陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

仮定法過去完了―文法の話ではありません

2011-09-21 23:08:31 | weblog
その昔、英語で仮定法過去完了を習ったときに、洋の東西を問わず、人間というのは似たようなことを考えるものなのだなあ、と思っておかしくなってしまった。例の

" If I had got up earlier, I would have caught the train."
(もしもうちょっと早く起きていたなら、電車に間に合っただろうに)

という、「現実に起こったことと逆のこと」を想定するときの用法である。
当時のわたしはおそらく完了形というと、日本語にはない発想の文型、とばかり思い込んでいたからなのだろう、めずらしく日本語の語感とぴったり一致する用法を新鮮に感じたのだ。

考えてみれば「もしあのとき~していたなら(しなかったなら)」という感慨、というか、もっと言えば、ああしなかったら良かった、こうすれば良かった、という後悔は、人間に普遍的な感情だろう。あることを選択するということは、別の可能性を封じてしまうことにほかならない。手放した可能性が、あとになって光り輝いて見えることもよくある話だ。

ただ、どれほど過去のあるときを取り上げて「あのときこうすれば良かった」と後悔したとしても、多くの場合、わたしたちはどうにか「そうしなかったから出現した現状」と折り合いをつけることができる。「まあ苦い思いをさせられはしたが、考え方によっては良い経験をさせてもらったともいえる」「そのときがあるからいまがあるのだ」というふうに考えることができるようになるのである。

もし折り合いをつけなかったとしたらどうなるだろう。
何かあると「あのとき、ああしなかったら」「あのとき、あれをやってさえいたら」「あのとき、もうちょっとがんばっていたら」「あのときちょっとだけでも助けてくれる人さえいたら」「あのとき、あの人がそこにいなかったら」……と考えてしまうとしたら。

おそらくそんなとき、わたしたちは「現実に起こったことと逆のこと」を「もしそうしていさえしたら」とシミュレーションしているのだろう。うまくいった自分、成功した自分、輝かしい、華々しい自分。けれども、考えてみればそんなときのわたしたちは何と比べて「うまくいった」「成功した」「輝かしい」と考えているのか。
――いまの自分と比べて。
そんなシミュレーションは、いまの自分の境遇をことさらに貶め、損なっているのではないか。

現実にそういうことばかり言う人がいると、周囲の空気はてきめんに悪くなる。
「いやいや、そんなことはないよ、いまのあなたはうまくやってるじゃない?」となだめようとしても、「だけどね、もしわたしがあのとき会社を辞めなかったらいまごろは…」と、「辞めずにうまくいっている自分」の姿を頭の中で思い描いている人には、何の慰めにもならない。だからもう一度繰り返す。何度も何度も繰り返す。そのうち、まわりの人間は離れていってしまう。現在の自分の境遇は、いっそう悪くなっていく。まるで自分がそう望んでいるかのように……。

そう。
この「仮定法過去完了形」の問題は、これを言ったところで、誰にも答えようのない、誰にもどうしようもできない言葉だから問題なのではなく、確実に言う人の現状を悪化させるところにあるのだ。

電車に乗り遅れた、というのは、単にひとつの出来事に過ぎない。それが良くなったり悪くなったりするのは、すべてそれから先に起こっていくほかの出来事との関連だ。それをわたしたちはどこかで切り取って「良かった」とか「悪かった」とか言っているのに過ぎない。

電車に遅れたことをとらえて、「もしもうちょっと早く起きていたなら、電車に間に合っただろうに」と考えて、そのあとに続くのは、「そしたら遅刻しないですんだだろう、そうしたら先生に怒られずにすんだだろう……」と言っても始まらないことだ。
「だから明日は早く起きられるように、早く寝よう」という文章は、「仮定法過去完了形」には続かない。