ホームメイド・ケフィアを好きな方のために

ホームメイド・ケフィアをこれから始めたい方、すでに始めている方のブログです。ケフィアについての感想や質問をお書き下さい。

ブルガリア菌とグリゴロフ博士(8)

2009年03月06日 19時09分52秒 | Weblog
1905年にグリゴロフ氏は虫垂炎の効果的治療に関する論文を出し、内臓、胸の病気に対する医療科学、細菌学のドクターの称号を取得しました。彼の恩師のMassol教授は、彼の長寿への研究、成果に対して、指導者としての地位を与えるためにジュネーブに移り、それなりの役職を与えようとしました。しかし、グルゴロフ氏は自分の仕事、研究は自分の故郷に貢献したいとの理由から、その申し出を断ったのです。それから、しばらくしてグリゴロフ氏はSao Pauloにあるパスツール研究所の所長にという招待も断りました。彼はブルガリアへ戻り、Trun地方で医師でまた病院の責任者として落ち着いたのです。そこで彼は、不十分な研究環境や機器の不足にもめげず、地道に研究を続けたのでした。
ソフィアの細菌研究所の援助により、彼は違う種類のペニシリウム菌、Penicillinum glaukum, Aspergillusを重症の結核患者の医療に最初に活用した最初の人となり、その有効性、効果の発見に努めました。彼の著作でパリの“La Press medicale”に書かれた「結核に対する有効なワクチン」で彼は世間に対して彼の発見を表しています。
不運なことに彼の成果は今日まで知られていません。同じ頃、2人のフランス人科学者Albert CalmetteとCamille Guerain博士が抗結核の免疫療法を観察、実験をしていました。そして家畜の体内から結核に有効な菌種を発見し、それをBCGと名付け使用され始めました、そのワクチンは1921年にフランスで初めて人間に使われ、それは第2次大戦後医療として広く使われるようになりました。
 ブルガリアで、彼は不十分な仕事環境にも関わらず、グリゴロフ氏は西洋の科学者たちによって支持されていた自分の科学研究を続けていました。1935年、彼はイタリアのミラノから招待され、ブルガリアでの治療方法である“Kurs Bulgara”として知られる肺結核の治療法を紹介しました。このミラノ病院での成功事例が知られるようになり、ヨーロッパの国々は彼の成果に非常な興味を示しました。彼は、その後ローマの肺結核療養所やベルンのSerotherpeutic協会やスイス、イギリス等から招待されました。しかし、第2次世界大戦が始まり、それらの招待を断りブルガリアへ戻りました。そして彼は1945年10月27日に突然、亡くなってしまったのです。(完)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする