陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

たとえ歳を取ったとしても

2010-01-06 22:46:24 | weblog
以前住んでいたところで、一年間、輪番制の自治会の役員を務めたことがある。そのなかに、敬老の日に記念品を配るという仕事があった。七十代以上の居住者のいる部屋を戸別訪問し、簡単な挨拶をしたあとで、贈り物をするのである。

隣で朝夕のあいさつをしている人もいれば、何度か顔を見たことこそあっても、ああ、この人が同じ階の人だったのか、と初めて知るような人もいた。

ただ、当たり前のことではあるけれど、「高齢者」とひとくくりにされている人たちが、それぞれに実にさまざまな歴史と「いま」を生きていることを、ドアを開けて、ほんの少し言葉を交わしただけでも感じたのだった。

おめでとうございます、と頭を下げるのが、なんだか気が引けそうなほど若々しい人、こちらの言葉に、もうこんな歳になってしまいましたよ、とはにかむように笑う人、迷惑そうな顔で、ものも言わず受けとって、早く帰ってくれと言わんばかりにドアに手をかける人、毎年子供会に寄付しているので今年も贈り物はそちらに回してください、という人。仕事を続けている人もいれば、リタイア後もマンションの世話役で忙しい人も、ほとんど外に出ることもなさそうな人もいた。

高齢化社会と言われて久しいけれど、わたしたちはいったいこの言葉をどういう意味で使っているのだろう。「高齢者」というくくりで、いったい何を、そうして誰のことを問題にしようとしているのだろう。

わかっているのは、不運に見舞われることがなければ、自分もまちがいなく、そのカテゴリに加わっていくということだけだ。


ところで小説には老人と子供という組み合わせがよく出てくる。たとえばヘミングウェイの『老人と海』やラフィク・シャミの『片手いっぱいの星』などなど。祖父母と一緒に生活した経験のないわたしにとって、こうした小説に出てくる老人たちは、誰よりも親しい人びとだった。

小説のなかでの老人と子供は、血縁のこともあれば、行きずりのこともある。だが基本的な構造は同じだ。老人は子供に智慧を授け、生きていく人間の姿を見せ、歴史や文化や技術を手渡ししていく。ここには教えること、学ぶことの原型がある。


さて、わたしはディズニーの長編アニメが好きで、つい毎年観てしまう。アメリカ人が子供に一体何を伝えようとしているのか、どの映画よりこのシリーズが一番よくわかるような気がして、どうしても観なくちゃ、と思っているわけではないのだが、『トイ・ストーリー』の一作目から、ピクサーのCGアニメは、結果的にすべて観ているのだ。

先日『カールじいさんの空飛ぶ家』という映画を観た。
連れ合いを亡くしたおじいさんが、妻の思い出のしみついた家ごと、妻があこがれつづけた南米に移住する、というのがメインストーリーなのだが、古典的な少年と老人の枠組みはきちんと踏襲されていて、学ぶことがストーリーの大きな柱であることには変わりはない。

ところがおもしろいことに、この映画の学ぶ主体は、タイトルにもなったカールじいさんことミスター・フレドリクセンの方なのである。

妻のエリーが子供の頃から抱きつづけた南米での冒険という夢は、日々の暮らしの中で先送りにされ、やがてその地を踏むこともなく彼女は逝ってしまった。だからひとり遺されたミスター・フレドリクセンは、なんとか妻の夢をかなえてやろうと考えたのだ。

だが、望んでもいない出会いがあり、男の子や犬や鳥の面倒を行きがかり上、見てやらなければならなくなる。妻の夢をかなえてやろうとした旅立ちの目的が、大きな変更を余儀なくされるのだ。

ミスター・フレドリクセンは、当初予想もしなかった冒険と危機のなかで、利己的にふるまうことは、自分をも含めて周りの人びとに不幸をもたらすことを知る。仲間を助け、彼らのために行動することこそが、みずからの活路を拓いていくことでもあると学ぶのである。

映画は、幸福というのは追い求めるべき目標ではなく、他人を幸福にしようと努めることによって、その人に訪れる状態であることを教える。ミスター・フレドリクセンは、妻を失ったのち、自分がこれまでずっとそうやってきたのだということを、そうして、妻がいなくなったのちも、少年や、鳥や、犬たちや、他の人のためにそうやって生きていくということを学ぶのだ。

『老人と海』でも、サンチャゴはカジキ相手にたった一人で格闘する。だが、サンチャゴの格闘は、たとえ歳を取っても人間が威厳を失わなければ、それは敗北ではないのだということの証明だ。

漁師サンチャゴは忍耐を重ね、非常に雄々しく、そしてまた美しく闘い、勝利をおさめる。その勝利の証はやがてサメに食われ、無惨な姿になってしまうが、彼に胸に美しく刻まれたことに変わりない。けれども、彼の忍耐も、技術も、力強さも、漁に出る以前の彼にすでに備わっていた資質であり、戻ってきた彼はそのことを証明したに過ぎない。

それに対して「カールじいさんの空飛ぶ家」では、ミスター・フレドリクセンは学ぶ。冒険に出る以前と戻ってきたあとでは、別人になっているのだ。
つまり老人となっても、人は学んでいくのだ、学び、成長し、新たなものに向かって歩いていくことができるのだ、という物語なのである。

つまり、このように結論づけることはできないだろうか。
『老人と海』において、ヘミングウェイは、いわば人生の最後のステージにおける理想の人間の姿を描いて見せた。
けれども「カールじいさん…」では、自分がこうありたい、という作り手の、同時にわたしたち自身の願いが描かれているのだ。

歳を取った自分がどう生きていくのか。
人ごとではない、自分の問題として考える。もちろんそれは映画だから、荒唐無稽でたぶんにご都合主義的、夢と言ってしまえば夢ではある。けれども、それでも、わたしたちは「こんなふうに歳を取っていけたら」とそこに夢を描くことができる。
若く見えるばかりがいいことじゃない。「若く見える」なんて、しょせんは自分の見栄だけではないか。自分のプライドを守ることばかり考えた冒険王がどうなったか。

老いというのは、この自分にとって切実な問題なのだ。
「高齢化社会」というのが、こんなふうに社会全体が成熟していく、ということなのだとしたら、それはそれで悪くないものなのかもしれない。