陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・ゴードン「手品師の妻」その7.

2011-02-03 22:30:46 | 翻訳
その7.


 つぎの手品は、何枚もの大きな木の札にリボンを通す手品だった。孫に、リボンのたばを持っていてくれないか、と頼んだ。ここではリボンが寸分のたるみもなく、張っていることが大切なのだ。ミセス・ヘイスティングスには、夫がリボンを通さなくてはならない穴を見つけるのに手こずっているのがわかった。穴をひとつ抜かした。おかげでリボンを一本引っぱっても何も起こらなかった。札が微動だにしないまま、リボンだけさっと抜けるはずだったのに。だが、リボンを全部引っぱっても一本も動かない。夫は観客の方を向いた。その仕草は、ひどく年寄り臭かった。「紳士淑女の皆様方、まことに申し訳ございません」と言ったのだった。

 そこで客席から声援があがったのである。夫は拍手喝采に包まれた。ミセス・ヘイスティングスはどれだけ連中を憎んだことだろう。観客たちはとまどいながらもある種の共犯意識を抱いているらしい。客席の一体感というのは、多くの場合、観客が自分から遠い、はるかに離れた舞台に立つ人間を愛したり、逆に憎んだりすることから生まれるものだが、いまの観客を結ぶ一体感の正体は、愛でもなければ憎しみでもなかった。ひとりの老人がそこにいることにいたたまれない思いを抱き、早く終わってしまえばいいのに、と切に願っている。その気持ちを隠そうと、やたら拍手喝采していることが、ミセス・ヘイスティングスにはありありと見て取れた。彼女はじっとすわったまま、微動だにしなかった。

 せめてつぎの手品がうまくいってくれさえしたら! だが、スカーフの手品は、居間で披露したときからうまくいってなかったのだ。ミセス・ヘイスティングスは息が留まりそうだった。吐き気がする。あのとき、うまくいかなかったわよ、と言えばよかったのだ。勇気がなかったんだわ。いまあのひとは大勢の赤の他人の前で、バカにされようとしている。フレデリックの同僚の前で。

「紳士淑女の皆様方、ここにありますのは魔法の箱、魔法の洗濯箱であります。家内にはいつもこれを使えと申しておりますが、うちのやつときたらどうにも頑固ものでして」

 ミセス・ヘイスティングスはこれからどうなるかがわかっていた。箱の一方から色のついたスカーフを入れ、反対側から白いスカーフを引き出す。だが、居間で夫が引き出したのは、自分が入れたのと同じ色のスカーフだった。それを指摘することは彼女にはできなかった。しかも、夫はちがっていることに気がつかなかったのである。

目の前で、夫はおなじことをやった。だが、少なくともあっという間に終わった。色のついたスカーフを、自分では白だと思っているスカーフを高く掲げ、頭の上でひらひらとはためかせ、観客に向かって深々とお辞儀した。

 失敗したことに気がついていない。観客たちは困惑していた。恐ろしい沈黙が落ち、やがて何が起こったか、観客にも飲み込めてきた。すぐにフレデリックが拍手し始めた。観客たちもミスター・ヘイスティングスにスタンディングオベーションを送った。夫は奇妙なほど年寄りじみた、彼女がこれまで見たこともない足取りで、舞台裏に引っ込んでいった。

 フレデリックがふたたび舞台に上がった。軽食がどうとか、軽食の用意をしてくれたご婦人方に感謝するだとかと言っている。ミセス・ヘイスティングスは椅子に坐ったまま、怒りに身を震わせていた。

よくもまあ、あんなふうにいけしゃあしゃあとしていられるものだわ。自分の父親が恥をかかされたというのに。それも全部、おまえのせいなのよ。一体、どのつらさげて観客の前に立ってるの。ゲームがどうとか、賞品がどうとかって、あのひとたちはみんな、あなたのお父さんが老醜をさらすのを目の当たりにしたのよ。どうしてお父さんのところへ行って、力づけてあげるとか、どこかよそへ連れて行ってあげるとか、しようとは思わないの? あなたが悪いのよ、フレデリック。あなたが鈍いんだか、ひょっとしたら父親に対する悪意があったのかどうかは知らないけれど、お父さんがみんなの見ている前で、失敗してしまったのよ?

「食事が取れる場所に連れてってあげるよ」フレデリックが母親に腕を差し出しながらそう言った。母親に向かって言葉をかけているあいだも、ほかの人に会釈するのに忙しい。

 ミセス・ヘイスティングスは激しい剣幕で息子の方に向き直った。

「どうしてこんなことをお父さんにさせたの?」

「何をさせたんだって?」

「あの手品よ。あんなひどい目に遭わせたことよ」

「お父さんは乗りに乗ってたじゃないか。すごく楽しんでたよ」

「みんなに失敗を見られてしまったのよ」ミセス・ヘイスティングスは食いしばった歯の間から言葉を押し出すようにそう言った。

「それもいいじゃないか、お母さん。お父さんはうまくいったと思ってるんだから」

「ひどい屈辱じゃないの」

 フレデリックはやれやれ、と頭を振りながら、さほど興味もなさそうな目つきで母親に目をやった。それから先に立って歩きだした。だがその歩調は、彼女には少し速すぎる。あの子ったら、誰か話ができる相手を探しているんだわ。肩越しにふり返ったフレデリックの顔つきには、何かにじれている若い娘さながらの表情が浮かんでいた。

「ひと皿取ってきてあげようか?」と彼は聞いた。

「自分のお父さんに対してあんなひどいことをするような子に、何もしてもらいたくありません」

 彼は足を止めて母親が追いつくのを待った。

「お母さん、お父さんって人はね、あなたの倍ほども人間が上だよ」彼は母親の方を見ないでそう言った。「いや、三倍かな」

 ミセス・ヘイスティングスは息子に寄り添った。見上げるまなざしには、息子が生まれて初めての、愛情と呼んでさしつかえのない感情がこもっていた。生まれて初めて、息子との血のつながりに誇らしさを感じた。ミセス・ヘイスティングスは息子の腕に手をかけた。







The End




(※後日手を入れてサイトにアップします)



メアリー・ゴードン「手品師の妻」その6.

2011-02-01 23:12:25 | 翻訳

その6.


 その日のフレデリックのいでたちは、まったくバカげたものだった。赤、白、青の縦縞のズボンをはき、カンカン帽の下から、薄くなりかけた髪とまばらな口ひげがのぞいている。彼のもくろみは、見事に外れたようだ。父親の方は、白いスーツにブルーのシャツ、それに赤いネクタイをしめ、フレデリックがなんとかしてかもしだそうとしたお祭り気分を、見事なほどあざやかに体現していた。

 ステージは郡庁舎の芝地にしつらえられていた。最初にメソジスト教会の女性聖歌隊がミュージカルの曲をいくつか歌った。つぎにアンクル・サムの衣装を身につけた銀行頭取の娘がバトンを回し、アコーディオン弾きが登場した。フレデリックがステージに上がったのはそのあとである。同僚がみんな、口笛を吹き、足を踏みならして野卑な歓声をあげる。ミセス・ヘイスティングスは息子が注目を集めているのが恥ずかしくてたまらなかった。

「さて、身びいきと非難されるのは避けたいところなんですが」と彼は口を開いた(おそらく何かの冗談、仕事にまつわる冗談にちがいない。男たちが全員、無作法な笑い声をあげているところをみると、おそらく下品な冗談なのだろうとミセス・ヘイスティングスは推測した)。「家族のなかに才能がある者がいるというのに、どうして謙遜して隠さなければいけないのでしょう。わが父、アルバート・ヘイスティングスは、最上級の手品師であります。過去においては、かのフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領に手品を披露するという栄誉に浴しております。わたくしがかねがね申し上げておりますように、ルーズベルト家に良いものは、わたくしたちにとっても良いものなのであります」

 男たちの中からふたたび笑い声が上がった。フレデリックはさっと片手を上げた。「レディース・アンド・ジェントルマン、驚異の男、ヘイスティングス!」

 アルバートは最初から舞台裏にいた。あのひとと一緒にいなくて良かった、とミセス・ヘイスティングスは思った。きっとあのひとはわたしが怯えているのに気がつくだろうから。それどころか、わたしの怯えがあのひとに感染するかもしれなかったんだから。
真後ろの女性が肩を叩いた。「さぞかし鼻が高いでしょうね」ミセス・ヘイスティングスはしっ、と唇に指を当てた。夫が口を開こうとしているところだ。

 もう何年も、夫の前口上は、ほとんど同じものだったのだが、今日の話には一箇所、これまでには聞いたことのない色彩があった。彼女はそれが気になった。感謝します、だなんて。観客に向かって、手品をやらせていただいて、大変ありがたく思っています、と繰りかえし言っている。やらせていただいてありがたい、だって?

十年前、否、五年前だって、決してそんなことを言いはしなかった。これじゃまるで、お情けでダンスを申し込んでもらえたさえない女の子じゃない? 話なんて早く終われば良いのに、と思った。だが、観客は喜んでいる。彼のことをひとりの老人として愛しているのだ。だが、それが夫が求めていた愛なのだろうか? あのひとが追い求めていたのはそんなものじゃない、と彼女は思った。

 助手役の孫が舞台に上がった。ミスター・ヘイスティングスは、どなたもお疑いなきよう、この助手は公明正大そのものであります、と言った。まず、その子が三枚のトランプを引く。単純な手品で、すぐに終わった。彼女の目には、観客の拍手喝采が、あまりに過大であるように映った。これは簡単な手品なのに。手始めの、空気を暖めるためだけのものであることを、彼女はよく知っていた。

 二番目は魔法の袋の手品だった。小さな袋から、夫は卵をひとつ、オレンジをひとつ、ぶどうを一房、最後にひと瓶のシャンペンを取り出した。「いつも妻にはこの袋を持って、スーパーに行くように言っているのですが、どうにも聞いてもらえません」と言って、客席の最前列にすわっているミセス・ヘイスティングスを身ぶりで示した。夫が舞台から自分に目を留めてくれたときにいつも感じる、興奮に身が震えるような思いを、またしても味わった。ここに至ってやっと彼女の緊張もほぐれてきた。



(この項つづく)