陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

エゴイストは生き残れない

2011-03-15 22:53:26 | weblog
阪神淡路大震災のとき、リビアのカダフィ大佐が、日本の地震は日本がアメリカに追随していることに対する天罰だ、と言った。そのとき、なんだか無性に腹が立ったことを覚えている。

別にカダフィが最初でも最後でもなく、ノアの箱船以来「天災=天罰論」というのは根強いものがあるのだが、百歩譲って仮に天災が天罰であるとしても、それがほんとうにキリストだかアラーだか八百万の神だかしらないけれど、真実、「天」の意であるならば、いったいどうしてそのことがわれわれ人間にわかるだろう。結局、誰にもわからないのだから、「天意」であろうがなかろうが、ほかの自然現象とまったく同じことではあるまいか。

不愉快なのは、「天罰」を口にする人が、かならず安全な場所にいて、そこであたかも自分が神の声を聞いたノアであるかのようにふるまっている点だ。なぜ自分が被災を免れたか。それはたまたま被災地区にいなくて、安全な場所にいたという偶然に過ぎないのに。

けれども「天意」を口にする人は、おそらく「偶然」などということは考えないのだろう。そこに「意味」を勝手に読みとり、そうして自分こそはそれを「読みとる」ことができる「選ばれた人間」だと考えるのだ。

だから、大きな災害が起こるたび、かならず出てくる「天罰」を口にする手合いを見ると、何とも言えない傲慢な印象を受けるのである。

ところで、パニック映画やホラー映画の登場人物は、たいていいくつかのパターンに分類される。その中に、もちろん最大の敵は天災や地震やエイリアンや宇宙人なのだが、話の中で、自分だけが助かろうと敵に内通したり、人命より会社の利益を優先したりする「内なる敵」がかならず登場する。

こうした手合いのおかげで、集団は危機に陥り、主人公たちは困難を余儀なくされる。だが、そうした保身にもかかわらず、「内なる敵」はかならず途中で命を落とすのだ。観客は実際の敵よりこうした「内なる敵」の方に怒りを感じているため、彼らをざまあみろ、と思うことはあっても、かわいそうに思うことはない。

こうした「内なる敵」の問題点はどういうところにあるのだろうか。
助かりたい、と思うのは誰もが一緒だが、彼らは「自分だけ」が助かりたい、と考える。けれども、誰もが「自分だけ」助かりたいと考えて、敵に内通を始めたり、それぞれの利益を優先させたりすると、もはや自分の情報は優位性を持たなくなって、内通は内通の役割を果たさなくなるし、集団の持つ利益が分散されて、利益自体がなくなってしまったりする。つまり、「内なる敵」が自分の利益を追求するためには、ほかの人がそれをしない、ということが前提になるのだ。

ほかの人が自分と同じように考えたらいったいどうなるのか、という批判が当然起こってくるが、彼らは決してそれを受けつけない。助かりたい、生き延びたいとすべての人が願う、という考え方を、彼らは一切認めない。「蜘蛛の糸」をよじのぼるのは、自分一人でなくてはならず、ほかの人がそれを試みるのを決して許さないのである。

この傲慢さは、「天意」を口にする人にも通じるものだ。
「天災」を「天罰」と読み替える人は、別の思想信条を持つ人が、自分の頭上に別の種類の「天意」による「天罰」が落ちるとは考えない。リビアに日本の八百万の神が出かけていって「天罰」を与えるとは夢にも思わないのだ。

蜘蛛の糸はぷつりと切れて、カンダタは地獄に真っ逆様に落ちるし、「内なる敵」はかならずやられる。それは果たしてフィクションの世界だけのことなんだろうか。

自分の行動は、ほかの人が一斉にそれをやって、これから先、うまく回っていくような行動なのだろうか。自分の考えは、ほかの人が一斉に同じように考えて、うまくいくような考え方なんだろうか。

こんなときだから、わたしはそんなふうに自分の考えや行動を規準づけたいと思っている。