陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「返品可能で販売中」その3.

2011-03-14 22:43:25 | 翻訳
その3.


 このポメラニアの画家が、どんな才能や天分を賦与されていたかはさておいて、商業的な評価を得ることには、明らかに失敗したようだった。紙ばさみは売れないスケッチでふくらんだままだったし、レストラン・ニュルンベルクの才人が『ユーストンの昼寝』と称した例の巨大なカンバスの絵は、売れないままそこに残っていた。しかも財政上の逼迫状況を示すしるしは、徐々に顕著なものとなっていったのである。

夕食時に添えられた安いクラレットのハーフボトルは、小さなグラス一杯のビールに変わり、やがてその代わりに水が置かれるようになった。毎日決まって食べていた一シリング六ペンスのセットは、“日曜日のご馳走”となった。普通の日は、画家は七ペンスのオムレツとパンとチーズに甘んじ、やがて姿を現さない日もでてきた。たまに自分のことを話すときでも、芸術という偉大な世界を話題にするより、ポメラニアの話の方が多くなった。

「おれたちにとっちゃ、いまが忙しい時期なんだ」物思いに沈みながら言葉を続ける。「刈り取りが終わったあとの畑に、ブタを放してやんなきゃなんねえ。そうやって、やつらの面倒を見てやんなきゃな。あっちにいさえしたなら、手伝うこともできるんだが。こっちじゃ生きていくだけで一苦労だ。芸術は理解されないからなあ」

「なんでちょっとだけでも帰ってみないのかい?」わざとそう聞く者もいた。

「金がいるじゃないか! シュトルプミュンデまでの船賃だろう、それに溜まった下宿代だ。ここだって数シリング借りがあるし。スケッチが何枚かでも売れたらなあ……」

「もしかしたら」ミセス・ヌガー=ジョーンズは言った。「もう少し安い値段をつけてたら、わたしたちの中にだってお金を喜んで払う人もいるかもしれないわよ。十シリングとなると、お金をいくらでも払えるってわけじゃないわたしたちみたいな人間になると、ちょっと考えてしまうわよ。きっと六シリングとか七シリングだったら……」

 百姓の魂は死ぬまで変わらない。ちょっと取引に入れ知恵をされただけで、この芸術家の目には、眠りから覚めた抜け目ない光が輝き、口元がぐっと引き締まった。

「九シリング九ペンス」画家はたたみかけた。ところがミセス・ヌガー=ジョーンズがそれ以上この話題について話を続けようとしないので、表情は曇った。どうやら画家は、彼女なら七シリング四ペンスは出すだろうと踏んだらしかったのだが。

 数週間が矢のように過ぎ、クノプフシュランクがアウル・ストリートのレストランに顔を出す日はますますまれになり、食事を注文する機会があったにしても、その内容はいよいよ貧弱なものになっていった。ところがついに勝利の日がめぐり来たのである。

彼は夜も早いうちに現れると、まるで宴会でも開くかのように、大得意で凝った料理を注文し始めた。厨房では、いつもの食材ばかりでなく、輸入物のガチョウの胸肉の薫製や、コンヴェントリー・ストリートのデリカテッセンでもめったに手に入らないようなポメラニアの珍味を取り寄せた。首の長い瓶に入ったライン・ワインが盛りだくさんのテーブルに花を添え、テーブルでは盛んに乾杯が繰りかえされた。

「傑作が売れたんでしょうね」シルヴィア・ストラブルが、遅れてやってきたミセス・ヌガー=ジョーンズにささやいた。

「誰が買ったの?」ミセス・ヌガー=ジョーンズも声を潜めて聞き返した。

「知らないわよ。あの人、まだ何も言ってないんだから。だけどどこかのアメリカ人にちがいないわ。ほら、デザートの皿に小さなアメリカ国旗が立ててあるじゃない? おまけにジュークボックスにもう三回もお金を入れて、かけたのは最初が『星条旗』でしょ、つぎが何だったか、とにかくスーザのマーチで、で、いま流れてるのはまたしても『星条旗』でしょ。きっとアメリカの億万長者に法外な高値で売りつけたにちがいないわ。ご機嫌ね、ほら、あんなににたにたしてる」

「誰が買ってくれたか聞かなくちゃ」ミセス・ヌガー=ジョーンズは言った。

「シーッ! だめだめ。それよりスケッチを急いで買わなくちゃ。わたしたち、まだあの人が有名になったことを知らないことになってるんだから、その間に。そうでもなきゃあの人、値段を倍に釣り上げるわよ。わたし、前からあの人のことは買ってたんだから」

 ミス・ストラブルはアッパー・バークリー・ストリートで死にかけているラクダの絵とトラファルガー広場で渇きをいやしているキリンたちの絵に、それぞれ十シリングを払い、同じ値段でミセス・ヌガー=ジョーンズは留まっているサケイの習作を買った。さらに野心作『アシニーアム・クラブの階段で闘うオオカミの群れとシカの群れ』に対しては、十五シリングで買おうという客が現れた。

「ところで今後の計画は?」と美術系の週刊誌にときどき寄稿している青年が聞いた。

「船便があったらすぐにシュトルプミュンデに戻る」と画家は言った。「で、もう帰ってこない。二度とな」

「でも作品は? 画家としてのキャリアはどうするつもりなんですか」

「ああ、そんなもんは何にもならんよ。食ってけないじゃないか。今日まで誰もおれの絵を買っちゃくれなかったんだ。今夜は何枚か買ってくれたがな。きっとおれの餞別のつもりなんだろう。だが、それまではさっぱりだった」

「でも、アメリカ人の誰かが……?」

「ああ、あの金持ちのアメリカ人か」画家はクックッと笑った。「ありがたいこったな。アメリカ人がブタの群れのまっただ中に突っこんだんだ。ブタを畑に出そうとしていたところにな。おれんちの一番いいブタが数頭、轢かれてしまったんだが、アメリカ人が全部弁償してくれたんだ。実際よりかなり高く、つまり、ひと月太らせてから市場へ出すときの値段の何倍も払ってくれたんだな。

「なにしろやつは、ダンツィヒへ行こうと焦ってたんだから。人間、急いでるときゃ言い値で買う以外、ないやな。ま、金持ちのアメリカ人には感謝しなくちゃな。連中はいつだってどこかに大急ぎで行こうとしてるんだ。おかげでうちのおやじもおふくろも、いまじゃすっかり金回りがよくなっちまったもんで、おれにもツケを払って家に帰れるぐらいの金を送ってくれたのさ。月曜日にはシュトルプミュンデに向けて発つ。で、もうこっちへは戻ってこない。未来永劫だ」

「でも、絵は、ハイエナの絵はどうなるんです?」

「ああ、くだらねえ。大きすぎてシュトルプミュンデまで運ぶに運べないから、焼いちまったよ」

 そのうち彼が忘れられる日も来るだろうが、いまのところソーホーのアウル・ストリートにあるレストラン・ニュルンベルクの常連の一部にとって、クノプフシュランクの話題は、スレドンティ同様、胸の痛むものとなっている。





The End



(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)