったヨーグルトを選ぶ事が大切になる。その謎を次回、追ってみたい。」
 今年も花粉症のシーズンまっさかりです。花粉症の症状も人それぞれであり、それを抑える乳酸菌の種類も人それぞれに異なるとおっしゃる藤田先生の次回のコラムが待ち遠しいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルガリア菌とグリゴロフ博士(8)

2009年03月06日 19時09分52秒 | Weblog
1905年にグリゴロフ氏は虫垂炎の効果的治療に関する論文を出し、内臓、胸の病気に対する医療科学、細菌学のドクターの称号を取得しました。彼の恩師のMassol教授は、彼の長寿への研究、成果に対して、指導者としての地位を与えるためにジュネーブに移り、それなりの役職を与えようとしました。しかし、グルゴロフ氏は自分の仕事、研究は自分の故郷に貢献したいとの理由から、その申し出を断ったのです。それから、しばらくしてグリゴロフ氏はSao Pauloにあるパスツール研究所の所長にという招待も断りました。彼はブルガリアへ戻り、Trun地方で医師でまた病院の責任者として落ち着いたのです。そこで彼は、不十分な研究環境や機器の不足にもめげず、地道に研究を続けたのでした。
ソフィアの細菌研究所の援助により、彼は違う種類のペニシリウム菌、Penicillinum glaukum, Aspergillusを重症の結核患者の医療に最初に活用した最初の人となり、その有効性、効果の発見に努めました。彼の著作でパリの“La Press medicale”に書かれた「結核に対する有効なワクチン」で彼は世間に対して彼の発見を表しています。
不運なことに彼の成果は今日まで知られていません。同じ頃、2人のフランス人科学者Albert CalmetteとCamille Guerain博士が抗結核の免疫療法を観察、実験をしていました。そして家畜の体内から結核に有効な菌種を発見し、それをBCGと名付け使用され始めました、そのワクチンは1921年にフランスで初めて人間に使われ、それは第2次大戦後医療として広く使われるようになりました。
 ブルガリアで、彼は不十分な仕事環境にも関わらず、グリゴロフ氏は西洋の科学者たちによって支持されていた自分の科学研究を続けていました。1935年、彼はイタリアのミラノから招待され、ブルガリアでの治療方法である“Kurs Bulgara”として知られる肺結核の治療法を紹介しました。このミラノ病院での成功事例が知られるようになり、ヨーロッパの国々は彼の成果に非常な興味を示しました。彼は、その後ローマの肺結核療養所やベルンのSerotherpeutic協会やスイス、イギリス等から招待されました。しかし、第2次世界大戦が始まり、それらの招待を断りブルガリアへ戻りました。そして彼は1945年10月27日に突然、亡くなってしまったのです。(完)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルガリア菌とグリゴロフ博士(7)

2009年03月05日 19時13分13秒 | Weblog
その後、メチニコフ氏はノーベル賞を受賞したのですが、授賞式でのスピーチは自信に満ちたものでした。1908年のフランス科学アカデミーの年報で彼は記事を載せましたが、それは栄光を得た科学者であるメチニコフ氏がグリゴルフ氏の偉大な発見と既に有名になっている「バクテリウム ブルガリカムーグリゴロフ」の名前を認めるとともに、その成果はゆるぎないものであるという発酵乳に関した記事でした。パスツール研究所のメチニコフ氏の助手であるCohendi氏と彼の同僚であるMichelson氏は主となるこの乳酸菌を「バチルス ブルガリクス(グリゴロフ)」と名付けました。スウェーデンの科学者のJensenは、主となる乳酸菌を「サーモバクテリウム ブルガリカム(グリゴロフ)」と呼び、1920年にオランダでは、「ラクトバチルス ブルガリクス(グリゴロフ)」、1927年にはLehmannとNeumann氏は「プロカモバクテリウム ブルガリカム(グリゴロフ)」と名付けました。全てのこれらの科学者が名付けた名前に、発見者の名前を省略されることはありませんでした。
グリゴロフ氏の死後から25年後、ブルガリアの科学者のKasta Katrandijev博士は、“ブルガリア発酵乳”というタイトルの論文の中でグリゴロフ氏の発見に栄誉を讃えて、その主となる乳酸菌を「バクテリウム ブルガリカム(グリゴロフ)」と呼ぶようにと主張しています。(次回へ続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルガリア菌とグリゴロフ博士(6)

2009年03月04日 17時34分46秒 | Weblog
これらの講演会は、パスツール研究所の伝統に則った決定手法で終了しました。その決定とはメチニコフ氏個人に委ねられました。それは正等と評価されたグリゴルフ氏の発見に対する今後の研究方法と科学者会議協会でその結果について報告することでした。不運なことに、この発見者はその後のイベントには参加しませんでした。彼は医学博士の証書を持って、ブルガリア、彼の愛するTrun地方への帰途に着いたのです。それからメチニコフ氏は彼自身の方法で、きっちりと彼の科学的成果を短期間で、彼のグリゴロフ氏の研究結果を繰り返しながら、パスツール研究所の科学会議でその成果を紹介し証明していきました。
しかし、この成果は一般には知られず、これに関する論文が出版されたのは3年後の1908年でした。他の著名なヨーロッパの研究者もこのブルガリア人の発見に興味を持ち、多くの著書のなかで紹介されています。最初にドイツの微生物学者Lafar氏は“Central Journal of Baoteriology”の中の長寿と発酵乳の関係に関してグリゴロフ氏の名前を掲げています。2年後、再びLafar氏は同じ科学雑誌にグリゴロフ氏についての特別記事を載せています。1907年にはPole Belerovski氏がパスツール研究所の新聞でグリゴロフ氏の発見は、乳酸発酵の課題への最初のステップとなる、と述べています。また科学者のLuerssen氏とKuhn氏は、刊行物の中で発見された細菌を“バクテリウム、ブルガリカム=グリゴロフ”と名付けました。(以下次回に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルガリア菌とグリゴロフ博士(5)

2009年03月03日 11時39分39秒 | Weblog
グリゴロフ氏の脳裏には他の事、つまり自分はブルガリア人であるという強い自尊心もありました。メチニコフ氏の総評が終わったとき、彼は、何かの衝動に駆られて、彼が発酵乳と一緒に持ってきたTrunの“rukata”をロシア人に、またフランス人にも著名な科学者たちの業績に対する尊敬の念を表しつつ、プレゼンしたのです。人々は物珍しいものに驚いたのですが、その小さな陶器製の容器は、彼の生まれたTrun地方のBusintsi村の職人によって作られたものでした。それは“kukuta(kuka―arm)と呼ばれていました。それは手作りで作られたもので、その芸術的な価値、色彩の豊かさは、個々の人々に高く評価されました。その容器はバルカンにあるBusintsi村で固有の手作りですが、その容器が発酵するのに最も適しており、保存に最適で最適な状態を長く維持できることを証明したのです。彼の生まれた地球上で最も美しいIzvor村はBusintsi村のすぐ近くにありました。(以下次回に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルガリア菌とグリゴロフ博士(4)

2009年03月02日 10時18分20秒 | Weblog
 私たちは、彼が輝く脚光の前に立ったときの興奮と戸惑いを容易に想像できます。そしてまた彼は、容赦のない、厳しい公の批評も分かっていました。彼は愚かな偏見を許容するほどの十分な科学的な経験を持っていました。彼の論理はしっかりしていました。それは、発酵作用とその価値を決定付けするために実施した実験室での数多く実験で、ブルガリア発酵乳とブルガリア人の長寿の関係について導き出された推考によるものだったのです。彼は、新しくて未知のバクテリアを証明するために発酵乳と顕微鏡を持って来ていました。もし、誰かがそれを疑ったとき、彼は喜んでそれらの人たちに顕微鏡を見せ彼らの好奇心を満足させ、人々らから喝采、賞賛を得たのです。
 グリゴロフ氏の年齢では似つかわしくなかったのですが、彼は権威ある人たちの前で彼の研究成果を発表するチャンスを得たことに感謝を述べました。そしてあふれ出る感情、若者らしく彼は、彼の恩師Massol氏の指導や先生の研究室での実験が無かったらこれらのことは実現できなかったと述べたのです。この講演が終わったとき彼を心から抱擁したのはメチニコフ氏でしたが、後に彼は故郷の村の人々ともこの喜びを分かち合ったのです。(以下次回に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする