陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー「ニューヨーク発五時四十八分」その3.

2009-06-18 22:41:35 | 翻訳
その3.

向こうにマディソン・アヴェニューの交差点が見える。街の灯は、こちらよりさらに明るい。マディソン・アヴェニューにまでたどりつけたら、もう大丈夫のような気がした。角に入り口が二箇所あるパン屋がある。市内を横断する広い通りに面したドアから入り、ほかの通勤客がするようにコーヒーリングをひとつ買って、マディソン・アヴェニュー側のドアから外に出た。マディソン・アヴェニューを歩きだしてから、彼女が新聞を売るスタンドの横で待っているのに気がついた。

 彼女は頭が良い方ではなかった。まくのはさほどむずかしくはあるまい。タクシーをつかまえて一方のドアから乗り込み、反対側から出ることだってできる。警官に話しかけたっていい。走ることも可能だった――とはいえ、実際に走ったら、彼女の目論む暴力沙汰の引き金になるかもしれない。彼はいま、知り尽くした一画に近づきつつあった。地上の通りと地下通路が迷路のように絡み合い、エレベーターはいくつも並んでいるし、ロビーも混雑していて、尾行をまくのも簡単だ。

そんなことを考えながら、コーヒーリングの甘く温かい匂いを嗅いでいると、元気がでてきた。人でにぎわう通りの真ん中で、危害を加えられるかもしれないと思うこと自体、ばかげたことだった。確かにあの女はばかで、しかも誤解していて、おそらくは孤独だ――だが、それだけのことではないか。

自分は、とりたててどうということもない男ではあるし、職場から駅まで尾行されなければならないようないわれなどない。だいそれた秘密を握っているわけでもない。ブリーフケースに入っている報告書も、戦争とも平和とも、麻薬密売とも、水爆だのなんだの、考える限り、いかなる国際的陰謀とも無縁だ。あとをつけてくる女やトレンチコートの男たち、濡れた歩道から連想は広がった。行く手に男性専用のバーのドアが見える。そうだ、簡単な手があったぞ!

 彼はギブソンを一杯注文し、バーにいる男ふたりのあいだに肩を入れるようにして割りこみ、たとえ彼女が窓からのぞいても、見つからないようにした。店は電車やバスに乗る前に、一杯やって帰ろうという通勤客で混み合っている。誰もが服だけでなく、靴や傘にまで、雨の夕暮れ時のすえた臭いを染みつかせたまま店に持ち込んでいた。だが、ギブソンを味わううちに、ブレイクの緊張もほぐれていく。周りにはありふれた、多くはさほど若くない顔ばかりで、悩みといえばせいぜいが税率や、だれが販売促進部長になるだろう、程度のことなのではあるまいか。彼は女の名前を思い出そうとした――ミス・デントだったか、ミス・ベントか、それともミス・レント――自分が思い出せないのに気がついて驚いた。記憶力が良いだけでなく、記憶している範囲も広いのを、常々自慢に思っていたし、たかだか半年前のことだったのである。




(この項つづく)


ジョン・チーヴァー「ニューヨーク発五時四十八分」その2.

2009-06-16 22:37:37 | 翻訳
その2.

 ふつうは街なかを歩きながら後ろを振り返ったりはしないものだ。ブレイクが振り返らなかったのも、ひとえにその習慣のせいだった。しばらくのあいだ――まったく愚かなことではあるが――歩きながら、耳を澄ますことまでした。雨の暮れ方の雑踏のざわめきのなかから、女の足音が聞き分けられるとでもいうように。

やがて彼は通りの反対側の先に、立ち並ぶビルの壁面が、一箇所でとぎれているのに気づいた。取り壊されたあとに、何かが新しく建設中らしい。鋼鉄の骨組みが歩道沿いの柵の上に少しだけ突き出して、その隙間から日の光が差しこんでいた。ブレイクは通りをはさんだちょうど向かいまで来ると足を止め、ショーウィンドウをのぞき込んだ。

室内装飾か競売業者の店らしい。窓の向こうは、そこに暮らす誰かが友人をもてなしているかのようにしつらえてあった。コーヒー・テーブルにはカップが載って、雑誌が用意され、花瓶に花が活けてある。だが花は枯れ、カップは空で、そこにいるはずの客の姿もない。

ブレイクはウィンドウのガラスに映るくっきりとした自分の姿と、背後をよぎる影のような人びとの姿を見た。そこにあの女の姿が映った。あまりの近さに衝撃を受けた。真後ろ、ほんの三十センチかそこらのところに立っている。振り向いて、何か用かと尋ねてもよかった。だが話しかける代わりに、そこに映る彼女のゆがんだ顔から急いで身を引き剥がし、通りを歩いた。あの女はおれに危害を加えようとしているのかもしれない――殺そうとしているのかも。

 ガラスに映った顔を見て急に動き出したので、帽子のつばにたまっていた雨が首筋を伝って落ちた。まるで冷や汗のようで、ひどく気持ちが悪い。冷たい雨が顔と剥きだしの手に降りかかった。濡れた排水口と舗道から不快な臭いが立ち上り、次第に足も濡れてきて、風邪をひくかもしれないと思った。どれも、雨の日の外出につきものの不快感にはちがいない。だがその不快感のせいで、あとをつけてくる彼女への恐怖感が増大するだけでなく、自分の身体感覚が病的なまでに過敏になり、同時にこの身体が容易に傷つけられうるのだという意識もまた、病的なまでに高まってくるのだった。



(この項つづく)


ジョン・チーヴァー「ニューヨーク発五時四十八分」

2009-06-15 22:44:29 | 翻訳
今日からちょっとずつジョン・チーヴァーの "The Five-Forty-Eight" を訳していきます。
原文は http://members.lycos.co.uk/shortstories/cheeverfivefortyeight.htmlで読むことができます。

もうちょっとで忙しいのが終わると思うんですが、しばらくはすごくちょっぴりです(笑)。

* * *
ニューヨーク発五時四十八分(The Five-Forty-Eight)
by John Cheever



(その1)

 エレベーターから出たところで、ブレイクは彼女がいることに気がついた。ロビーでは数人、大半はガールフレンドを待っている男たちだったが、立ったままエレベーターの扉にじっと目を注いでいる。そのなかに彼女はいた。敵意のこもった、思い詰めた表情を見れば、待っている相手が自分なのは一目瞭然だ。そちらには近づかないことにした。向こうには何の法的権利もありはしない。そもそも、話すことすらないのだから。彼はきびすを返し、ロビーのはずれのガラスドアに向かいながら、かすかな罪悪感と居心地の悪さを感じていた。昔の友だちや同級生が、粗末ななりをしていたり、病気だったり、あるいは何かしら悲惨な状況にあるのを見て、顔を会わさないですむよう回り道したときの気持ちに近かった。

ウェスタン・ユニオンビルの大時計が五時十八分を指している。急行に間に合いそうだ。回転ドアの順番を待っているときに、まだ雨が降っているのを知った。雨は一日中続いていたが、いま初めて、街中の騒音が雨のせいでどれだけ増幅されているか気がついた。通りへ出ると、マディソン街目指して東の方角へきびきびとした足取りで歩きだした。車が渋滞し、遠くの交差点からせきたてるように鳴らすクラクションの音が聞こえてくる。歩道は人であふれていた。彼女は何を望んでいたのだろう、と考えた。一日が終わってオフィスから出てくる自分の姿をひと目見たところで、いったいどうなるというのだろう。やがて、あとをつけてきているのかもしれない、という気がした。


(この項つづく)

犬とみそ汁

2009-06-14 21:58:23 | weblog
最近の犬は、家の中で飼われていることが多いが、わたしが子供の頃は、犬というのは玄関先の犬小屋に繋がれているものだった。郵便屋さんや新聞配達のおじさんが来たら、自分の出番だ! とばかりに、わんわんわんわんとやかましく吠えるのだが、それ以外のときはつまらなそうな顔をして犬小屋に寝そべって、前を通るわたしをちらりと見上げてもすぐに目をそらし、何かいいことないかな~という顔をしていたものだ。

種類もたいていしっぽのくるんと巻いている柴犬で、たいして大きいわけでもないし、さほど見栄えもよくない。いまはコマーシャルでそんなかつてはありふれていた犬が「お父さん」になっているが、昔は動物図鑑でしか見たことのなかったような犬が当たり前に飼われるようになって、逆に柴犬の方が新鮮に見えるのかもしれない。

ただ、当時はあの「お父さん」と同じ白い犬でも、あんなに真っ白ではなかった。愛玩犬としては比較的早くからメジャーだったスピッツが真っ白かったのに対して、庭先の「シロ」たちは、黄ばんだと言ったらよいのか、薄汚れたと言ったらよいのか、決して「白」ではなかったのである。

そんな犬の犬小屋の奥には、たいてい古びて薄汚れた毛布が丸まっていて、犬小屋の前にはいびつにひしゃげたアルマイトの鍋があった。それが犬の餌入れなのだ。

のちにチャールズ・M・シュルツのマンガ『ピーナツ』を見て、スヌーピーが白い横板の張られた赤い屋根の家のてっぺんに寝そべっているのに驚いたのを覚えている。アメリカでは犬もおしゃれな家に住んでいるのか、と。スヌーピーのエサ入れは、青いプラスティックのこれまたおしゃれなボウルだった。

スヌーピーが食べていたのはまちがいなくドックフードだったのだろうが、わが町内に買われていた犬たちが食べているのは、ドッグフードなどではなく、たいていみそ汁をかけたご飯だった。犬を飼っている近所のおじさんが「新米を食べる犬なんか、世界中探しても日本ぐらいしかおらん」と苦々しげに話していたのをいやによく覚えているのだが、どうも自分の家の犬が好きではなかったからそんなことを言っていたのかもしれない。だがわたしの目には、スヌーピーたちの方がよほど恵まれているように思えた。

ともかく人間が食べているみそ汁とご飯を混ぜ合わせた食事を与えられると、大慌てでハクハクと音を立ててむさぼり食い、あっというまに平らげてしまうのだった。食べ終わるとぺろぺろと鍋をなめまわし、アルマイトの鍋は磨いたようになる。だが、なめるだけで飽き足らないのか、ときどき噛みつくので、アルマイトの鍋はあちこちがへこんでしまうのだった。

そんなふうに当時の犬は「みそ汁ご飯」が大好物(?)だったのだが、犬もみそ汁が好きだったのだろうか。猫を飼っている当時、猫に同じ猫缶ばかり食べさせていると、じきに飽きて食べなくなってしまっていたが、当時の犬は来る日も来る日も「みそ汁ご飯」で飽きるということはなかったのだろうか。

以前「○○君ってご飯みたい。毎日食べても食べ飽きないみたいに、毎日会っても飽きないの」と言っている人に、「あのね、ご飯が食べ飽きないのは、おかずが毎日ちがうからでしょ」と言っている人がいた。

だが、毎日パンが続くと、わたしたちの多くは、「ご飯」、つまり、炊いた米が食べたくなる。米と明太子だけでも(栄養価はともかく)わたしは一週間食べ続けられる自信はある(意味のない自信だなあ……)。おそらく食べ飽きないのはおかずが代わるからではなく、米だから食べ飽きないのだ。

大学に入るまでは、調理実習以外では米をといだこともなかったわたしが、結局自炊をするようになったのは、もちろん外食するお金がなかったということもあるのだが、外食の味に飽きてしまったこともその理由のひとつだった。ご飯にみそ汁、煮魚や焼き魚、かぼちゃや里芋の煮付け、きゅうりやなすのぬか漬け、そういうものが無性に食べたくなったのである。もちろん、その全部が並ぶこともなく、1/4個でもかぼちゃを買ってしまえば、三~四日はかぼちゃの煮付けばかりを食べなくてはならない。それでも、だしと醤油で味付けしたものなら、毎日でも食べることができた。

毎日でも食べることができるものは、人によって多少ちがうことはあっても、日本人の多くはやはりご飯にみそ汁、あとは明太子だったり卵焼きだったり、大きなちがいはないのではないか。

以前、アメリカ人の知り合いに聞いたら、日本のパン屋に売っているような、白くて甘くてふわふわしたパンではなく、塩の味しかしない、ずっしり重いパンなら毎日食べられる、と言っていた。彼の求めるパンは、ふつうのパン屋には売っていなくて、わざわざそのパンを遠くまで買いに行き、たくさん買ってきて、冷凍庫に保存していると言っていた。

以前、読んだことがあるのは、モロヘイヤ。古くからモロヘイヤを食べていた原産国のエジプトでは、スープにして食べる以外の食べ方はないのだという。日本人は入ってきてからすぐに、パンに練り込むとか和え物にするとか、さまざまな食べ方を工夫した。これは、日本人が新しい食べ方の探求に熱心という以上に、いまひとつ口に合わないモロヘイヤの、なんとか食べやすい食べ方を求めて四苦八苦した、と考えた方がいいように思う

思うのだが、結局、毎日食べて飽きることのない料理というのは、生まれてこの方、繰りかえし繰りかえし食べ続けた味なのではあるまいか。飽きるほど繰りかえし、そこからさらに繰りかえすことによって、それが「食べ飽きない味」になっていくのではないのだろうか。

そうして、そんなふうに食べ続けて飽きない味というのは、ごく狭い、特定の味なのだろう。日本の犬も、みそ汁ごはんをそんなふうに「食べ飽きない味」と感じていたとしたら、なんとなく楽しくなってくる。

まあ嫉妬ぐらい…

2009-06-12 22:44:38 | weblog
昨日の話のつづき。

昨日のログを読み返してみて、何というか、微妙に距離のある書き方になっているのが気になった。たまたま頭にあることを書いたのだが、自分の来し方をつらつら考えてみるに、嫉妬に苦しんだという経験がわたしにはあまりないため、もうひとつ実感が伴っていないのだ。

自慢するつもりは毛頭ない。嫉妬しなかったのは、単にわたしがずっとあまりに自分にかまけていて、自分のことしか頭になかったからに過ぎない(もしかしたら未だにそうなのかもしれない)。人なんてどうでも良かった。どうでもいいのだから、自分と人を比べることすらしなかった。それだけの話だ。自分のことしか考えないのと嫉妬するのでは、どっちがいいか、なかなか判断に迷うところではないか。

嫉妬というと、ネガティヴな感情の代表選手みたいなところがあって、たいていの人は「嫉妬をする自分」に苦しんでいる。そこまでわかっているのだから、ほかのネガティヴな感情に比べれば、よほどましであるようにも思う。

たとえば自分は正しいことをしているつもりで、まわりを苦しめているようなとき。こういうときは、本人は「正しいこと」をしているのだから、始末に負えない。まさに「地獄への道は善意で敷きつめられている」というやつだ。

困った感情ならほかにもいくらでもある。たとえば「弱い者を見ると腹が立ってきていじめたくなる」とか「落ち着いた人間関係を前にするとかきまわしてもめごとを起こしたくなる」とか、そんな傾向が自分にあったとしたら、ほんとうにえらいことではあるまいか(もしあったらどうしよう……)。

ほんとうに、「嫉妬」よりどうしようもない感情はいくらでもあるのだ。なにより、嫉妬は「自分に自信がなくなっているときに、自分のほしいもの(人)を手に入れた人が憎らしくてたまらない」という、ある種、単純でわかりやすい感情だから、どんなに「これは嫉妬ではない」と自分に言いきかせようとしたところで、ごまかしようがない。多くのこじれた感情というのは、本当の原因というのが慎重に隠されている(隠しているのはほかならぬ自分なのだが)から、探り当てるまでが大変だ。逆に言えば、探り当てたところで、半分以上問題は解決しているともいえる。嫉妬が厄介なのは、「わかっちゃいるけどやめられない」というところにあるのだろう。

昨日あれこれ書いたのは、いかにも十代二十代を自分にかまけ続けたわたしらしい対策のような気がしている。
むしろ嫉妬したっていいじゃないか、ぐらいに、気持ちを楽に持った方がいいのかもしれない。

自分はいま、あの人に対して腹を立てている。いなくなればいいと思っている。
だが、彼、もしくは彼女がいなければ、いまのままの自分で思い通りになるのだろうか。
葵の上がいなくても、自分から離れた源氏の心がもはや戻ってくるわけではない。相手がいなくても、いまの自分の実力では大学に受かるわけではない。
自分は自分、この弱くて、愚かで、美しくもなく、もはや若くもない自分を抱えて生きていかなくてはならないのだ。

もう「自分は自分」と腹をくくるしかないではないか。

嫉妬をしてしまうとき

2009-06-11 23:10:28 | weblog
以前、十代の女の子からこんな話を聞いたことがある。
その子は高校時代に大親友がいたのだそうだ。交換日記で励まし合いながら受験勉強をし、辛いときも支え合いながらやってきた。ところが受験では、親友だけが第一次志望に合格し、その子は失敗、結局志望校ではない私学に不本意入学することになった。

望まなかった大学は、やはり通い出してもおもしろくなく、充実した生活を送っているであろう親友のことを思うと、身を焦がすほどの嫉妬の念にかられてしまう。親友に対してこんな思いを抱いている自分が腹立たしくてならない、ということだった。

その話を聞いてまず思ったのは、ふたつのことがごっちゃになってるなあ、ということだった。

大学受験に失敗したのだから、落ち込むのは当たり前。これまで自分が自分に抱いていたセルフイメージも崩れてしまったのだから、自信もなくして当然。落ち込んだり、自信をなくしたり、という時期は、誰にだってあるはずだし、自分がこれまで積み上げてきたものを、いったんすべて砂漠化して、あらたに一から始めなければならない時期というのは、遅かれ早かれ必ず来るものだ。それをしようと思ったら、まず敗北をかみしめて、そこから“何か”が自分の内側から起こってくるのを待たなければならないように思う。そのプロセスは省略するわけにはいかない。いつか夜が明けると信じて耐えるしかない。

それと、嫉妬というのはちょっとちがうと思うのだ。
自信を失っているところへ、誰かと自分を比べて、自分はその人より劣っている、価値がない、負けている……そういう気持ちだ。
嫉妬しているときは、相手が憎いという気持ちでいっぱいになっているからなかなか見えなくなってしまっているのだが、(自分より優れた)相手が嫉妬の念の原因ではない。原因は、自分が自分のことをダメだ、劣った存在だと思っているから起こってくるのだ。

思うに、嫉妬に一番効くのは、“自分をどう作っていくか”ということを、真剣に考えるということではあるまいか。
××大学に合格する、○○ができるようになる……という目標なら、簡単に立てることができる。だが、自分をどういう人間に作っていくか、これはなかなか難しい問題だろう。手近なところにロールモデルがいればよいのだが、そんな人もいなければ、本のなかの登場人物でも、作者でも、あるいは著名人でもいい。自分が「なりたい人」を見つける。そうして、そうなれるようにできるだけ具体的に、そのための方法を考える。そうしてひとつずつ実行していく。
それを続けていけば、嫉妬の対象など、どうでもよくなってしまうのではあるまいか。

結局は、自分を苦しめるのは、自分だということなのだ。嫉妬にかられているときは、相手が自分の道を塞ぐ障害に思えて、たとえ相手を取り除いたところで、いくらでもその相手は出てくるだろう。

嫉妬で有名なのは『源氏物語』に出てくる六条御息所だが、六条御息所がほんとうに苦しんだのは、自分が呪い殺した葵の上の存在ではなく、年齢を重ねた自分であり、源氏に対する自分の引け目だった。

自分を作る。なりたい自分になっていけるよう、ひとつひとつ積み重ねていく。自信がなくなってきたら、自分のやったこと、なしたことをもう一度握りしめてみる。
そんなふうに考えることができたら、嫉妬する自分に苦しむこともなくなるのではないかと思うのだが、どうだろう。

失敗しても

2009-06-10 23:10:17 | weblog
さて、高校時代の校内誌の話の続き。

先生紹介やクラス、部活紹介に、自由投稿と、苦労して原稿を集め終わると、今度はレイアウトを決めて一ページ一ページ作っていく。パソコンもワープロも、まだ普及していなかった時代だから、全部手書きでそれをやるのだ。「ここに写真」「ここを大きく」「見出しは白抜きで」などと指定もして、とりあえず全体が完成したところで印刷屋さんに送る。印刷屋さんから「見本」が戻ってきて、校正作業という大仕事が始まっていくのだ。

校正は見落としがあってはいけないから、ということで、三人から四人の目にふれるように担当表を作った。ところがおそらく安い料金でやってもらっていたせいなのだろう、一ページにつき五つから七つくらいは誤植があるのだった。ひどいページだと、十三ほどもあった。ページはすぐに真っ赤になった。

さらに見本を元に、ページレイアウトを見直し、祈るような気持ちで最終稿を印刷屋さんに送り出す。ところがそれだけ何人もが目を皿のように探しても、完成版にはやはり誤植が三つほど出てきた。しかもひとつは投稿してくれた先生の名前であることを、全校生徒に配布する前に先に渡した顧問の先生から指摘されたのである。

編集委員一同、頭を抱えた。わたしがいけなかったの、こんなことになってもうおしまい、と泣き出す子もいた。わたしもいま考えればなぜあれほど落ち込んだのだろうと思うほど、気持ちが塞いだ。自分が数ヶ月に渡って、心血を注いだことが、全部ダメになったような気がして、なんともいえない敗北感を感じたのである。

どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう、なぜ気がつかなかったのだろう、どうして顧問もいまになってそんなことを言うのだろう。見本を渡したときは気が付かなかったのだろうか……。

とりあえず、できることがないか、印刷屋さんに聞いてみよう、いまさら刷り直すことはできないが、正誤表を入れるとか、そんなことならできるはず、と考えて、わたしは印刷屋さんに電話をかけた。

「やはり先生の名前の誤植はまずいでしょう、訂正用のシールを貼るという方法もありますよ、一冊ずつ貼るのは大変ですが」

そう言われて、わたしは覚悟を決めた。やりましょう。それで取り返しがつくのなら、全校生徒プラス先生分、編集委員全員でやります。

訂正シールが刷り上がり、送られて来た日、わたしたちは全員、ピンセットを手に集まった。何人か、助っ人も来てくれた。そうやってみんなで手分けして、うずたかく積まれた校内誌一冊ずつにピンセットでシールを貼っていったのだった。

事前に考えていたときは、気の遠くなるような作業だったのだが、実際始めてみると、二時間あまりで終わったのではなかったか。確かにシールが貼られたページは、何らかの誤植があったことは一目瞭然だった。確かに過ちは、なかったことにはできない。だが、どんな失敗も、校内誌のすべてにかかわるものではなかった。あくまでもそれは一ページのなかの、人の名前の一文字に過ぎないのだ。わたしたちが実際にやりとげたことは、それ以上のことなのだ。わたしたちは、一冊の雑誌にシールを一枚貼るごとに、それを確信していったように思う。

すべてを訂正し終えて、わたしは何ともいえない解放感を感じていた。自分を解放したのは、校内誌が無事完成したからではない。そうではなくて、例年のものよりもっとすばらしいものを作ってやろう、とか、今年の編集委員はすごいね、と言ってもらいたい、などという気持ちが、無意識のうちにわたしをがんじがらめにしていたのである。それが失敗したことで、いったんすべてチャラになったのだった。わたしを解放したのは、その失敗だったのだ。


アンケートで知った『クオ・ヴァディス』

2009-06-08 22:53:48 | weblog
引っ越し作業で本を梱包しているとき、本棚の奥からグラシン紙が茶色く変色してしまった三冊の岩波文庫が出てきた。シェンキヴィチの『クオ・ヴァディス ――ネロの時代の物語』の上・中・下だった。

高校生のとき、学校誌の委員になった。一年に一度発行するだけなのだが、100ページ近い小冊子を発行するのだから、なかなか大変な仕事だった。確か、三ヶ月ほど、ほぼ毎日のように放課後委員が集まっては、構成を決めたり、原稿を集めたり、取材に行ったり、はたまた印刷屋に出して、戻ってきたものを校正したり、という作業をやっていたような気がする。クラス紹介あり、クラブ紹介ありで、毎年人気の高いものだったために、自分たちの年だけ、つまらないものになっては大変だ、というプレッシャーは、かなりあったような気がする。

わたしが責任編集したのは、先生紹介のページだった。
あらかじめ先生にアンケート用紙を渡して、記入してくれるようにお願いしておく。期日が来ると、それを回収し、先生の写真の横に、そのアンケートを載せるのだ。

名前や教科担任の他に、三項目か四項目ほどの質問があった。何を聞いたのかひとつの質問を除いてまったく覚えていない。唯一覚えているのは「中学・高校時代に夢中になった本/中学生・高校生にお薦めの本」という質問項目である。きっとわたしがほかの何よりも聞きたかったことであり、一番興味を持って読んだ項目だったからなのだろう。

アンケートを先生にお願いし、回収するだけのことなのだが、実際これは大変な仕事だった。まず、期日までに回収できたのが半分以下。残りは、「すいません、お願いしたアンケートはどうなりましたか」と催促に行かなくてはならない。一度や二度ではなかった先生もいたし、「勘弁してよ」などと言われることもあった。ひとりの先生からは、「こんな箇条書きの質問で、先生を理解したような気になっては困る。これだから○×式問題の世代は……」と説教をくらいもした。

ところが、その「箇条書きの質問」であるにも関わらず、不思議なほどその先生が「どんな先生か」ということが伝わってきた。文字の向こうから、その先生の「手ざわり」のようなものが伝わってくるのだ。

ひとつひとつの項目に丁寧に書いてくれている先生もいれば、どの項目にも「特になし」としか書いてくれない先生もいた。「本を紹介してほしい人は個人的に聞きに来るように」と書いていた先生は、いったい何を思ってこんなことを書くのだろう、と思ったものだ。
「活字が苦手な生徒にはこの本を、本好きな生徒にはこの本を」「中学生の必読書、高校生の必読書、高校生でもむずかしいかもしれないが、一度は読んでおいた方がいい本」とそれぞれにあげてくれた先生、こんな先生のアンケートは、回収する苦労も吹き飛ぶほど楽しかった。
「忙しくて本を読む暇もない」と書いていた先生、「マンガばっかり読んでいた」と書いていた先生、「教科書」と書いていた先生も、それぞれの先生の人となりが手に取るようにわかるように思えた。

そのアンケートのなかで世界史の先生があげていたのが『クオ・ヴァディス』だった。最高におもしろい、とあったので、そのアンケートを読むやいなや、本屋に直行したのである。ローマ時代という作品の舞台に慣れるまでいささか時間がかかったが、上巻を半分過ぎたぐらいから一気におもしろくなり、中・下はほとんど一息に読んでしまったような気がする。

その世界史の授業は、先生が作ってくれるプリントがものすごく多くて、いっしょうけんめい勉強したら、きっと豊かな歴史を自分のものにすることができたのだろうと思う。ところがわたしときたら、覚えなければならないことの多さにうんざりしてしまって、世界史などまともに勉強することもなかった。いま思えばもったいないことをしたものだ。
ただ、『クオ・ヴァディス』を入り口に、シュテファン・ツヴァイクや評伝のおもしろさに夢中になっていったのだ。世界史ではろくな点数を取らなかったが、その先生からは、たった一行のアンケートの回答から、新しい世界を広げてもらったのだった。

愚かしさとかわいらしさと

2009-06-07 22:38:45 | weblog
チェホフを初めて読んだのは中学生だったか、高校生だったか。
そのころは戯曲の方がずっと好きで、短篇はどれもぴんと来なかった。なかでも『かわいい女』は読んでいて、いらいらした。

主人公はオリガ・セミョーノヴナ、作品中では愛称のオーレンカと呼ばれる。オーレンカは優しく気だてのよい、健康でバラ色の頬をした、働き者の女性。劇場経営者と結婚し、切符売り場の仕事をして夫をせっせと助ける。演劇に夢中になって、口を開けば劇場の話ばかり。ところがその夫は亡くなってしまい、オーレンカは未亡人になる。悲嘆に暮れるオーレンカだったが、材木商と知り合い再婚する。ふたたび彼女は生き生きとし始め、今度は頭のなかを占めるのは材木のことばかり、材木が世界で一番大切なことになる。だが、どういう巡り合わせか、今度はその材木商も死んで、またしてもオーレンカは後家さんになってしまう。そこに登場したのが獣医。彼には妻子がいたのだが、妻の不行跡のおかげでうまくいっていない。その彼と恋仲になったオーレンカが夢中になったのは動物の病気のこと……。

わたしの周囲にもこんな女の子ならいくらでもいた。朝から晩まで、好きな男の子の話ばかりしている女の子たち。自分の世界のすべてを彼氏が占めてしまう。自分の趣味は、彼氏の趣味。相手がアウトドアタイプの男の子なら、にわかに釣り雑誌を読むようになり、プログレ好きなら、室町幕府歴代将軍を暗記するがごとく、イエスのメンバーの変遷を暗記する。つきあう相手の言葉遣いとそっくりになり、同じ持ち物を持って得意になっているような女の子たち。

『かわいい女』では、オーレンカの住む町に駐留していた連隊が去るとともに、獣医も一緒に去ってしまう。愛する者のいなくなったオーレンカは、みるみるうちに老いていき、淀んだ目の無気力な女になってしまう。あれほど働き者だったオーレンカが、無気力になり、ぼんやりと椅子にすわりこんだまま、うつらうつらするだけ。
が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば壜の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓なりが何のためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブルやると言われたって何の返事もできないに違いない。

当時、わたしたちのクラスにも、「公認」のカップルがいた。ほかの子たちが「つきあっている」といっても、一学期間持てばいい方だったのに、中学から高校とふたりの仲は、周囲と比べると不思議なほど(といっても二年余りぐらいのものだったのだが)長く続いていた。本田君(仮名)といえば佐々木さん(同じく仮名)、佐々木さんといえば本田君、ハートが半分になったペンダントをそれぞれに首から下げているという噂で、おそろいのバインダーを持ち、交換日記をしていた。校外学習でも遠足のときも、バスに乗るときにはみんなが譲り合って、ふたりが隣同士になるようにし、フォークダンスでたまたま本田君とパートナーになった女の子は、わざわざ佐々木さんに「ごめんね」と謝って見せた。そんなときは佐々木さんの方も「気にしないで」と鷹揚なところを見せていて、なんだかわたしたちよりずっと大人に見えたものだった。

ところがその原因が何だったか記憶にはないのだが、将来結婚の約束までしていたというふたりが別れてしまったのである。教室の後ろで佐々木さんを取り囲んでなぐさめている女の子たちの姿を何度も見たし、うつむいてひとりで廊下を歩いている佐々木さんの姿は、何か一気に老けて見えたものだった。一方本田君はどうかといえば、何だかえらく晴れ晴れとして見え、やがてほかの男の子とまったく見分けがつかなくなってしまった。

自分の意見もないような女なんて最低だ、自分というものがないから、そんなことになってしまうんだ……。『かわいい女』を読んだのは、その経験があったか、それともまだだったか。ともかくオーレンカへの反感が先に立ち、それ以外のことなど考えられなかった。何とか「自分」というものを作りあげようと必死だった十代のわたしは「意見というものが一つもない」空っぽの女、外の世界が、どれほど自分に働きかけても、何も感じることのできない女というのが、ほとんどがまんならなかったのだ。

戯曲『かもめ』のなかで登場人物のひとりに「あたしたちの仕事は、舞台で演じていようと、ものを書いていようと同じこと、この仕事の肝腎かなめは名声ではなく、輝きではなく、あたしが空想していたようなことではなく、堪え忍ぶ能力なのよ。おのれの十字架を運べるようになれ、そして信ぜよ。あたしは信じていますからそれほど苦痛ではありません。そして、自分の使命について考えるとき、わたしは生活を恐れません。」と言わせたチェホフは、まったくの皮肉の意味で「かわいい女」という呼称をオーレンカに与えたにちがいない、と当時のわたしは考えていた。

だが、一方で、自分自身がある局面では、まさにオーレンカとなっていることに、当時はまったく気がついていなかったのだ。

わたしたちは誰かと一緒にいるだけで、否応なく相手の影響を受けてしまう。意識することなく、口調が似てきたり、使う言葉が似てきたり。相手とよく似たものの考え方をしていることにハッと気がついて、苦笑したり。

それが誰かとともに過ごすということなのだとすれば、オーレンカは多少極端なところがあるとはいえ、そんなに愚かしい人物なのだろうか。

そこからさらに、誰かにあこがれ、その人のようになりたいと思うとき。
本を読んで、目の覚めるような経験をし、もっと作者について知りたいと思うとき。
何かに興味を持って自分のものにしようとするとき。

習おう、学ぼう、何かを身につけようと思うなら、それまでの自己流をすべて捨て、いったんリセットしたのちに、できるだけ手本通りにできるよう、自分自身を作りかえなければならない。自分のやり方を押し通そうとしたり、自己流に解釈したりしていると、結局は何も自分のものになってはくれない。

そんなときのわたしは、オーレンカになる。自分が習おうとしている人やものごとが世界の中心となってしまい、そのこと以上に大切なことはなくなってしまう。

「自分」というものはそんなに確固としたものではない。確固としたものでないからこそ、さまざまな新しいことを知ることができ、さまざまなことができるようになり、いろんな人とつきあっていけるのだろう。いったん自分をリセットし、そこからもう一度自分を組み換えていけるからこそ、飛躍もあるのだろう。わたしたちのなかに、自分のこれまでのやり方をさっぱりと捨て、人の言うことをそっくりそのまま受け入れる「かわいい」性質があるからこそ、わたしたちは生まれたときのままではないのだろう。

チェホフは誰のなかにもあるそんな性質を、一種のカリカチュアとして描いて見せた。確かに揶揄するところもなくはなかったかもしれない。けれども、それは愚かさをあげつらうものではなかった。その証拠に、チェホフは年取ったオーレンカに、もう一度、愛の対象を与えてやる。かつての愛人だった獣医の息子を、邪険にされながらもそっと愛していくオーレンカの姿は、わたしたちの胸を暖めてくれる。
彼女にしてみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にある靨(えくぼ)、そのぶかぶかの制帽――そのためになら、彼女は自分の命を投げだしても惜しくはなかったろう。それどころか、喜び勇んで、感動の涙をながしながら、命を投げだしたに違いない。どういうわけで? だがそのわけを、一体だれが知り得よう?
こんなふうに誰かを愛することが、愚かしいことであるのなら、愚かしさ以上の美しい質はあるのだろうか。こんな箇所に気づくことができたのも、わたしが愚かだったからこそなのだ。

粗品ならいらんっ!

2009-06-05 23:15:48 | weblog
以前の部屋にいたころ、真下の部屋で内装工事が始まるというので、「粗品」と印刷してある紙が巻いてある台所用洗剤をもらった。内装工事と洗剤のあいだにどのような因果関係があるのか判然としなかったが、やかましくするのでお詫びをかねて、ということだったのだろう。

予想にたがわず壁にネジを差しこんでいるらしい電動ドリルの音や、どこかを削っているらしい音など、足の下から響く音はかなりやかましかったのだが、わたしは台所用洗剤は手がかぶれるので使わないのである。使わないまま棚の上に置いておいたのだが、引っ越しのときに処分してしまった。

新聞の契約を切るときにも、最後の新聞代を払ったのちに「粗品」をもらった。新聞を入れるゴミ袋? と、販売店の名の入ったプラスティックのコップである。ゴミ袋は使ったが、コップの方は使うことがないのはわかっているので、そのゴミ袋の内容物となった。

銀行へ行ったら、印鑑ケースをもらった。印鑑ケースなど、ひとつあれば十分ではないのか。必要がないので、捨てた。

仕事場の近くに新しい喫茶店ができたので行ってみたら、不気味な柄の小皿をくれた。色が何とも気持ちが悪いので、これも捨てた。

どれも百均ショップで手に入るようなものばかりだが、手に入れてどうするというのか、というものばかりである。もらったところでゴミにしかならない。せっかくくれたものを、という気持ちがもちろんないわけではない。確かに「もったいない」話なのだが、いらないものはいらないのだ。

いつも、こんなものをもらってしまうとき、わたしの頭のなかに、アニメの「サザエさん」の波平さんが登場して、「粗品ならいらんっ!」とあの声で言ってくれる。だが、わたしはそれを口に出しては言えないので、口のなかで、ありがとうございます、などともごもご言って、受けとるしかなくなるのだ。

一種の「粗品文化」と言ってもいいと思うのだが、どうしてこんなゴミにしかならないものをくれるのだろう。もらってうれしいかどうか、ということを考えることもなく、単に慣習でやりとりしているから、そんなことになるのだろう。

もらったばかりのものを捨てるのは、さすがに胸が痛むので、棚の上などでしばらく「寝かして」、それからおもむろに捨てる。寝かした期間のおかげで使わずに捨てたという罪悪感が薄まるわけではないのだが。