陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「運命の猟犬」その1.

2011-03-03 23:27:30 | 翻訳

第二回目は前作とは少し変わった雰囲気の話です。
原文はTHE HOUNDS OF FATEで読むことができます。




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THE HOUNDS OF FATE (「運命の猟犬」)

by Saki (H. H. Munro)


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 しだいに色あせていく薄曇りの秋の午後の日差しの中を、マーティン・ストーナーは重い足取りで歩いていた。ぬかるんだ小道を抜け、深いわだちの刻まれた馬車道をたどってはいるが、自分でもどこへ向かっているのか定かではない。なぜか前方に海が待ち受けているような気がして、足は自然とそちらを目指していた。どうして疲れ果て、棒のような足を引きずって、海へ行かなければならないのか、自分でもわからない。追いつめられたシカが崖の突端へと逃げていく、それと同じ本能にかられているとしかいいようがなかった。

彼もまた、運命という名の猟犬に追いつめられようとしていた。空腹で、疲れ切り、前途に何の明かりも差さない絶望の深い闇に閉ざされて、頭も麻痺したままだ。いったいどんな衝動が自分を無意識のうちに前へ進ませているのか、考えるだけのエネルギーをかき集める気力はなかった。

ストーナーは、さまざまなことに手は出すものの、ことごとく失敗に終わるという種類の人間だった。そもそも生来怠け者で、あとさきのことを考えないたちである。ささやかな成功のチャンスが訪れても、それをものにすることもできず、そのあげく行き詰まって、もはや何かをやってみようにも、その余裕はなくなっていた。自暴自棄になっているせいで、たくわえられているはずの気力を奮い起こすこともできない。見方を変えれば、金銭的な破綻を前に、精神が麻痺してしまっているとも言えた。

着の身着のまま、ポケットには半ペニーしかなく、頼りにできる友だちも知り合いもない。寝場所のあてもなければ、明日の食べ物のあてもなく、マーティン・ストーナーは濡れそぼった生け垣のあいだを抜け、雨だれの落ちる木の下をとぼとぼと歩いていた。脳裡には何も浮かばず、半ば無意識のうちに、この先には海があるのだ、というばくぜんとした思いだけがあった。ときおり、みじめなほどの空腹感が身をさいなむ。

やがて、大きく開いた門の前に出た。その先には、放ったらかしにされた庭が広がっている。その奥にはひとけのない田舎家があった。寒々として、誰も寄せつけまいとしているかのようだ。だが、ぽつぽつとまた雨が降り出して、ストーナーは少しのあいだだけでも雨宿りさせてもらえまいか、と考えた。残っている小銭をかき集めれば、ミルクの一杯でも飲ませてもらえるかもしれない。疲れ切った足でのろのろと庭に入り、石敷きの小道を通って裏口へ回った。すると、ノックもしないうちにドアが開き、腰の曲がったしなびたような老人が、入り口の脇に立っていた。まるで彼を出迎えているかのようだった。

「雨宿りさせてもらえ……」とストーナーが言いかけたところ、すぐさま老人がさえぎった。

「おかえりなさいませ、トムぼっちゃま。ぼっちゃまがじきに戻っていらっしゃるのはちゃんとわかっておりましたよ」

 ストーナーはよろめくように敷居をまたぎ、立ったまま、わけもわからず相手の顔をじっと見つめた。

「さあさ、おかけになって。そのあいだにお食事のしたくをいたしますで」老人は震える声に熱をこめてそう言った。ストーナーの足は疲れのあまりにいうことを聞かず、すすめられた肘掛け椅子に、崩れるように沈みこんだ。ほどなく冷肉とチーズ、それにパンが目の前のテーブルに用意された。

「四年たっても、ぼっちゃまはちっともお変わりじゃございませんな」老人の話は続いているが、ストーナーの耳にはその声が、まるで夢の中で聞いてでもいるような、不思議なほど遠くから聞こえてくるような気がした。「じき、ぼっちゃまもお気づきにおなりでしょうが、こっちはずいぶんと変わりましたよ。ぼっちゃまがここをお出になったときにいた者は、もう誰も残ってはおりません。手前と大伯母様だけでございますよ。ぼっちゃまがお帰りになったことを、大伯母様にお知らせしてきます。お会いになってはいただけないでしょうが、ぼっちゃまがこの家にいらっしゃることをおとがめにはなりますまい。大伯母様はずっと言っておられました。ぼっちゃまが帰っていらっしったら、この家にはいさせてやる、けれど、会ったり話したりするのは、金輪際ごめんだわ、と」




(この項つづく)



サキ「七つのクリーム入れ」その3.

2011-03-01 23:07:08 | 翻訳
その3.


 翌朝、ふたりは共謀して半開きのドアの陰に潜み、鋭い目を光らせていた。豪華なバスローブを羽織ったウィルフリッドが浴室へ向かったのを見届けるやいなや、興奮のおももちで、忍び足で客用主寝室へ急いだ。ピーター夫人が外で見張っているあいだに、夫が大急ぎでカギを探す。首尾良く見つけだし、職務に忠実至極の税関吏さながらに、旅行用トランクに突進した。だが、探索はあっけなく終わった。銀のクリーム入れが畳んだ薄手のシャツの間におさまっていたのである。

「なんて悪賢いやつかしら」ピーター夫人は言った。「クリーム入れがたくさんあるもんだから盗ったのね。ひとつぐらいなくなっても見とがめられないだろうと思って。あなた早く。急いで持って降りて、ほかのと一緒にしておかなくちゃ」

 ウィルフリッドが朝食に下りてきたのは、それからずいぶんしてからだった。いかにも何かがあったような顔つきである。

「こんなことを言うのは、実に気が引けるのですが」しばらくして急にこう言い出した。「どうやらおたくの召使いには、手癖の悪い者がいるようですね。旅行用トランクからあるものがなくなってるんです。それも、おふたりの銀婚式のお祝いに、と思って持ってきた、母とぼくからのささやかな贈り物が。

「昨夜、お食事のあとにでもお渡ししようと思っていたんですが、生憎、クリーム入れだったんです。ところがクリーム入れがいくつも贈られてお困りだという話をうかがったものだから、そのうえにまたクリーム入れをお贈りするわけにもいかなくなってしまいまして。何か違うものと変えようと思っていた矢先、なくなってしまいまったんです」

「お母様とあなたから?」ピーター夫妻は思わず声をそろえて聞き返した。“かっぱらいの両親がともに亡くなって、もうずいぶん年月が過ぎている。

「そうです。母はいまカイロにいます。ドレスデンのぼくのところに手紙を寄越して、何か風変わりで美しい、いぶし銀の縁取りのあるものを探してお贈りするように、と言ってきたんです。そこでクリーム入れに決めたんですよ」

 ピーター・ピジョンコート夫妻は真っ青になった。ドレスデンという言葉が、事態を余すことなく明らかにした。そのウィルフリッドは、大使館員のウィルフリッドだったのである! 一族のなかでも並はずれて上流に属するその青年とピーター夫妻はほとんど社交上で接点がなかったために、自分たちがもてなしているウィルフリッドが“かっぱらい”ではないことに気がつかなかったのだ。彼の母君であるレディ・アーネスタイン・ピジョンコートは、所属する階級も、望むところも、ピーター夫妻からすれば“雲の上”の人種で、息子の方もそのうち大使になるであろうと言われていた。かかる人物のトランクをピーター夫妻は引っかき回し、略奪行為を働いたのである! 夫も妻も茫然自失して、お互い顔を見合わせるばかりだった。だがそのとき、ピーター夫人の脳裡にひらめくものがあった。

「この家に盗人がいるなんて、なんて恐ろしいことでしょう! ええ、もちろん夜のうちは客間にはカギをかけているんですのよ、でもね、わたしたちが朝食の席にいるときは、何か持っていこうとおもえばできるんです」

 夫人は立ちあがると、いかにも客間から銀器が盗まれていないか確かめに行くようすで大急ぎで部屋を出ていき、クリーム入れを手に戻ってきた。

「いま見たら、クリーム入れは八つもありましたのよ、七つではなくて」彼女は大声でそう言った。「これは以前はなかったものですわ。ミスター・ウィルフリッド、記憶って奇妙なものじゃございません? おそらくあなた、昨晩こっそり下にいらっしゃって、わたしたちがカギをかける前に、あそこに置かれたんですわ。それを朝になったらすっかりお忘れだったんじゃございません?」

「確かに記憶っていうのは、そんないたずらをすることがありますな」ピーター氏も必死の形相で妻に加勢した。「つい先日もこんなことがありましたよ。町へ支払いに行ったんですが、つぎの日、また行ってしまったんですな。きれいさっぱりそれを忘れ……」

「ぼくが買ったのは、確かにこれです」とウィルフリッドはしげしげと眺めた。「ぼくが今朝、入浴する前にバスローブを出したときは、確かにトランクの中にあたんです。それが、戻ってまたトランクのカギを開けたときにはもうなかった。ぼくが部屋にいないあいだに、持っていかれたらしい」

 ピジョンコート夫妻は、これ以上青くなりようがない、というほど、まっ青になった。だが、その瞬間、まさに究極の天啓が夫人の脳裏にひらめいた。

「わたしの気つけ薬を取ってきてくださらないこと、あなた」彼女は夫に頼んだ。「化粧室にあると思いますわ」

 ピーター氏はほっとして部屋を飛び出した。なにしろ先ほどまでの数分間があまりに長く思えて、じきに金婚式が来そうな錯覚にさえ陥っていたのだから。

 一方のピーター夫人は、客の方に向き直った。あたかも相手を信頼して身内の恥をさらすように。

「外交官をなさっておられる方なら、こうしたことをどう処理すれば、何もなかったことにできるかご存じですわね。宅の主人にはちょっとした欠点がございましてね。血筋なんですの」

「まさか! もしかして、ご主人に窃盗強迫症がおありだというんじゃないでしょうね、あの“かっぱらい”の従兄弟のような」

「まあ、それとは少しちがうんですけれどもね」ピーター夫人は自分が夫に塗りつけた真っ黒な汚名を、いくばくかでもすすごうとした。「主人はそこらに放ってあるものには、指一本ふれようとしませんの。でも、かぎのかかっているものとなると、どうにも抵抗できなくなるらしくて……。お医者さまはなんでも特別な病気だとおっしゃっておられました。主人はあなたがお風呂にいらっしゃったら、さっそくトランクのところへ駆けつけて、真っ先に目に入ったものを持ってきてしまったにちがいありません。もちろん、クリーム入れを盗ろうなんていう気持ちはなかったのだと思います。ご存じのように、家にはもう七つもありますから。ええ、もちろんお母様とあなたがご用意くだすった贈り物が気に入らないなんてことじゃないんですのよ――シッ、ピーターが来ましたわ」

 ピーター夫人はあわてふためいて言葉を切ると、小走りに廊下に走り出て、夫を迎えた。

「万事、片がつきました」夫人は夫にささやいた。「何もかも打ち明けましたわ。だからあなたからはもう何もおっしゃらないで」

「度胸のすわった女だな」ピーター氏は安堵の吐息をもらした。「わたしにはそんな真似はできそうもない」

* * *

 外交官としての守秘義務は、内輪の出来事に対しては、かならずしも適用されるものではなかったらしい。
その年の春、ピジョンコート家にミセス・コンスエロ・フォン・ブリオンが滞在したときのこと、ピーター氏にはどうしても理解できないことがあった。ミセス・コンスエロは浴室に行くときかならず、どうみても宝石箱にちがいないものを、ふたつとも持っていくのだ。どうしてそんなことをするのだろう。廊下で会ったときには、マニキュアセットとフェイスマッサージのセットだと言い訳していたのだが。







The End