陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

振り込め詐欺対策への提言

2011-09-02 23:39:31 | weblog
銀行で振り込みをしようとすると、「振り込め詐欺」への注意を喚起する文言がやたらと出てくる。(ずっとわたしはこの言葉を「振り込詐欺」だとばかり思っていたのだが、確かに詐欺を働くのは振り込みをする側ではなく「振り込め」と要求する側だから、振り込の方が、文法的には正しいのかもしれないが、なんとなく語呂が悪いような気がする。これは単なる慣れの問題なんだろうか)

「オレオレ詐欺」の話を最初に聞いたとき、なぜそんな電話を簡単に信じてしまうのだろう、と思ったものだ。だが、一度、わたしのところにも「オレだよ」を名乗る電話がかかってきて、考えが変わった。

その電話は詐欺電話ではなく、いわゆるイタズラ電話だったのだ。

「もしもし、オレや、オレ。ずっと会うてへんかったから、どないしてるか思うて、気になって電話してみた」

相手が話し始めた段階から、イタズラだということはわかっていたのだ。それでも、その声によく似た声の人間を知っていて、電話相手がその人のはずがないことがわかっていても、なぜか切ることができなかった。イタズラ電話だと思いながら「どちらさまですか?」と聞き、「オレやがな、オレ」という返事に、ああ、やっぱり、切らなくては、と思いながら、それでも、声がよく似ている、正確に言えば、知っていた頃から十年は経っていて、声だって当然年齢を重ねていなければならないはずなのに、電話相手は当時の相手そのままの二十代らしい声だから絶対にちがう、などと思ってしまって、受話器を置く決心がつかなかったのである。「どちらさまですか」「オレ、オレ」という要領を得ない問答を数回繰り返し、自分でもばかばかしくなって、えいやっと切ったのだが、しばらく変な気がした。

それがもし、自分の子供が遠く離れたところにいて、いきなりひどい目に遭っていると聞けば、おそらくそれは、話し相手が自分の子供ではないとわかっていても、いても立ってもいられない気持ちになるだろう。あるいは、どうせ詐欺に決まっている、と思って、電話を切っても、つぎの瞬間、もしかしたら、という気持ちが起こってくるかもしれない。百パーセント、そんな事実はない、と言い切れないとき、自分がもしかしたらとんでもないことをしてしまったのではないか、という疑念が生じる。いまごろ息子はどうしているだろう、苦しい目に遭っているのではないか、という不安がどんどん胸を満たし、つぎにまた同じ内容の電話がかかってきたら、相手の言うがままにお金を振り込んでしまうものなのかもしれない。

振り込め詐欺に遭ってしまう人は、情報に疎いからそんな詐欺に引っかかっているのではないだろう。「こういう電話がかかってくる詐欺がある」「世の中にはそうやって年寄りを騙す悪い輩がいる」とどれだけ「情報」として知っていても、現実の現れ方は「情報」とは異なる。しかも、人間の声が耳元で窮状を訴えれば、情報があったとしても混乱してしまうだろう。そうして相手(が騙っている人物)に対して、自分には責任があると思えば、「電話を切って何もしない」という行動の選択が取れなくなってしまうかもしれない。目の前の現実は、どんな情報よりもはるかに複雑でわかりにくいものなのだ。

わからないことに直面したときは、誰だって不安になる。お金を振り込むことは、この不安を解消する唯一の手段だ。仮に詐欺だったとしても、電話を切ってしまえば「もしかしたら」という不安はついてまわる。すぐに自分の子供に連絡して確かめられる人なら良いが、それができない人は、いつまでもこの不安を持ち続けなければならないのだ。

そういうふうに考えると、銀行員の制止を振りきっても、振り込んでしまう人の気持ちがなんとなくわかってくるように思う。

おそらく「振り込め詐欺に注意」という看板をどれだけ出したところで、振り込んでしまう人は出てくるだろう。それでも、たとえば「その電話で不安になるのはあなただけじゃないんですよ、わたしも一緒なんですよ」と言ってくれる人がいたら、ずいぶん気持ちは変わるのではないか。もちろん、不安が解消するわけではない。だが、自分だけが不安なのではなく、誰もが同じ不安を抱えている、と思えば、何とか耐えられるのではあるまいか。

それにもうひとつ。「不安」であるということは、幸せなことでもある。誰かのことを考えて「不安」であるというのは、少なくともその相手が生きているから、「不安」にもなれるのだ。

そう考えると、不安のない生活というのは、あり得ない。仮に「不安」をひとつ取り払って、かりそめの「安心」を手に入れたとしても、それはつぎの「不安」が起こるまでのこと。「不安のない状態」を「あるべき状態」とすれば、不安は耐えがたくもなるが、むしろ自分が生きていて、自分が心配する相手も生きているからこそ「不安」が絶えず生まれてくるのだ、と思えば、「不安のある状態」こそが「あるべき状態」とも言えるのだから。

とまあ、こんなことをあれこれと考えたあげく、わたしはひとつ思いついたのだ。
銀行はおばあさんを嘱託として雇って、詐欺電話に振り込みそうな人を見かけたら、声をかけてあげる、というのはどうだろう。自分も同じように、詐欺の電話がかかってきて、これは詐欺だと思って振り込まなかったのだが、それでも不安が完全に消えたわけではない、でも、まあどうにかやっているようだし、便りがないのは良い便り、という言葉もある……、というふうに。
これはそんなサインボードより、よほど効果があると思うのだが。
コストパフォーマンスが悪すぎるだろうか。