陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

死んでいく言葉たち

2010-01-11 22:59:09 | weblog
いまや日本の総人口の50%が三大都市圏(首都圏、中京圏、関西圏)に住んでいるのだという。考えてみればものすごい人口集中だ。国土も狭く、通信も交通網も発達していて、どこにいてもよさそうな気がするのだが、結局そういうことになってしまうのは、企業や工場などの職場が、もっぱら都市圏に集中しているからなのだろう。

総人口自体は減少に転じたと言われつつもなお、大阪を除けば都市圏の人口は増加を続けているらしい。その結果、過疎と呼ばれる地域は、急速に過疎化の度合いを深めていく。山間や離島の小さな集落は、ばたばたと閉鎖に追い込まれていくのだろう。

小学生のころ、ダムに沈む村の話を聞いて、先祖代々暮らしていた人びとの家や田畑や道が水底に沈んでいく話を聞いて、なんともいえない喪失感を覚えたものだ。だが、現実に、ダムができたわけでもないのに、住む人がなくなり、家は閉ざされ、道を通る人もなくなる。

そのときまた、少数の人びとによって話されてきた、その土地ならではの言葉もアクセントも発声も、なくなってしまうのだろう。

オーストラリアの東南部にタスマニア島という島がある。17世紀にオランダ人のタスマンが発見したから「タスマニア島」である。それ以前の名前はわたしは知らない。
ともかく、そのタスマンが発見したときには、この島には「原始的」な生活を営む人がいて、西洋人にはまったく理解できない言葉を話していた。やがてこの島の人びとは、西洋人によってつぎつぎに虐殺されていき、ついに19世紀後半には全滅した。そのとき、彼らの言葉もまた、滅んでいった。

話す者がいなくなると、言葉も滅びる。それはなにか、きわめて大きな損失のように思える。だが、誰にとっての損失なのだろう。
人間にとって。
わたしたちにとって。
そう言えるのかもしれない。
だが、どう考えたらよいのか、わたしにはよくわからない。

わたしの両親は、両親ともが、両親の代になって、故郷から離れて都市圏に出てきた。都市圏で生活するなかで、方言を捨て、微妙に山陽のアクセントを残しただけの共通語を使うようになった。その子供であるわたしも、小さい頃から共通語を使って育った。

中学に入って驚いたのは、両国で生まれ育った友だちの言葉だ。代々両国の吉良邸の近くで生まれ育った彼女(だから圧倒的に吉良びいきで、忠臣蔵が大嫌いだった)の言葉は、単語の発音ばかりではない、発声そのものがわたしとはまるでちがった。早口で、切り立った滑舌の彼女の発音を聞いていると、母音と子音が完全に合わさった硬質の丸い玉が、空中に散らばっていくのが見えるような気がした。

関西に来て、人生の半分を過ごした。
だが、わたしの言葉は、相変わらずどこともつかない共通語だ。こっちが長いのに、言葉が変わらへんね、と言われることもあるが、ひとくちに関西といっても、京都と大阪ではまるでちがうし、大阪のなかでも北摂と市内、さらに南の方でもまるでちがう。声の出し方がすでにちがっているので、いったいどこの言葉を規準にすればいいのかわからない。

関東から来た人が、学校に行っている子供が、教科書を読むとき、先生から共通語のアクセントではなく、関西訛りのアクセントに直されたと憤慨していた。先生なら、共通語を教えるべきだ、と。自分の子供に、自分にはない「変な」アクセントがついていくのをいやがってもいた。

おそらく日本中の学校で、共通語による指導が徹底され、子供たちは各地域の方言を話すことをやめ、あるいは学校での共通語と、私空間での方言のバイリンガルとなり、やがて方言に見切りをつけて、共通語に切り替えていったのだろう。そんなふうに自分の子供の言葉が変わっていくのに違和感を覚えた親たちも多かったのだろう。

そうして、例外的にその指導が徹底されなかった地域が関西圏だったのだ。中央に対する対抗意識か、あるいは自分たちの文化の矜持か、一定の人口を一貫して抱えていたためか(おそらくそれが最大の理由だろうが)、ここでは言葉のスタンダードは共通語ではなかった。

だが、先生が手直しするアクセントは、関西圏でもその地域特有のものなのだろうか。テレビでよく耳にするような、「どこのものともつかない、いわゆる関西弁」というもののような気もする。おそらくある地域に住む古い言葉の遣い手からみれば、いささかの違和感を覚えてしまう言葉なのかもしれない。

言葉は話され、使われるたびに少しずつ変わっていく。生活し、交流し、移動する人間が話す言葉は、絶え間なく変化していく。

だが、話し手が自分が馴染んだ言葉を使うのをやめて、ほかの言葉を使うようになったとき、最初は生活のある部分だけで、やがてはそちらの方が通じやすいからと、徐々にそちらを使うようになり、やがて考えるときもその言葉で考え、独り言をいうときもその言葉を使うようになったとき、元の言葉は、その人と共に生きることをやめる。

そんな人が増えるにしたがって、その言葉は死んでいく。

これは、なんだか大変なことのような気がするのだが、どこがどう大変なのか、やはりわたしにはよくわからない。




信仰をもつということ

2010-01-09 23:44:51 | weblog
英会話教室でバイトしているころ、一番驚いたのが、日曜日になるとアメリカ人講師の多くが教会に行くことだった。カトリックもいたし、バプテストやルーテルもいた。なかにはSDAの人もいて、ここだけはほかの人の口調から、微妙にちがっているところらしいことがうかがえた。わたしから見れば、ベジタリアンでコーヒーも口にしない人ぐらいのちがいしかわからなかったのだけれど。

ネットもない時代だったが、英語の説教をしてくれる教会をみんなよく知っていて、食料品はどこで買うか、日用品の調達はどこでするか、などの情報と同じように、日本で生活するためには必須の情報だったらしい。

日本に留学に来ていたり、いったん帰国したのちに改めてやって来たような人たちだから、かならずしもアメリカ人の平均とはいえないのかもしれないのだが、日本の女の子とデートするのが大好き、といった感じの人まで、教会にだけはきちんと通っているのだった。この人たちにとって宗教というのは日々の生活の中で大きな位置を占めているのだなあと思ったものだ。

そんな講師のひとりと親しくなった。わたしより七歳ほど年長の女性で、とにかくよく勉強する人だった。わたしなどよりはるかに尾形光琳については詳しくて、この人にはずいぶん屏風絵の見方など教わった。よく中之島の府立図書館には一緒に行ったし、美術館にも行った。映画館にも行ったし、お互いの部屋でブロークンな日本語と英語でぐちゃぐちゃとだべることもあった。

彼女はアメリカにフィアンセがいるということだったが、日本でもつきあっているボーイフレンドがいて、さらには過去ややこしい仲だったという人物とも、ときおり会っているようだった。忙しい時間をやりくりしながら複数の彼氏とつきあっている彼女の話を聞いていると、なんとなく「手玉に取る」という日本語が頭に浮かんできたりした。“彼とはカジュアルな関係”とよく言っていて、casual という単語が、accidental という意味でもなく、無関心でもなく、ファッションの傾向を指すのでもない、"casual relationship"(ゆきずりの関係)として使われるのを、彼女の話を通じて覚えた。

彼女は日曜日といっても、教会に行くことがない。逆に、わたしが聖書の購読会に講師の一人から誘われたようなときに、“やめときなさいよ、つまらないわよ”と言ったり、“誰それの話を聞いていると、まるで原理主義ね”などと皮肉っぽい、鼻先でわらうような言い方をしているので、そういう信仰とは無縁の人なのだろうとばかり思っていたのだ。

それが、いったい何がきっかけだったか、ふたりで夜道を歩いているときのことだった。鴨川にかかる橋を渡りながら、どちらからともなく脚を止め、真っ黒い川面を見下ろした。ネオンが反射するところはきらきらとまぶしかったが、そうでないところは濃く淀んだ闇で、そこをのぞいていると、怖いような、そこから目が離せなくなってしまったような気がした。

わたしが何かそのようなことを言ったのだと思う。
彼女は「ときどき夜中なんかに恐ろしい気持がする」と言ったのだった。わたしは教会へ行かないの、十七歳のときから一度も行ってない、あんなところにはもう二度と行かないと決めたの、そうやってこんな生活をしている、わたしのことを知らない人のなかで、自分のやりたいことをやってる、でも、こうしたことをやっている報いが、わたしが死んだら、the posthumous life がどこに行くことになるかと思うと、恐ろしくてたまらなくなる、と言うのだった。

 "the posthumous life" という単語を聞いたのが初めてだったので、わたしは聞き返した。

「死んだあとの命ということ」

それは soul(魂)ということか、いやちがう、といった噛みあわない会話を交わしたような気もする。そこから話がどうなったかあやふやになってしまっているのだが、信仰はアメリカ人にとってどれだけ重大な問題であるか、信仰がある、というのがどういうものなのか、わたしはそのとき漠然と知ったように思ったのだった。


小手か箸か

2010-01-07 23:23:30 | weblog
お好み焼きというと、関西か広島の食べ物ということになっているが、わたしが子供のころはかならずしもそういうことはなかったのではないか。

商店街の一画に、薄汚れた紺地に白で「お好み焼き」と抜いてあるのれんが下がっている店があった。確かにそののれんには、「関西風」とも「広島風」とも書いてなくて、ただのお好み焼き屋だったのである。

その店の前を通って商店街を抜け、住宅街に入ったあたりに、わたしが行っている書道教室があった。

小学校に入ってから、わたしの字があまりにへたくそだったのを見かねて、近所の書道教室に行かされたのである。母もあまり字は上手ではなくて、それだけにわたしの行く末を心配してくれたのかもしれなかったが、本人があまり興味がなかったのだろう、ピアノ教室を選んだときのように、あちこち訪ね歩くようなこともなく、家から歩いていける距離の書道教室にすぐに決まった。正座する背中の張り具合の美しいおばあさんが先生だった。

初めてそのお好み焼き屋に入ったのは、一緒にその書道教室に通っていた子のお母さんに連れられてではなかったか。いったいどうしてそこに入ったか、そんなことはまるで記憶にないのだが、お好み焼き屋というと、書道教室の記憶が一緒についてくるので、その流れであったことはまちがいない。

ともかく、何度かそこに行ったのである。
紺色ののれんをくぐって、引き戸をがらがらと言わせながら店内に入ると、大きな鉄板があって、そのまわりに丸イス(断じてストゥールなどという結構なものではない)が並んでいる。そのひとつに腰を下ろして、「ブタ玉一枚」「わたしは焼きそば」などと言って、薄汚れた藤色の花柄の(なんでわたしはこういうことだけ覚えているのだろう)かっぽう着を着たおばちゃんに焼いてもらうのである。

ブタ玉の「玉」は卵のことで、卵が入っていないと三十円くらい安くなるのだった。いまのようにアレルギーのなんのということで、二種類があるわけではない。「卵入り」と「そうでないもの」は、言ってみれば「上」と「並み」の関係だったのである。わたしが子供の頃は、すでに卵は別にありがたい食べ物ではなくなっていたのだが、まだその名残はあちこちに残っていたのだろう。

壁際には棚があって、そこにはソースのしみついたマンガやスポーツ新聞がおいてある。一面に青や黄色の色つきの見出しが踊り、野球の写真がでかでかと載っている「スポーツ新聞」というものを初めてわたしが見たのは、その店だったような気がする。
注文してから、その棚の中に入っている「少年マガジン」か「少年ジャンプ」を取ってきて、焼けるのを待つのである。

そのお好み焼きがおいしかったという記憶はあまりないのだが、三百円ぐらいではなかったか、ともかくお小遣いをもらって、子供たちだけで帰りがけに寄るというのは、こたえられない楽しみだった。お好み焼き屋に行くために、書道教室に通っていたようなものだ。

だが、いったい何がそんなに楽しかったのだろう。
藤色のかっぽう着のおばちゃんは、愛想の悪い、おっかないおばちゃんで、よく怒られたような気がする。

いまでも覚えているのは、焼いてもらったお好み焼きを、おばちゃんは大きな小手でまず横半分に切れ目を入れ、そこから縦に三等分の切れ目を入れてくれるのだが、それを割り箸を使って食べると、そんなもの、使うんじゃない、と怒るのである。アルマイトの小皿と一緒に渡された小さな小手でそれをさらに切り分け、舌がやけどしそうに熱いお好み焼きを、小手にのせて、ふうふうしながら端から食べていく。だが、それにも食べ方があって、熱いから、とあまりちびりちびりと食べていると、「かじるんじゃない」と言われるのだった。

その書道教室も、理由はよく覚えていないのだが、十級から始まって、八級ぐらいになったころにやめてしまった。一年半ほども通っただろうか。果たしてお好み焼き屋には何度ほど行ったのだろう。

当然のながら、書道はちっとも上達せず、学校でノートに書く字も不器用で汚い字のまま、習字道具はしまいこまれた。何一つ身に付かなかった書道教室だったが、お好み焼きを小手で食べる技術だけは身に付いた。だからいまだにわたしはお好み焼きを食べるとき、小手を使うのである。


たとえ歳を取ったとしても

2010-01-06 22:46:24 | weblog
以前住んでいたところで、一年間、輪番制の自治会の役員を務めたことがある。そのなかに、敬老の日に記念品を配るという仕事があった。七十代以上の居住者のいる部屋を戸別訪問し、簡単な挨拶をしたあとで、贈り物をするのである。

隣で朝夕のあいさつをしている人もいれば、何度か顔を見たことこそあっても、ああ、この人が同じ階の人だったのか、と初めて知るような人もいた。

ただ、当たり前のことではあるけれど、「高齢者」とひとくくりにされている人たちが、それぞれに実にさまざまな歴史と「いま」を生きていることを、ドアを開けて、ほんの少し言葉を交わしただけでも感じたのだった。

おめでとうございます、と頭を下げるのが、なんだか気が引けそうなほど若々しい人、こちらの言葉に、もうこんな歳になってしまいましたよ、とはにかむように笑う人、迷惑そうな顔で、ものも言わず受けとって、早く帰ってくれと言わんばかりにドアに手をかける人、毎年子供会に寄付しているので今年も贈り物はそちらに回してください、という人。仕事を続けている人もいれば、リタイア後もマンションの世話役で忙しい人も、ほとんど外に出ることもなさそうな人もいた。

高齢化社会と言われて久しいけれど、わたしたちはいったいこの言葉をどういう意味で使っているのだろう。「高齢者」というくくりで、いったい何を、そうして誰のことを問題にしようとしているのだろう。

わかっているのは、不運に見舞われることがなければ、自分もまちがいなく、そのカテゴリに加わっていくということだけだ。


ところで小説には老人と子供という組み合わせがよく出てくる。たとえばヘミングウェイの『老人と海』やラフィク・シャミの『片手いっぱいの星』などなど。祖父母と一緒に生活した経験のないわたしにとって、こうした小説に出てくる老人たちは、誰よりも親しい人びとだった。

小説のなかでの老人と子供は、血縁のこともあれば、行きずりのこともある。だが基本的な構造は同じだ。老人は子供に智慧を授け、生きていく人間の姿を見せ、歴史や文化や技術を手渡ししていく。ここには教えること、学ぶことの原型がある。


さて、わたしはディズニーの長編アニメが好きで、つい毎年観てしまう。アメリカ人が子供に一体何を伝えようとしているのか、どの映画よりこのシリーズが一番よくわかるような気がして、どうしても観なくちゃ、と思っているわけではないのだが、『トイ・ストーリー』の一作目から、ピクサーのCGアニメは、結果的にすべて観ているのだ。

先日『カールじいさんの空飛ぶ家』という映画を観た。
連れ合いを亡くしたおじいさんが、妻の思い出のしみついた家ごと、妻があこがれつづけた南米に移住する、というのがメインストーリーなのだが、古典的な少年と老人の枠組みはきちんと踏襲されていて、学ぶことがストーリーの大きな柱であることには変わりはない。

ところがおもしろいことに、この映画の学ぶ主体は、タイトルにもなったカールじいさんことミスター・フレドリクセンの方なのである。

妻のエリーが子供の頃から抱きつづけた南米での冒険という夢は、日々の暮らしの中で先送りにされ、やがてその地を踏むこともなく彼女は逝ってしまった。だからひとり遺されたミスター・フレドリクセンは、なんとか妻の夢をかなえてやろうと考えたのだ。

だが、望んでもいない出会いがあり、男の子や犬や鳥の面倒を行きがかり上、見てやらなければならなくなる。妻の夢をかなえてやろうとした旅立ちの目的が、大きな変更を余儀なくされるのだ。

ミスター・フレドリクセンは、当初予想もしなかった冒険と危機のなかで、利己的にふるまうことは、自分をも含めて周りの人びとに不幸をもたらすことを知る。仲間を助け、彼らのために行動することこそが、みずからの活路を拓いていくことでもあると学ぶのである。

映画は、幸福というのは追い求めるべき目標ではなく、他人を幸福にしようと努めることによって、その人に訪れる状態であることを教える。ミスター・フレドリクセンは、妻を失ったのち、自分がこれまでずっとそうやってきたのだということを、そうして、妻がいなくなったのちも、少年や、鳥や、犬たちや、他の人のためにそうやって生きていくということを学ぶのだ。

『老人と海』でも、サンチャゴはカジキ相手にたった一人で格闘する。だが、サンチャゴの格闘は、たとえ歳を取っても人間が威厳を失わなければ、それは敗北ではないのだということの証明だ。

漁師サンチャゴは忍耐を重ね、非常に雄々しく、そしてまた美しく闘い、勝利をおさめる。その勝利の証はやがてサメに食われ、無惨な姿になってしまうが、彼に胸に美しく刻まれたことに変わりない。けれども、彼の忍耐も、技術も、力強さも、漁に出る以前の彼にすでに備わっていた資質であり、戻ってきた彼はそのことを証明したに過ぎない。

それに対して「カールじいさんの空飛ぶ家」では、ミスター・フレドリクセンは学ぶ。冒険に出る以前と戻ってきたあとでは、別人になっているのだ。
つまり老人となっても、人は学んでいくのだ、学び、成長し、新たなものに向かって歩いていくことができるのだ、という物語なのである。

つまり、このように結論づけることはできないだろうか。
『老人と海』において、ヘミングウェイは、いわば人生の最後のステージにおける理想の人間の姿を描いて見せた。
けれども「カールじいさん…」では、自分がこうありたい、という作り手の、同時にわたしたち自身の願いが描かれているのだ。

歳を取った自分がどう生きていくのか。
人ごとではない、自分の問題として考える。もちろんそれは映画だから、荒唐無稽でたぶんにご都合主義的、夢と言ってしまえば夢ではある。けれども、それでも、わたしたちは「こんなふうに歳を取っていけたら」とそこに夢を描くことができる。
若く見えるばかりがいいことじゃない。「若く見える」なんて、しょせんは自分の見栄だけではないか。自分のプライドを守ることばかり考えた冒険王がどうなったか。

老いというのは、この自分にとって切実な問題なのだ。
「高齢化社会」というのが、こんなふうに社会全体が成熟していく、ということなのだとしたら、それはそれで悪くないものなのかもしれない。


明けてから

2010-01-04 23:08:25 | weblog
暮れから正月にかけては、駅や電車のなかで、あきらかに日ごろ通勤・通学に電車を利用してはいないらしい人を、ずいぶん大勢見かけた。精算が必要なのに、それをしないまま自動改札を通ろうとして、いきなり目の前で扉が閉まってしまってとまどう人、乗り込むと同時に混み合ったドア前で立ち止まってしまう人、かと思えば行列の後ろから割り込んで、荷物で四人がけの席を陣取ろうとする人、切符を買うのに、どのボタンを最初に押したらいいのかわからなくて困っている人……。あわただしい人の流れのなかで、立ち往生している人を多く見かけたのだった。

ただ、慣れない駅でのあれやこれやにとまどっている人に対して、職業柄か、あるいは親切からか、なにごとか教えている人の話し方に、共通したしゃべり方と声のトーンが気になった。

やり方がわからない、どこに行けば良いかわからない、そこで駅員や通行人に尋ねているのは、高齢者が多かった。ところがそれに応える側は大きな声でことさらにゆっくりと、
「だからねー、おばあちゃん、あそこに自動精算機があるでしょう、そこに人が行列してるところが見える? あそこだよ、あ・そ・こ。あの機械にねー、切符を入れるの。わかる? できないかなー」という調子なのである。

さらに別のところでは、白い杖を握っている若い男性人に対してまで、同じような話し方をしている人を見かけた。あたかもその人が目だけでなく耳まで不自由であるかのように。

それにしてもどうしてそんなしゃべり方になるのだろう。

以前、サイトに訪問してくださった視覚に障碍をお持ちの方からメールを戴いたことがある。その方は、日常生活のさまざまな場で、話しかけることを避けられる、とのことだった。病院ではお医者さんが、美容院では美容師さんが、その人の体調や、髪型に対する希望なのに、代わりに付き添いの人に聞くのだそうだ。盲導犬をつれていれば、つれている人を避けて、犬に話しかけるのだとか。

わたしはそのメールを拝見したとき、てっきり多くの人は失礼に当たることをしてしまうことを恐れて、そんな態度を取るのだとばかり思っていた。

だが、高齢者に対する話し方を見ているうちに、そうではないのかもしれない、という気がしてきた。

大きな声で、ゆっくりとしゃべるあの話し方は、言葉の世界の新参者である小さな子供にに話しかけるときのそれだ。

そういえば外国人に対しても、そんなしゃべり方をしている人もよく見かける。わたしは外国へ行ったとき、一度もそんな話し方をされたことがないのだが、もしかしたら、小さな子供、外国人、高齢者、障碍者、そうした人をひとくくりにして、同じような相対し方をしているのかもしれない。

高齢であったり、目が不自由だったり、外国人であったりすることが、その人に理解力がないことを意味するわけではない。けれどもわたしたちはその人があたかも小さな子供であるかのように、つまり「不完全な人間」と見なしているのかもしれない。

視覚障碍をお持ちの方に話しかけるのを避けようとしてしまうのも、「理解力がない人」に話をする労を厭おうとしているのかも。

自分はそういうことをやっていはしないか。

小柄なおばあさんに向かって、のしかかるように話したりしてはいないか。聞き返されもしないのに、大きな声で話してはいないか。

「失礼のないよう」というのは、意識したふるまいではないのだ。無意識のうちに人を無能扱いすることほど、失礼なことがあるだろうか。

あらためて、自分のふるまいを考えてしまう正月だった。


ジョージ・オーウェル「なぜわたしは書くのか」最終回と年頭のごあいさつ

2010-01-01 23:35:01 | weblog
(その4)

 過去十年間にわたってわたしが何よりも目指したのは、政治的な作品を、芸術の域に高めていくことだった。わたしの出発点は、つねにある種の政治的主義主張、不正を嗅ぎつける感覚である。一冊の本を書くために腰を下ろして、わたしは決して「芸術作品を書いてやろう」などと自分に言いきかせたりはしない。わたしが書くのは、暴いてやりたい虚偽があるからであり、社会の注意を喚起したい出来事があるからなのだ。だからこそ、わたしがまず初めに心がけるのは、話を聞いてみたい、という気持を起こさせることなのである。

だが、それが美に関わる仕事でないなら、わたしには一冊の本も、雑誌に掲載する長めの論文さえも、書くことはできないだろう。わたしの作品を丁寧に読んでもらえればわかると思うが、仮にまぎれもないプロパガンダの箇所であっても、プロの政治家の目から見れば、無用な部分がずいぶんあるにちがいない。

だがわたしには、子供のころから育んできた世界観を、振り捨ててしまうことなどできないし、またしようとも思わない。命があるかぎり、散文形式に固執することをやめないだろうし、この世界の表層を愛し、身の回りのことどもや、役に立たない情報のがらくたから、喜びを引き出し続けていくのだろう。自分のそうした側面を押さえつけようとしても、無駄なことだ。この仕事は生来の好悪の情と、この時代がわたしたちの誰もに強いる、本質的には公に属する、非個人的な活動とのあいだに折り合いをつけていくしかないものなのである。

 これは簡単なことではない。作品の構成の面でも言葉の面でも問題が起こってくるし、誠実ということの問題も、異なった様相を帯びてくる。こうした難問のなかでも比較的単純な例をあげてみよう。

わたしの本で、スペイン内戦のことを扱った『カタロニア賛歌』という本がある。もちろんこれは、明確に政治的な作品ではあるのだが、ある程度の距離を保ち、形式を尊重しようとした。なかでもわたしが苦心したのは、自分の文学的直観に抵触することなく、あますところなく真実を伝えることだった。

何よりも、ひとつの長い章のなかで、フランコと共謀したとして告発されたトロツキストを擁護するために、新聞を大量に引用したのである。どう見ても、一年か二年すればこんな章は、一般読者には何の関心も引かなくなってしまうだろうから、本全体を損なう恐れは十分にあった。

尊敬するある批評家は、読後わたしに苦言を呈した。「なんであんなものを挿入したのか」と彼は言った。「すばらしい本になるところだったのに、新聞記事になってしまったじゃないか」

確かに彼の言う通りだった。だが、わたしにはこれしか方法がなかったのだ。イギリスではほとんど知られていなかったが、偶然わたしは無実の人が誤って告発されていることを知ったのだ。もしそれに対して怒りを抱かなければ、わたしが本を書くことはなかっただろうから。

 この問題は、これからもさまざまなかたちでわたしに持ち上がってくるだろう。言葉に関しては、さらに微妙な問題をはらんでいるので、ここで論じる余裕はありそうにない。ただわたしに言えるのは、これまで以上に華美を排し、正確に書こうと心がけているということだけだ。いずれにせよ、わたしがどんな文章のスタイルを完成させていくにせよ、完成したときは、すでにそれを脱ぎ捨てている時期でもあるのだ。

『動物農場』は自分がやろうとしていることを、すみずみまで理解した最初の作品となった。政治的な目的と芸術的な目的の融合がそれである。それから七年間、長編小説を書いてないが、近い将来、もう一冊書きたいと思っている。失敗することになるだろう。あらゆる本は失敗なのだ。だが、わたしには自分の書きたいものは、はっきりとわかっている。

 ここまで書いてきて、このページとその前を読み返してみると、あたかも自分の書こうとする動機は、ことごとく公的な意識によるもの、と受けとられかねないようにも見える。だが、結論部では、そうした印象を与えたままにしておくのはよそう。作家というものは、誰もみな虚栄心があり、利己的であり、怠惰でもある。なによりも、かれらの動機の根底は、謎が潜んでいる。

本を書くということは苦しく、疲労困憊する仕事で、いつまで経っても良くならない、ひどく痛む病気を引きずっているようなものだ。悪魔じみたものに取り憑かれでもしないかぎり、こんなことをしようという人間はいない。こいつには抵抗することもできなければ、その正体を知ることもできないのだ。この悪魔はもしかしたら、人の注意を引くために赤ん坊を泣きわめかせる本能と同じものなのかもしれない。そうであっても、その人固有のゆがみを消すための努力を続けないかぎりは、読むにたえるものは書けないというのもまた真実なのである。

良い散文というのは、枠にはまった窓ガラスのようなものだ。自分の動機のうち、どれが一番強いのかはわからない。だが、そのうちのどれを追求する価値があるかは、はっきりしている。自分の仕事を振り返ってみると、政治的な目的を欠いているときは、たいがい血の通っていない本を書くことになる。美文調だの意味を欠く文章だの、派手派手しい形容詞や、たわごとを並べる羽目になってしまうのだ




THE END


(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)


* * *



旧年中は当ブログ及び「ghostbuster's book web」に遊びに来てくださって、ほんとうにありがとうございました。いつも訪問してくださる方、コメントをくださった方、あるいはどこのどなたかもわからない、カウンタに刻まれた数字のひとつである方、すべての方にお礼を言います。

今年もまたかたつむりのような歩で、おもしろい短篇やエッセイを翻訳したり、自分が読んで考えたことを書いたりしていきたいと思っています。


 一年は正月に、一生は今に在り  (正岡子規)


この句を書いてから、子規の人生はもう五年ほどしか残っていませんでした。病床に就く日の方が多くなった子規が、どんな思いでこの句を読んだか、にもかかわらず、というか、それゆえの、というか、とにかくこの句の強さと覚悟を前にすると、わたしの背は自ずと伸びていきます。
この句をいつも、心のどこかに留めて、毎日毎日を大切に、せいいっぱい生きていきたいと思っています。

どうか今年もよろしく。
みなさまにとって、今年がすばらしい年でありますように。


  2010年 元旦