陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

二週間後(※一部加筆修整)

2011-03-26 23:33:44 | weblog
東北関東大震災から二週間が過ぎた。
先週の今頃は原発のニュースを固唾を飲んで見守っていたが、一週間後も事態がほとんど進展していないとはまさか思ってはいなかった。爆発や蒸気と一緒に大気中にばらまかれた放射性物質が、この後、さまざまな形で現れてくるだろうとは思っていたが、事故そのものに関しては、何らかのかたちで収拾の方向に向かっているだろうと、漠然と思っていたのだ。

定時のニュースばかりでなく、携帯で twitter の情報を追い続けていたのは、「何がいま起こっているか」を知らないでいることが怖かったからだが、それ以上に「もう大丈夫」の一言を待っていたのだと思う。時間がかかればかかるほど、事態は確実に悪くなっていく。だからこそ、一刻も早く「これでもう安心」の報せを待ち続けていたのだ。

放水が始まれば冷えるだろう、外部電源が復旧すればさらに効率的に冷却がなされるだろう、「冷やす」の行程が確立されれば、つぎの「閉じこめる」の行程に入れるだろう……。

わたしの頭の中には、そうしておそらく多くの日本人の脳裡にも、そんな「段取り」ができていたはずだ。

ところが一歩前進すれば、別の何かが起こる。外部電源を引くところまできた、中央制御室に照明が点った……というニュースがある一方で、黒煙が上がった、放射線量が増えた、あげくの果てには作業員の方が被曝された、という不慮の事態が起こって、そのたびに作業は中断する。他方で、その間にも空気や水や食物への汚染が進行しているというニュースが刻々と入ってくる。

阪神大震災のころは、二週間もすれば、復興への力強いニュースがあちこちから聞こえてきて、自分にできることはないかと思う気持ちにも力がこもっていた。だがいまは、たとえ被災地から離れていても、不安ばかりがのしかかってくるようで、復興どころではない、という気持ちが偽らないところである。

けれども、ここまで事態を見守り、さまざまな記事や本を読んでみてわかったことは、いまの状態に留めておくために、多くの人が、それこそ体を張って、懸命に頑張っておられるということだ。もっとひどいことになっていたかもしれないのに。

おそらく「危機的な事態」はいましばらく続くだろうし、「これでもう安心」という状態になるまでには、おそらく相当な時間が必要だろう。長丁場になる。それを覚悟した上で、いたずらに不安になるでもなく、煽りに惑わせられることもなく、情報を集めよう。

誰も経験したことのない事態なのだ。失敗が許されないという重圧の中で、試行錯誤が重ねられている。わたしたちにいまできるのは、日々の営みの中で自分ができることを責任もってやっていく傍ら、現場にいる人びとに感謝し、心からの応援を送ることなのだろう。



小学校の、まだ低学年の頃だった。
学校が引けてから、よく一緒に遊ぶ子が近所にいた。仮にここではみつこちゃんとしておく。わたしの家で遊ぶこともあったし、みつこちゃんの家で遊ぶこともあった。みつこちゃんはリカちゃんの食器セットを持っていて、それには小指の爪ほどの大きさのトレーや、2ミリほどのナイフやフォークを並べて遊ぶのが楽しくて、遊びに行くのを楽しみにしていた。

ところがみつこちゃんの家ではほとんど一日おきに「遊べない日」があるのだった。
「今日はお父さんがいるから、うちでは遊べない」という具合に。

というのも、みつこちゃんのお父さんは消防士で、夜勤明けの日はずっと寝ているからだった。
「消防士だなんてカッコイイ。いいなあ」とわたしが言ったことがある。
すると、みつこちゃんは「良いことなんてないよお」と言うのだった。
家で寝ているときは、ちょっとでも音を立てると怒られるし、地震とか、ほんとにそばにいてほしいときは絶対にいてくれないんだよ。火事が近所であったりしたら、たとえわたしの家が燃えかけてたって、家を優先するんじゃなくて、大きな火事の方へ行かなきゃいけないんだよ、と。

おそらくそのときに、なんだか大変そうだなあ、と思ったからこそ、いまもわたしは覚えているのだろう。
みつこちゃんのお父さんばかりではない。

「地上の星 - 本当の「フクシマ50」」にもあるように、「数百人の名もない現場作業員」が、いまも放射線量の値が少しでも下がるのを待ちながら、「Jヴィレッジ」に待機しているのだろう。

以前のわたしは「誰それのために」という言葉を、疎ましいものと思っていた。おそらくその言葉のなかに含まれる、押しつけがましさと尊大さを嗅ぎとっていたのだろう。親や先生は「あなたのため」と言うけれど、これはただ自分の意に添わそうとしているだけじゃないか、と。

けれど、それは平時の感覚であったことに気がついた。もっと言えば、保護され、守られている子供の発想なのだ。自分の「当たり前」の毎日が、さまざまな人の「あなたのため」の集積の上に築かれているということに気がつかない。

水道をひねれば安全な水が出ることも。
用事があれば電話をかけられることも。
夜、明るい電灯の下で本を読むことができることも。

大勢の人が、それぞれ自分の仕事をやっていて、その仕事の何割かは、利潤の追求や、自分が少しでも安楽に生きていくためのものであったとしても、「みんなが安全に暮らせるように」「みんなが少しでも居心地よく過ごせるように」という側面はかならずある。そうして、その「みんなのため」をわたしも享受している。

平時であれば、あたりまえのことをあたりまえにするだけの、ごくふつうの人が、こんなときにはヒーローになる。たぶん、その人にとってみればヒーローになりたくはなかっただろう。みつこちゃんのお父さんだって地震や近所の大火のときは、みつこちゃんの側にいてやりたかったはずだ。

けれど、それはわたしにはできないことだ。
自分にしかできない、そう思って、そういう人たちは、危険きわまる仕事を、平時なら当たり前の仕事としておこなってくれている。

原発推進も、容認も、反対も関係ない。
わたしの代わりにそこにいてくれる人に、心からの感謝の念と、応援を送りたい。

どうか、ご無事で。
無理をなさらないで。

ほんとうに、ありがとう。





もう知っている人も多いと思いますが、まだご存じない方は
「「最悪シナリオ」はどこまで最悪か」
は参考になるかと思います。