その2.
老人はマグに注いだビールをストーナーの前に置くと、足を引きずりながら廊下の奥に消えていった。先ほど落ち始めた雨は、いまや雨足も強まりドアや窓を激しく叩いている。しのつく雨のなか、宵闇せまる海辺にいたとしたらどんなことになっていたかと思うと、ストーナーは体の奥がふるえるような気がした。食事をすませてビールも飲み終え、この家の奇妙な主が戻ってくるのをぼんやりと待った。
部屋の隅にある振り子時計が時を刻むごとに、この青年の胸の内に希望の灯がともり、それが次第に大きくなっていく。希望といっても、何かしら口に入れるものと、ほんの一時、休ませてもらえれば、という願いが、どうやらかなえてもらえそうなこの家で、一晩、雨露をしのぎたい、という願いにまで成長したというだけのことだったのだが。足音がちかづいてきて、老僕が姿を現した。
「やっぱり大伯母さまはお目にかからんそうです、トムぼっちゃま。ですが、ここにいたいならいればよい、とおっしゃってますよ。そりゃそうでございますわな。ご自分が土の中にお入りになったあとは、農場の一切合切はぼっちゃまのものなんですからな。ぼっちゃまのお部屋に火を入れておきましたよ。メイドも新しいシーツを敷いたところです。お部屋は元のまんま。さぞかしお疲れになって、早いとこ、おやすみになりたいでしょうな」
言葉を返すこともなく、マーティン・ストーナーは重い体を苦労しながら持ち上げると、救いの天使のあとについて廊下を歩き、きしむ階段を上ってから、また別の廊下を進んで大きな部屋に入った。暖炉の中で明々と燃える火があたりを照らしている。家具は少なかったが、どれも飾り気のない、古風で良いものばかりだった。飾りといったら、箱に入ったリスの剥製と壁に四年前のカレンダーが掛けてあるばかり。だが、ストーナーにはベッドよりほかは何も目に入らなかった。服を脱ぐのももどかしく、深い眠りにいざなう疲労という恰好の睡眠剤と共にベッドに倒れ込んだ。運命という名の猟犬も、束の間、追跡の脚を休めたようだった。
朝の冷たい光の中で、ストーナーは陰気な笑い声をもらした。自分の置かれた立場が、少しずつわかってきたのである。おそらく朝飯をかきこむあいだぐらいは、もうひとりの行き方知れずのろくでなしと見間違えていてもらえそうだ。向こうからかぶせられた化けの皮がはがれないうちに、無事に逃げ出すこともできるだろう。
階下の部屋では、腰の曲がった老人が“トムぼっちゃま”の朝食に、ベーコンエッグを並べている横で、ティーポットを手に入ってきたいかつい顔の初老のメイドがお茶をついでくれた。ストーナーが食卓に着くと、小さなスパニエルがじゃれついてきた。
「こいつはあのバウカーの子犬でございますよ」と老人が教えてくれた。いかつい顔のメイドは老人をジョージと呼んでいる。「バウカーはぼっちゃまだけになついておりましたからな。だもんで、ぼっちゃまがオストラリヤにいらっしったあとは、すっかり別の犬になってしまいましたよ。死んでもう一年になりますか。こいつがその仔で」
ストーナーは母犬の不幸を残念がる気にはなれなかった。もしその犬が生きていたなら、身元確認の証人というだけではすまなかっただろう。
「トムぼっちゃま、遠乗りでもなさいますか」老人の口から思いがけない言葉が出た。「乗り心地のたいそういい、葦毛の子馬が一頭おりましてな。ビディもまだまだ乗れますが、歳には勝てません。葦毛の方に鞍をのせて、戸口に連れて来させましょうか」
「乗馬の装備は何も持ってきてないからな」ストーナーは口ごもったが、着たきりの服に目を落とし、笑い出しそうになってしまった。
「トムぼっちゃま」老人は、聞き捨てならないことを言われたとばかりに、熱をこめて言った。「ぼっちゃまのものは、ひとつのこらず、元のままにしてございますよ。ちょっと火に当てて乾かせば、いつでもお召しになれます。馬にお乗りになったり、鳥撃ちにでもお出かけになったりすれば、気晴らしにもなりましょう。ここいらの連中は目引き袖引き、ぼっちゃまのことをあれこれ言いはしましょうが。そうそう忘れたり、水に流したり、というわけにはまいりませんからな。人が寄らないうちは、馬や犬相手に気晴らしをなさるのが一番でございますよ。動物というのは、なかなかの相手でございますから」
ジョージ老人が手配のために足を引きずりながら部屋を出ると、ストーナーは夢の中にいるような気分で“トムぼっちゃま”の衣装ダンスを探しに部屋に上がった。彼は乗馬がことのほか好きだったし、トムが旧知の人びとから爪弾きされているのなら、すぐさま化けの皮がはがれるようなこともあるまい。この侵入者はなんとか自分の身に合いそうな乗馬服に体を押し込みながら、近隣一帯の人びとを敵に回すとは、本物のトムはいったいどんな悪事をしでかしたのだろうと、ぼんやり考えた。だがその物思いも、湿った土を足早に蹴る力強いひづめの音に断ち切られた。
「さしずめ『馬に乗った乞食たち』(※ジョージ・カウフマンの喜劇)だな」ストーナーは考えた。昨日はみすぼらしい宿無しとして、ひとりとぼとぼと歩いていたぬかるんだ道を、今日は馬で駆け抜けている。だが、あれこれと考えるのも面倒になり、物思いなどかなぐり捨てて、まっすぐに伸びていく街道沿いの道を馬で駆ける快さに身をまかせた。
開いた門から畑へ向かおうとする荷馬車が二台、出てこようとしている。ストーナーは馬を止めた。荷馬車に乗った若い男たちには、彼をじっくりと眺める暇があったはずだ。すれちがい際に、高ぶった声で「トム・プライクじゃねえか! 一目見ただけでわかった。舞いもどってきやがったんだな」と言っているのが聞こえた。
よぼよぼの年寄りが間近で見まちがえたほどの顔かたちは、どうやら若い男が至近距離で見てもその人物に見えるらしかった。
ストーナーが馬を走らせているあいだ、村の人びとがトムの過去の悪行を、忘れてもいなければ許してもいないことの証拠に何度も遭遇した。行方不明のトムがしでかしたあれこれを、彼はそっくり引き受ける羽目になったのだ。ひそめられる眉、ひそひそ話、引かれる袖。誰かに出くわすたび、そんな仕草で迎えられるのだった。敵意に満ちた世界の中で、横を走る“バウカーの仔”だけが、親愛の情を見せてくれた。
(この項つづく)
老人はマグに注いだビールをストーナーの前に置くと、足を引きずりながら廊下の奥に消えていった。先ほど落ち始めた雨は、いまや雨足も強まりドアや窓を激しく叩いている。しのつく雨のなか、宵闇せまる海辺にいたとしたらどんなことになっていたかと思うと、ストーナーは体の奥がふるえるような気がした。食事をすませてビールも飲み終え、この家の奇妙な主が戻ってくるのをぼんやりと待った。
部屋の隅にある振り子時計が時を刻むごとに、この青年の胸の内に希望の灯がともり、それが次第に大きくなっていく。希望といっても、何かしら口に入れるものと、ほんの一時、休ませてもらえれば、という願いが、どうやらかなえてもらえそうなこの家で、一晩、雨露をしのぎたい、という願いにまで成長したというだけのことだったのだが。足音がちかづいてきて、老僕が姿を現した。
「やっぱり大伯母さまはお目にかからんそうです、トムぼっちゃま。ですが、ここにいたいならいればよい、とおっしゃってますよ。そりゃそうでございますわな。ご自分が土の中にお入りになったあとは、農場の一切合切はぼっちゃまのものなんですからな。ぼっちゃまのお部屋に火を入れておきましたよ。メイドも新しいシーツを敷いたところです。お部屋は元のまんま。さぞかしお疲れになって、早いとこ、おやすみになりたいでしょうな」
言葉を返すこともなく、マーティン・ストーナーは重い体を苦労しながら持ち上げると、救いの天使のあとについて廊下を歩き、きしむ階段を上ってから、また別の廊下を進んで大きな部屋に入った。暖炉の中で明々と燃える火があたりを照らしている。家具は少なかったが、どれも飾り気のない、古風で良いものばかりだった。飾りといったら、箱に入ったリスの剥製と壁に四年前のカレンダーが掛けてあるばかり。だが、ストーナーにはベッドよりほかは何も目に入らなかった。服を脱ぐのももどかしく、深い眠りにいざなう疲労という恰好の睡眠剤と共にベッドに倒れ込んだ。運命という名の猟犬も、束の間、追跡の脚を休めたようだった。
朝の冷たい光の中で、ストーナーは陰気な笑い声をもらした。自分の置かれた立場が、少しずつわかってきたのである。おそらく朝飯をかきこむあいだぐらいは、もうひとりの行き方知れずのろくでなしと見間違えていてもらえそうだ。向こうからかぶせられた化けの皮がはがれないうちに、無事に逃げ出すこともできるだろう。
階下の部屋では、腰の曲がった老人が“トムぼっちゃま”の朝食に、ベーコンエッグを並べている横で、ティーポットを手に入ってきたいかつい顔の初老のメイドがお茶をついでくれた。ストーナーが食卓に着くと、小さなスパニエルがじゃれついてきた。
「こいつはあのバウカーの子犬でございますよ」と老人が教えてくれた。いかつい顔のメイドは老人をジョージと呼んでいる。「バウカーはぼっちゃまだけになついておりましたからな。だもんで、ぼっちゃまがオストラリヤにいらっしったあとは、すっかり別の犬になってしまいましたよ。死んでもう一年になりますか。こいつがその仔で」
ストーナーは母犬の不幸を残念がる気にはなれなかった。もしその犬が生きていたなら、身元確認の証人というだけではすまなかっただろう。
「トムぼっちゃま、遠乗りでもなさいますか」老人の口から思いがけない言葉が出た。「乗り心地のたいそういい、葦毛の子馬が一頭おりましてな。ビディもまだまだ乗れますが、歳には勝てません。葦毛の方に鞍をのせて、戸口に連れて来させましょうか」
「乗馬の装備は何も持ってきてないからな」ストーナーは口ごもったが、着たきりの服に目を落とし、笑い出しそうになってしまった。
「トムぼっちゃま」老人は、聞き捨てならないことを言われたとばかりに、熱をこめて言った。「ぼっちゃまのものは、ひとつのこらず、元のままにしてございますよ。ちょっと火に当てて乾かせば、いつでもお召しになれます。馬にお乗りになったり、鳥撃ちにでもお出かけになったりすれば、気晴らしにもなりましょう。ここいらの連中は目引き袖引き、ぼっちゃまのことをあれこれ言いはしましょうが。そうそう忘れたり、水に流したり、というわけにはまいりませんからな。人が寄らないうちは、馬や犬相手に気晴らしをなさるのが一番でございますよ。動物というのは、なかなかの相手でございますから」
ジョージ老人が手配のために足を引きずりながら部屋を出ると、ストーナーは夢の中にいるような気分で“トムぼっちゃま”の衣装ダンスを探しに部屋に上がった。彼は乗馬がことのほか好きだったし、トムが旧知の人びとから爪弾きされているのなら、すぐさま化けの皮がはがれるようなこともあるまい。この侵入者はなんとか自分の身に合いそうな乗馬服に体を押し込みながら、近隣一帯の人びとを敵に回すとは、本物のトムはいったいどんな悪事をしでかしたのだろうと、ぼんやり考えた。だがその物思いも、湿った土を足早に蹴る力強いひづめの音に断ち切られた。
「さしずめ『馬に乗った乞食たち』(※ジョージ・カウフマンの喜劇)だな」ストーナーは考えた。昨日はみすぼらしい宿無しとして、ひとりとぼとぼと歩いていたぬかるんだ道を、今日は馬で駆け抜けている。だが、あれこれと考えるのも面倒になり、物思いなどかなぐり捨てて、まっすぐに伸びていく街道沿いの道を馬で駆ける快さに身をまかせた。
開いた門から畑へ向かおうとする荷馬車が二台、出てこようとしている。ストーナーは馬を止めた。荷馬車に乗った若い男たちには、彼をじっくりと眺める暇があったはずだ。すれちがい際に、高ぶった声で「トム・プライクじゃねえか! 一目見ただけでわかった。舞いもどってきやがったんだな」と言っているのが聞こえた。
よぼよぼの年寄りが間近で見まちがえたほどの顔かたちは、どうやら若い男が至近距離で見てもその人物に見えるらしかった。
ストーナーが馬を走らせているあいだ、村の人びとがトムの過去の悪行を、忘れてもいなければ許してもいないことの証拠に何度も遭遇した。行方不明のトムがしでかしたあれこれを、彼はそっくり引き受ける羽目になったのだ。ひそめられる眉、ひそひそ話、引かれる袖。誰かに出くわすたび、そんな仕草で迎えられるのだった。敵意に満ちた世界の中で、横を走る“バウカーの仔”だけが、親愛の情を見せてくれた。
(この項つづく)