陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

居場所がない

2011-05-06 23:27:13 | weblog
いまではあまり聞くこともなくなった言葉だが、わたしが大学生の頃はまだ「五月病」という言葉があった。大学に入学して一ヶ月ほどが過ぎた五月の連休あけの時期にもなると、入学時の感動も緊張も解け、目標もなくなるのと一緒に、これといって理由もないのに気持ちが塞ぎ、心身共にすぐれない状態に陥る、というのがその「症状」である。

その言葉は知っていても、実際にわたしの周囲で「わたし、どうも五月病みたい」などと使われているのを聞くことはなかったが、反面、「五月病」となる人がいるのも、なんとなくわからないではない、と思ってもいた。

何よりも違和感を覚えたのが、高校まで学校にあった「自分のクラス」「自分の机」「自分のロッカー」が、大学にはどこにもないことだった。つまり、それまでとは異なり、自分が所属する固定した場所というのが、大学の中にはどこにもないのだ。

一応、学部ごとのクラスはあったが、それも語学のクラスで、終わってしまえばたちまち離ればなれになってしまい、学生ひとりひとりなどというのは、「よどみに浮ぶうたかた」のようなもので、まさに「かつ消えかつ結びて久しくとゞまることな」いのだった。

当時思ったのは、「居場所がない」という言葉は、「自分だけのために用意された場所がない」ということなのだなあ、ということだった。自分がこれまでいた場所とはちがって、ここには「自分だけのために用意された場所」というのは、どこにもないのだ、と。自分というのは、大学にとってみれば学籍番号の数字に過ぎず、そんな番号のために「場所」など用意する必要もない、と思われているのだろう、などと考えたこともあったような気がする。

ところがやがてサークルに入ったり、語学やほかの授業で一緒になる数人と集まって、最初はお茶を飲んだり食事をしたり、やがて訳文を写し合ったり、ノートを見せたり見せてもらったり、ということを続けるうちに、いつのまにか「居場所がない」などということを考えることもなくなっていた。

別に空間的な意味で「自分の場所」を見つけたわけではない。単に、自分を受け入れてくれ、そこにいなければ気遣ってくれ、何かがあれば誘ってくれる人間関係ができたに過ぎない。つまり、「居場所」というのは、自分とほかの人とのあいだに生まれる関係のことだったのである。

「場所柄をわきまえる」「その場にいたたまれなかった」「場の雰囲気(空気)になじめない」「場がしらける」……というふうに、わたしたちは「場」や「場所」という言葉を使って、さまざまな状態を表現する。けれども多くの場合、そんなときの「場」というのは、空間的なものというより、その「場所」での人間関係、さらに言えば、人間関係の中で自分の果たす役割があるかどうか、ということなのだろう。

大学や、新しい環境の中に入って一ヶ月が過ぎて、少しずつ周りが見えてきた反面、「いまの自分には居場所がない」と感じている人もいるかもしれない。そんな人に言いたいのは、「居場所」というのは人間関係のことだ、ということである。人間関係を形成していけば、かならず自分の「居場所」は見つかる。

いまはまだ自分が何の「役割」を割り振られているのか、わけがわからないかもしれない。舞台に立たされたのはいいが、自分が演じているのが何の役かもわからず、せりふさえ知らされていないような状況なのかもしれない。けれども、そんなことがはっきりわかっている人などいないのだ。多少年期が入っている人や経験を重ねた人がいるにせよ、たいていはアドリブでやっている。だとすれば、こちらも何か言ってみて、返事によって立ち位置を修整しながら、少しずつ関係を積み重ねていくしかない。

慣れるまでの期間というのは、その人にもよるだろうし、周囲の環境にもよるだろう。それでも、結局は、人との関係をどう築いていくか、ということなのだ。
不安でいる人も、みんな「自分の居場所」が見つかるといいね。