いまや日本の総人口の50%が三大都市圏(首都圏、中京圏、関西圏)に住んでいるのだという。考えてみればものすごい人口集中だ。国土も狭く、通信も交通網も発達していて、どこにいてもよさそうな気がするのだが、結局そういうことになってしまうのは、企業や工場などの職場が、もっぱら都市圏に集中しているからなのだろう。
総人口自体は減少に転じたと言われつつもなお、大阪を除けば都市圏の人口は増加を続けているらしい。その結果、過疎と呼ばれる地域は、急速に過疎化の度合いを深めていく。山間や離島の小さな集落は、ばたばたと閉鎖に追い込まれていくのだろう。
小学生のころ、ダムに沈む村の話を聞いて、先祖代々暮らしていた人びとの家や田畑や道が水底に沈んでいく話を聞いて、なんともいえない喪失感を覚えたものだ。だが、現実に、ダムができたわけでもないのに、住む人がなくなり、家は閉ざされ、道を通る人もなくなる。
そのときまた、少数の人びとによって話されてきた、その土地ならではの言葉もアクセントも発声も、なくなってしまうのだろう。
オーストラリアの東南部にタスマニア島という島がある。17世紀にオランダ人のタスマンが発見したから「タスマニア島」である。それ以前の名前はわたしは知らない。
ともかく、そのタスマンが発見したときには、この島には「原始的」な生活を営む人がいて、西洋人にはまったく理解できない言葉を話していた。やがてこの島の人びとは、西洋人によってつぎつぎに虐殺されていき、ついに19世紀後半には全滅した。そのとき、彼らの言葉もまた、滅んでいった。
話す者がいなくなると、言葉も滅びる。それはなにか、きわめて大きな損失のように思える。だが、誰にとっての損失なのだろう。
人間にとって。
わたしたちにとって。
そう言えるのかもしれない。
だが、どう考えたらよいのか、わたしにはよくわからない。
わたしの両親は、両親ともが、両親の代になって、故郷から離れて都市圏に出てきた。都市圏で生活するなかで、方言を捨て、微妙に山陽のアクセントを残しただけの共通語を使うようになった。その子供であるわたしも、小さい頃から共通語を使って育った。
中学に入って驚いたのは、両国で生まれ育った友だちの言葉だ。代々両国の吉良邸の近くで生まれ育った彼女(だから圧倒的に吉良びいきで、忠臣蔵が大嫌いだった)の言葉は、単語の発音ばかりではない、発声そのものがわたしとはまるでちがった。早口で、切り立った滑舌の彼女の発音を聞いていると、母音と子音が完全に合わさった硬質の丸い玉が、空中に散らばっていくのが見えるような気がした。
関西に来て、人生の半分を過ごした。
だが、わたしの言葉は、相変わらずどこともつかない共通語だ。こっちが長いのに、言葉が変わらへんね、と言われることもあるが、ひとくちに関西といっても、京都と大阪ではまるでちがうし、大阪のなかでも北摂と市内、さらに南の方でもまるでちがう。声の出し方がすでにちがっているので、いったいどこの言葉を規準にすればいいのかわからない。
関東から来た人が、学校に行っている子供が、教科書を読むとき、先生から共通語のアクセントではなく、関西訛りのアクセントに直されたと憤慨していた。先生なら、共通語を教えるべきだ、と。自分の子供に、自分にはない「変な」アクセントがついていくのをいやがってもいた。
おそらく日本中の学校で、共通語による指導が徹底され、子供たちは各地域の方言を話すことをやめ、あるいは学校での共通語と、私空間での方言のバイリンガルとなり、やがて方言に見切りをつけて、共通語に切り替えていったのだろう。そんなふうに自分の子供の言葉が変わっていくのに違和感を覚えた親たちも多かったのだろう。
そうして、例外的にその指導が徹底されなかった地域が関西圏だったのだ。中央に対する対抗意識か、あるいは自分たちの文化の矜持か、一定の人口を一貫して抱えていたためか(おそらくそれが最大の理由だろうが)、ここでは言葉のスタンダードは共通語ではなかった。
だが、先生が手直しするアクセントは、関西圏でもその地域特有のものなのだろうか。テレビでよく耳にするような、「どこのものともつかない、いわゆる関西弁」というもののような気もする。おそらくある地域に住む古い言葉の遣い手からみれば、いささかの違和感を覚えてしまう言葉なのかもしれない。
言葉は話され、使われるたびに少しずつ変わっていく。生活し、交流し、移動する人間が話す言葉は、絶え間なく変化していく。
だが、話し手が自分が馴染んだ言葉を使うのをやめて、ほかの言葉を使うようになったとき、最初は生活のある部分だけで、やがてはそちらの方が通じやすいからと、徐々にそちらを使うようになり、やがて考えるときもその言葉で考え、独り言をいうときもその言葉を使うようになったとき、元の言葉は、その人と共に生きることをやめる。
そんな人が増えるにしたがって、その言葉は死んでいく。
これは、なんだか大変なことのような気がするのだが、どこがどう大変なのか、やはりわたしにはよくわからない。
総人口自体は減少に転じたと言われつつもなお、大阪を除けば都市圏の人口は増加を続けているらしい。その結果、過疎と呼ばれる地域は、急速に過疎化の度合いを深めていく。山間や離島の小さな集落は、ばたばたと閉鎖に追い込まれていくのだろう。
小学生のころ、ダムに沈む村の話を聞いて、先祖代々暮らしていた人びとの家や田畑や道が水底に沈んでいく話を聞いて、なんともいえない喪失感を覚えたものだ。だが、現実に、ダムができたわけでもないのに、住む人がなくなり、家は閉ざされ、道を通る人もなくなる。
そのときまた、少数の人びとによって話されてきた、その土地ならではの言葉もアクセントも発声も、なくなってしまうのだろう。
オーストラリアの東南部にタスマニア島という島がある。17世紀にオランダ人のタスマンが発見したから「タスマニア島」である。それ以前の名前はわたしは知らない。
ともかく、そのタスマンが発見したときには、この島には「原始的」な生活を営む人がいて、西洋人にはまったく理解できない言葉を話していた。やがてこの島の人びとは、西洋人によってつぎつぎに虐殺されていき、ついに19世紀後半には全滅した。そのとき、彼らの言葉もまた、滅んでいった。
話す者がいなくなると、言葉も滅びる。それはなにか、きわめて大きな損失のように思える。だが、誰にとっての損失なのだろう。
人間にとって。
わたしたちにとって。
そう言えるのかもしれない。
だが、どう考えたらよいのか、わたしにはよくわからない。
わたしの両親は、両親ともが、両親の代になって、故郷から離れて都市圏に出てきた。都市圏で生活するなかで、方言を捨て、微妙に山陽のアクセントを残しただけの共通語を使うようになった。その子供であるわたしも、小さい頃から共通語を使って育った。
中学に入って驚いたのは、両国で生まれ育った友だちの言葉だ。代々両国の吉良邸の近くで生まれ育った彼女(だから圧倒的に吉良びいきで、忠臣蔵が大嫌いだった)の言葉は、単語の発音ばかりではない、発声そのものがわたしとはまるでちがった。早口で、切り立った滑舌の彼女の発音を聞いていると、母音と子音が完全に合わさった硬質の丸い玉が、空中に散らばっていくのが見えるような気がした。
関西に来て、人生の半分を過ごした。
だが、わたしの言葉は、相変わらずどこともつかない共通語だ。こっちが長いのに、言葉が変わらへんね、と言われることもあるが、ひとくちに関西といっても、京都と大阪ではまるでちがうし、大阪のなかでも北摂と市内、さらに南の方でもまるでちがう。声の出し方がすでにちがっているので、いったいどこの言葉を規準にすればいいのかわからない。
関東から来た人が、学校に行っている子供が、教科書を読むとき、先生から共通語のアクセントではなく、関西訛りのアクセントに直されたと憤慨していた。先生なら、共通語を教えるべきだ、と。自分の子供に、自分にはない「変な」アクセントがついていくのをいやがってもいた。
おそらく日本中の学校で、共通語による指導が徹底され、子供たちは各地域の方言を話すことをやめ、あるいは学校での共通語と、私空間での方言のバイリンガルとなり、やがて方言に見切りをつけて、共通語に切り替えていったのだろう。そんなふうに自分の子供の言葉が変わっていくのに違和感を覚えた親たちも多かったのだろう。
そうして、例外的にその指導が徹底されなかった地域が関西圏だったのだ。中央に対する対抗意識か、あるいは自分たちの文化の矜持か、一定の人口を一貫して抱えていたためか(おそらくそれが最大の理由だろうが)、ここでは言葉のスタンダードは共通語ではなかった。
だが、先生が手直しするアクセントは、関西圏でもその地域特有のものなのだろうか。テレビでよく耳にするような、「どこのものともつかない、いわゆる関西弁」というもののような気もする。おそらくある地域に住む古い言葉の遣い手からみれば、いささかの違和感を覚えてしまう言葉なのかもしれない。
言葉は話され、使われるたびに少しずつ変わっていく。生活し、交流し、移動する人間が話す言葉は、絶え間なく変化していく。
だが、話し手が自分が馴染んだ言葉を使うのをやめて、ほかの言葉を使うようになったとき、最初は生活のある部分だけで、やがてはそちらの方が通じやすいからと、徐々にそちらを使うようになり、やがて考えるときもその言葉で考え、独り言をいうときもその言葉を使うようになったとき、元の言葉は、その人と共に生きることをやめる。
そんな人が増えるにしたがって、その言葉は死んでいく。
これは、なんだか大変なことのような気がするのだが、どこがどう大変なのか、やはりわたしにはよくわからない。