陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その4.

2010-01-23 23:36:17 | 
4.直接の責任、間接の責任

ここで改めて確認しておく。

責任が問題になるのは、ある人が、Aのようにもできたし、そうしないこともできた、という選択の余地があるときだけである。選択の余地があるということは、同時に、行為Bではなく、Aを取ったことには、理由がある、ということだ。

問題は、その理由は、ほんとうにひとつなのだろうか。実は、理由というのはどこまでもさかのぼることが可能なのである。
時系列をさかのぼることもできる。たとえば『首飾り』では、

マシルドが長年、厳しい労働に耐えなければならなかったのは、首飾りを紛失したからである。
→首飾りを紛失したのは、首飾りを人から借りるようなことをしたからである。
→首飾りを借りなければならなかったのは、舞踏会に出席したからである。
→舞踏会に出席したのは、マシルドに虚栄心があったからである。
→マシルドの虚栄心は、彼女の育ち方に問題があったからである。
→マシルドの育ち方に問題が生じたのは、両親がきちんとマシルドを育てなかったからである。
→マシルドの両親がマシルドをきちんと育てなかったのは、……。

このように、過去をさかのぼって行為の責任を負わせることのできる原因をさぐろうにも、どこまでいってもきりがなくない。

時系列をさかのぼらなくても、「原因」がいくつもあるような例もある。
たとえば森鴎外の『雁』では、語り手の「僕」は、下宿屋の夕食に嫌いな鯖の味噌煮が出ることがわかって、岡田を誘って外食する。その帰り道、ふたりが並んで歩いているせいで、お玉は声をかけることができず、しかもその日は岡田がその下宿で過ごす最後の日だったために、とうとうお玉は自分の思いを岡田に告げることしかできなくなってしまう。

お玉の思いを遂げさせなかった責任は、果たして「僕」にあるのだろうか。
確かに「僕」は岡田を誘わないこともできた。だが、鯖の味噌煮をどうしても食べたくなかったのだ。お玉の悲恋の責任は、鯖の味噌煮が負うべきなのだろうか。

確かに、鯖の味噌煮にかかってくる責任とくらべると、「僕」の行為の方が責任は重いようにも見える。だが、ほんとうにそれだけが「原因」なのだろうか。「僕」が岡田を誘ったのは、ふたりが親しかったからだし、共に下宿生だったからだし、同じ学生だったからだし、……と、数え切れないほどの「原因」が重なりあって、「僕」は岡田を食事に誘ったのである。いったいそのうちのどれを「原因」とするのか。一体何に「責任」を帰すのか。

いったいどうしてこんなことになってしまうのだろう。どうして簡単な行為ですら、単一の原因に帰すことができないのだろう。

それは、わたしたちの行為は、自己の内部の単一の動機から発するものではないからだ。わたしたちの行為は、自分の行為であると同時に、周囲からの影響を受けて行動させられている。状況というのは、わたしたちが認識するのがそのごく一部でしかなく、おびただしい人やものごとが重層的にからみあっている。わたしたちはその状況に影響を受けながら、行為させられている。

いや、ちがう、自分が行為Aを選択したのは自分の意志である、という人もいるかもしれない。けれども、なぜ、それ以外の無数の可能性のある行為のうちの、Aが選択肢として登場したのか。それは、状況に影響されたからではないのか。わたしが「自分の意思」と呼んでいるものさえ、さかのぼっていけば、そのことごとくが「自分以外の影響」を受けていることがわかる。そもそも「意思」さえも、言葉によって組み立てられており、その言葉は借り物なのだから。

だが、どんな行為も自分以外のものにそうさせられたのだと考ええていくと、責任など問えなくなってしまう。首飾りを紛失したのは、舞踏会が混雑していたからで、わたしの責任ではない、ということさえ言えるではないか。
やむをえなかった、こうしかできなかった、仕方がなかった……。こうなると、責任どころではなくなってしまう。

わたしたちが状況によって行為させられているのだとしたら、責任を負うのはいったい誰なのだろう。


(この項つづく)