陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

明けてから

2010-01-04 23:08:25 | weblog
暮れから正月にかけては、駅や電車のなかで、あきらかに日ごろ通勤・通学に電車を利用してはいないらしい人を、ずいぶん大勢見かけた。精算が必要なのに、それをしないまま自動改札を通ろうとして、いきなり目の前で扉が閉まってしまってとまどう人、乗り込むと同時に混み合ったドア前で立ち止まってしまう人、かと思えば行列の後ろから割り込んで、荷物で四人がけの席を陣取ろうとする人、切符を買うのに、どのボタンを最初に押したらいいのかわからなくて困っている人……。あわただしい人の流れのなかで、立ち往生している人を多く見かけたのだった。

ただ、慣れない駅でのあれやこれやにとまどっている人に対して、職業柄か、あるいは親切からか、なにごとか教えている人の話し方に、共通したしゃべり方と声のトーンが気になった。

やり方がわからない、どこに行けば良いかわからない、そこで駅員や通行人に尋ねているのは、高齢者が多かった。ところがそれに応える側は大きな声でことさらにゆっくりと、
「だからねー、おばあちゃん、あそこに自動精算機があるでしょう、そこに人が行列してるところが見える? あそこだよ、あ・そ・こ。あの機械にねー、切符を入れるの。わかる? できないかなー」という調子なのである。

さらに別のところでは、白い杖を握っている若い男性人に対してまで、同じような話し方をしている人を見かけた。あたかもその人が目だけでなく耳まで不自由であるかのように。

それにしてもどうしてそんなしゃべり方になるのだろう。

以前、サイトに訪問してくださった視覚に障碍をお持ちの方からメールを戴いたことがある。その方は、日常生活のさまざまな場で、話しかけることを避けられる、とのことだった。病院ではお医者さんが、美容院では美容師さんが、その人の体調や、髪型に対する希望なのに、代わりに付き添いの人に聞くのだそうだ。盲導犬をつれていれば、つれている人を避けて、犬に話しかけるのだとか。

わたしはそのメールを拝見したとき、てっきり多くの人は失礼に当たることをしてしまうことを恐れて、そんな態度を取るのだとばかり思っていた。

だが、高齢者に対する話し方を見ているうちに、そうではないのかもしれない、という気がしてきた。

大きな声で、ゆっくりとしゃべるあの話し方は、言葉の世界の新参者である小さな子供にに話しかけるときのそれだ。

そういえば外国人に対しても、そんなしゃべり方をしている人もよく見かける。わたしは外国へ行ったとき、一度もそんな話し方をされたことがないのだが、もしかしたら、小さな子供、外国人、高齢者、障碍者、そうした人をひとくくりにして、同じような相対し方をしているのかもしれない。

高齢であったり、目が不自由だったり、外国人であったりすることが、その人に理解力がないことを意味するわけではない。けれどもわたしたちはその人があたかも小さな子供であるかのように、つまり「不完全な人間」と見なしているのかもしれない。

視覚障碍をお持ちの方に話しかけるのを避けようとしてしまうのも、「理解力がない人」に話をする労を厭おうとしているのかも。

自分はそういうことをやっていはしないか。

小柄なおばあさんに向かって、のしかかるように話したりしてはいないか。聞き返されもしないのに、大きな声で話してはいないか。

「失礼のないよう」というのは、意識したふるまいではないのだ。無意識のうちに人を無能扱いすることほど、失礼なことがあるだろうか。

あらためて、自分のふるまいを考えてしまう正月だった。