陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ゴミは「捨てる」ものか、「出す」ものなのか

2011-09-14 23:18:51 | weblog
その昔、集合住宅で輪番制の自治会の役員をやっていたときのことだ。わたしが書いた「お知らせ」に、クレームがついたことがあった。「ゴミ捨ての注意」という文言が、「不適切」であるというのである。

あらかじめ前任者から、うるさ型の住人が何人かいるので、くれぐれも言葉遣いには気をつけるように、という申し送りは受けていた。だから毎回、念には念を入れ、責任者にも確認を取り、昨年に出されたものにならって慎重に書いてきたつもりだった。そうして大過なく過ごしてきたところに、住人のひとりから「ゴミ捨て」という思いもかけない言葉にチェックが入ったのである。

いわく、「ゴミ」は「捨てる」ものではなくゴミ置き場に「出す」ものである……。
「捨てる」ものだと思うと、出し方もぞんざいになる、「ゴミ捨て場」だと思うと、「ゴミ置き場」を汚くしても平気になる。ゴミの出し方をきちんとしよう、ゴミ置き場をきれいにしようと思うのなら、まずそんな言葉から気をつけるべきだ……。

とまあ、そんなことを言ってきたのである。

おいおい、不要物は「捨てる」ものだろう。「出す」ものではない。ゴミというのは不要物にほかなるまい。ゴミだから、単に家から「出す」だけではなく「捨てる」のだ。辞書を引くと「捨てる」という項目の用法に、ちゃんと「ごみ箱にごみを捨てる」とあるではないか。「ゴミ捨て場」というと、そこが汚くなって、「ゴミ置き場」が汚くならないという主張にいったいどれだけの根拠があるのだろうか。口には出さなかったけれど、わたしは思わずムッとしてしまった。

「直して向こうの気が済むのなら直しますよ」と、訂正と謝罪の文言を次回に掲載したのだが、おもしろくない気持ちはいつまでも残った。

ところがネットで検索してみると、市役所などの公式な文書は、「ゴミ出し」を採用しているのである。「ゴミ捨て」という検索ワードでヒットするのは私的な文章ばかりで、どうやら公式にはゴミというのは「捨てる」ものではなく、「出す」ものらしい。

その言葉を遣っている役所のサイトをいくつか読んでみて、なぜ「捨てる」ではなく「出す」が採用されているかわかったような気がした。

つまり、「捨てる」といってしまうと、そこが終点である。自分から切り離して、ハイ、さようなら、後は野となれ山となれ、というのが「捨てる」の元にある発想だ。ところが現代の「ゴミ」は、そこからリサイクルされて、また新聞紙やペットボトル、ビン・カン類など、わたしたちの下に戻ってくるものも少なくない。その先にさまざまな行き場があるから、「捨てる」ではない。家庭では不要であってもそこから先、それぞれ適切な場所へ持って行くために「出す」ものになっているのだろう。「リサイクル」が前提となっている「ゴミ」は、「捨てる」というより「出す」ものなのかもしれない。

だが、それでもやはり思うのだ。
ゴミの「行き先」でなく、「生活」という角度で考えたとき、やはりゴミは「捨てる」ものではないか。

整理整頓というのは、とりもなおさず「捨てる」ということだ。身の回りのあれやこれやの中から、必要なものを見つけるのではなく、不要なものをより分け、捨てられるもの、捨てた方が良いもの、捨てなければならないものを選り分けていく。その結果、どうしても捨てられないものが残っていくのだ。ときに、早まって捨ててしまったものを後悔し、あるいは冷静に考えればそもそも必要のなかったものを買ってしまったことを後悔しながら、「捨てる」という作業を通して、わたしたちはいまの自分に必要なものが見えてくるのではないか。

ショッピングモールに行くと、さまざまな商品が口々に「これがあればあなたの生活はいっそう快適になりますよ」とわめいているかのようだ。電化製品やパソコンやクルマや靴や服を手に入れれば、良い生活が作っていけるような錯覚に陥ってしまう。

けれどもその錯覚のままに買えるだけのものを買ったとしても、そのほとんどがいずれは「捨てなければならないもの」に変わっていく。その前に「捨てるに捨てられないもの」として、ほこりをかぶった段階を経なければならないかもしれないが。

「買う」のは、やがて「捨てる」ために買うことにほかならない。

こう考えていくと、「生活する」ということは、「不要なものを捨てていく」ということの別の言い方なのだ。

ゴミをどこかに「出し」て、そこから自分にはよくわからないし、詳しく考えたこともないけれど、誰かの手によって「ゴミではないもの」に姿を変え、別の商品になってわたしたちがそれを購入する、というサイクルは、あくまで「モノ」ベースの発想のように思える。

けれども、おおげさに言ってしまうと「自分を知る」ということは、自分が何を捨て、何を捨てられずにいるか、ということではないだろうか。

 


ロバート・シェクリィ「いこいのみぎわにて」その3.

2011-09-14 23:18:51 | 翻訳
その3.


 ふたりはよく荷箱にすわって星を見るのだった。夕食の時間まで話をし、ときには終わりのない夜が更けていくまま、話を続けることもあった。

 やがてマークはもっと複雑な会話をチャールズに組み込んだ。もちろんロボットに自由な選択をさせることはできなかったが、どうにかそれに近いことができるようになったのである。徐々にチャールズの性格というものが現れてきた。ところがそれは、マークの性格とはまったく異なるものだった。

 マークが怒りっぽいのに対して、チャールズは穏やかだった。マークが意地悪な場合でも、チャールズは無邪気だった。マークは皮肉屋だったが、チャールズは理想主義者だった。マークはよく言ったものだ。チャールズ、君は永遠に満ち足りているのだろうな。

 そのうちマークは自分がチャールズに応答を組み込んだことを忘れるようになった。ロボットを歳の近い友人として受け入れるようになったのだ。長い間、一緒にいてくれる友人。

「よくわからないのは、だな」折に触れてマークはこう言った。「どうして君のような男がこんなところに住みたいなんて思うんだね。そりゃ、私にとってはここはいいところだよ。でも、私のことを気に掛けるような人などいないし、私が気に掛けるような相手もいない。だが、どうして君はここにいる?」

「ここでは世界全部が私のものなんです」チャールズは決まってそう答えた。「地球にいるときは、何十億もの人びとと分け合っていたのにね。星だってわたしのものです。地球で見るよりずっと大きくて、明るい星が。私のすぐそばには、まるで静かにたゆたう河のような宇宙空間が広がっているし。なによりも、あなたがいるじゃありませんか、マーク」

「よせよ、私のことで感傷的になるのは」

「感傷的になっているわけではありませんよ。友情のことを言っているのです。愛なんてものはずいぶん前に失われてしまった。マーサという名の娘への愛。わたしたちが一度も会ったことのない娘。まあそれは残念ではあります。でも、友情が残った。そうして永遠に明けることのない夜も」

「おまえさん、どえらい詩人じゃないか」マークの言葉には、いくぶんかの感嘆がこめられていた。
「へっぽこ詩人です」



 星からはうかがい知ることのできない時が過ぎ、空気ポンプはシューシュー、ガタガタと音を立てるようになり、空気漏れを起こすようになった。マークは絶えず修繕を繰り返しているのだが、マーサの空気は徐々に希薄になってきた。チャールズが畑で世話をしていたが、作物に充分な空気が行き渡らず、枯れてしまった。

 マークはいまや疲れてしまい、重力のくびきがないにもかかわらず、体を立てて歩くこともできなくなってしまっていた。ほとんどの時間、寝台から出ることもない。チャールズは錆びつき、きしむ手足を動かしながら、なんとかしてマークに食べさせようとしていた。

「女の子をどう思うかね?」

「これまで、いい女ってやつに会ったことがないんだがな」

「さてね、それはひどくはありませんか」

 マークはひどく疲れていたので、最期が迫っていることにも気がつかなかったし、チャールズにはそんなことは関心がなかった。だが、最期は着実に迫っていたのだ。空気ポンプはいまにも動きを止めそうだった。食物が尽きて数日が過ぎていた。

「どうして君なんだ」空気があえぎ声のような音を立て、息をするのをやめた。

「ここでは世界全部が私のものなんです――」

「よせよ、感傷的になるのは――」

「マーサという名の娘への愛――」

 寝台でマークは最期の星を見た。大きい、見たことのないほど、大きい星が、宇宙空間という静かな河にただよっている。

「星が……」マークが言った。

「何ですか?」

「太陽は?」

「――いまと同じように輝くことでしょう」

「たいした詩人だな」

「へっぽこ詩人です」

「女の子ってのは?」

「以前、マーサという名の娘のことを夢に見たことがあります。たぶん、もし――」

「女の子をどう思うかね? 星は? 地球は?」そうして眠る時間が来た。永久の眠りの時間が。

 チャールズは友のなきがらの傍らに立った。一度、脈をさぐり、やせた手をそのまま下に垂らした。彼は小屋の隅へ歩き、くたびれたポンプのスイッチを切った。

 マークが吹き込んでいたテープはつぶれかけ、もう数センチしか残っていなかった。「あの方がマーサに会えますように」ロボットはしわがれた声で言い、それからテープが切れた。

 錆びついた手足は曲げることもできず、チャールズは固まってしまったかのように立ち尽くし、剥きだしの星を見つめ返した。それから頭を垂れた。

「主はわたしの牧者である」チャールズは唱えた。「わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させる。主がわたしを伴われるのは……」(※「詩編第二十三」)



The End



(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)