その昔、集合住宅で輪番制の自治会の役員をやっていたときのことだ。わたしが書いた「お知らせ」に、クレームがついたことがあった。「ゴミ捨ての注意」という文言が、「不適切」であるというのである。
あらかじめ前任者から、うるさ型の住人が何人かいるので、くれぐれも言葉遣いには気をつけるように、という申し送りは受けていた。だから毎回、念には念を入れ、責任者にも確認を取り、昨年に出されたものにならって慎重に書いてきたつもりだった。そうして大過なく過ごしてきたところに、住人のひとりから「ゴミ捨て」という思いもかけない言葉にチェックが入ったのである。
いわく、「ゴミ」は「捨てる」ものではなくゴミ置き場に「出す」ものである……。
「捨てる」ものだと思うと、出し方もぞんざいになる、「ゴミ捨て場」だと思うと、「ゴミ置き場」を汚くしても平気になる。ゴミの出し方をきちんとしよう、ゴミ置き場をきれいにしようと思うのなら、まずそんな言葉から気をつけるべきだ……。
とまあ、そんなことを言ってきたのである。
おいおい、不要物は「捨てる」ものだろう。「出す」ものではない。ゴミというのは不要物にほかなるまい。ゴミだから、単に家から「出す」だけではなく「捨てる」のだ。辞書を引くと「捨てる」という項目の用法に、ちゃんと「ごみ箱にごみを捨てる」とあるではないか。「ゴミ捨て場」というと、そこが汚くなって、「ゴミ置き場」が汚くならないという主張にいったいどれだけの根拠があるのだろうか。口には出さなかったけれど、わたしは思わずムッとしてしまった。
「直して向こうの気が済むのなら直しますよ」と、訂正と謝罪の文言を次回に掲載したのだが、おもしろくない気持ちはいつまでも残った。
ところがネットで検索してみると、市役所などの公式な文書は、「ゴミ出し」を採用しているのである。「ゴミ捨て」という検索ワードでヒットするのは私的な文章ばかりで、どうやら公式にはゴミというのは「捨てる」ものではなく、「出す」ものらしい。
その言葉を遣っている役所のサイトをいくつか読んでみて、なぜ「捨てる」ではなく「出す」が採用されているかわかったような気がした。
つまり、「捨てる」といってしまうと、そこが終点である。自分から切り離して、ハイ、さようなら、後は野となれ山となれ、というのが「捨てる」の元にある発想だ。ところが現代の「ゴミ」は、そこからリサイクルされて、また新聞紙やペットボトル、ビン・カン類など、わたしたちの下に戻ってくるものも少なくない。その先にさまざまな行き場があるから、「捨てる」ではない。家庭では不要であってもそこから先、それぞれ適切な場所へ持って行くために「出す」ものになっているのだろう。「リサイクル」が前提となっている「ゴミ」は、「捨てる」というより「出す」ものなのかもしれない。
だが、それでもやはり思うのだ。
ゴミの「行き先」でなく、「生活」という角度で考えたとき、やはりゴミは「捨てる」ものではないか。
整理整頓というのは、とりもなおさず「捨てる」ということだ。身の回りのあれやこれやの中から、必要なものを見つけるのではなく、不要なものをより分け、捨てられるもの、捨てた方が良いもの、捨てなければならないものを選り分けていく。その結果、どうしても捨てられないものが残っていくのだ。ときに、早まって捨ててしまったものを後悔し、あるいは冷静に考えればそもそも必要のなかったものを買ってしまったことを後悔しながら、「捨てる」という作業を通して、わたしたちはいまの自分に必要なものが見えてくるのではないか。
ショッピングモールに行くと、さまざまな商品が口々に「これがあればあなたの生活はいっそう快適になりますよ」とわめいているかのようだ。電化製品やパソコンやクルマや靴や服を手に入れれば、良い生活が作っていけるような錯覚に陥ってしまう。
けれどもその錯覚のままに買えるだけのものを買ったとしても、そのほとんどがいずれは「捨てなければならないもの」に変わっていく。その前に「捨てるに捨てられないもの」として、ほこりをかぶった段階を経なければならないかもしれないが。
「買う」のは、やがて「捨てる」ために買うことにほかならない。
こう考えていくと、「生活する」ということは、「不要なものを捨てていく」ということの別の言い方なのだ。
ゴミをどこかに「出し」て、そこから自分にはよくわからないし、詳しく考えたこともないけれど、誰かの手によって「ゴミではないもの」に姿を変え、別の商品になってわたしたちがそれを購入する、というサイクルは、あくまで「モノ」ベースの発想のように思える。
けれども、おおげさに言ってしまうと「自分を知る」ということは、自分が何を捨て、何を捨てられずにいるか、ということではないだろうか。
あらかじめ前任者から、うるさ型の住人が何人かいるので、くれぐれも言葉遣いには気をつけるように、という申し送りは受けていた。だから毎回、念には念を入れ、責任者にも確認を取り、昨年に出されたものにならって慎重に書いてきたつもりだった。そうして大過なく過ごしてきたところに、住人のひとりから「ゴミ捨て」という思いもかけない言葉にチェックが入ったのである。
いわく、「ゴミ」は「捨てる」ものではなくゴミ置き場に「出す」ものである……。
「捨てる」ものだと思うと、出し方もぞんざいになる、「ゴミ捨て場」だと思うと、「ゴミ置き場」を汚くしても平気になる。ゴミの出し方をきちんとしよう、ゴミ置き場をきれいにしようと思うのなら、まずそんな言葉から気をつけるべきだ……。
とまあ、そんなことを言ってきたのである。
おいおい、不要物は「捨てる」ものだろう。「出す」ものではない。ゴミというのは不要物にほかなるまい。ゴミだから、単に家から「出す」だけではなく「捨てる」のだ。辞書を引くと「捨てる」という項目の用法に、ちゃんと「ごみ箱にごみを捨てる」とあるではないか。「ゴミ捨て場」というと、そこが汚くなって、「ゴミ置き場」が汚くならないという主張にいったいどれだけの根拠があるのだろうか。口には出さなかったけれど、わたしは思わずムッとしてしまった。
「直して向こうの気が済むのなら直しますよ」と、訂正と謝罪の文言を次回に掲載したのだが、おもしろくない気持ちはいつまでも残った。
ところがネットで検索してみると、市役所などの公式な文書は、「ゴミ出し」を採用しているのである。「ゴミ捨て」という検索ワードでヒットするのは私的な文章ばかりで、どうやら公式にはゴミというのは「捨てる」ものではなく、「出す」ものらしい。
その言葉を遣っている役所のサイトをいくつか読んでみて、なぜ「捨てる」ではなく「出す」が採用されているかわかったような気がした。
つまり、「捨てる」といってしまうと、そこが終点である。自分から切り離して、ハイ、さようなら、後は野となれ山となれ、というのが「捨てる」の元にある発想だ。ところが現代の「ゴミ」は、そこからリサイクルされて、また新聞紙やペットボトル、ビン・カン類など、わたしたちの下に戻ってくるものも少なくない。その先にさまざまな行き場があるから、「捨てる」ではない。家庭では不要であってもそこから先、それぞれ適切な場所へ持って行くために「出す」ものになっているのだろう。「リサイクル」が前提となっている「ゴミ」は、「捨てる」というより「出す」ものなのかもしれない。
だが、それでもやはり思うのだ。
ゴミの「行き先」でなく、「生活」という角度で考えたとき、やはりゴミは「捨てる」ものではないか。
整理整頓というのは、とりもなおさず「捨てる」ということだ。身の回りのあれやこれやの中から、必要なものを見つけるのではなく、不要なものをより分け、捨てられるもの、捨てた方が良いもの、捨てなければならないものを選り分けていく。その結果、どうしても捨てられないものが残っていくのだ。ときに、早まって捨ててしまったものを後悔し、あるいは冷静に考えればそもそも必要のなかったものを買ってしまったことを後悔しながら、「捨てる」という作業を通して、わたしたちはいまの自分に必要なものが見えてくるのではないか。
ショッピングモールに行くと、さまざまな商品が口々に「これがあればあなたの生活はいっそう快適になりますよ」とわめいているかのようだ。電化製品やパソコンやクルマや靴や服を手に入れれば、良い生活が作っていけるような錯覚に陥ってしまう。
けれどもその錯覚のままに買えるだけのものを買ったとしても、そのほとんどがいずれは「捨てなければならないもの」に変わっていく。その前に「捨てるに捨てられないもの」として、ほこりをかぶった段階を経なければならないかもしれないが。
「買う」のは、やがて「捨てる」ために買うことにほかならない。
こう考えていくと、「生活する」ということは、「不要なものを捨てていく」ということの別の言い方なのだ。
ゴミをどこかに「出し」て、そこから自分にはよくわからないし、詳しく考えたこともないけれど、誰かの手によって「ゴミではないもの」に姿を変え、別の商品になってわたしたちがそれを購入する、というサイクルは、あくまで「モノ」ベースの発想のように思える。
けれども、おおげさに言ってしまうと「自分を知る」ということは、自分が何を捨て、何を捨てられずにいるか、ということではないだろうか。