陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

まあ嫉妬ぐらい…

2009-06-12 22:44:38 | weblog
昨日の話のつづき。

昨日のログを読み返してみて、何というか、微妙に距離のある書き方になっているのが気になった。たまたま頭にあることを書いたのだが、自分の来し方をつらつら考えてみるに、嫉妬に苦しんだという経験がわたしにはあまりないため、もうひとつ実感が伴っていないのだ。

自慢するつもりは毛頭ない。嫉妬しなかったのは、単にわたしがずっとあまりに自分にかまけていて、自分のことしか頭になかったからに過ぎない(もしかしたら未だにそうなのかもしれない)。人なんてどうでも良かった。どうでもいいのだから、自分と人を比べることすらしなかった。それだけの話だ。自分のことしか考えないのと嫉妬するのでは、どっちがいいか、なかなか判断に迷うところではないか。

嫉妬というと、ネガティヴな感情の代表選手みたいなところがあって、たいていの人は「嫉妬をする自分」に苦しんでいる。そこまでわかっているのだから、ほかのネガティヴな感情に比べれば、よほどましであるようにも思う。

たとえば自分は正しいことをしているつもりで、まわりを苦しめているようなとき。こういうときは、本人は「正しいこと」をしているのだから、始末に負えない。まさに「地獄への道は善意で敷きつめられている」というやつだ。

困った感情ならほかにもいくらでもある。たとえば「弱い者を見ると腹が立ってきていじめたくなる」とか「落ち着いた人間関係を前にするとかきまわしてもめごとを起こしたくなる」とか、そんな傾向が自分にあったとしたら、ほんとうにえらいことではあるまいか(もしあったらどうしよう……)。

ほんとうに、「嫉妬」よりどうしようもない感情はいくらでもあるのだ。なにより、嫉妬は「自分に自信がなくなっているときに、自分のほしいもの(人)を手に入れた人が憎らしくてたまらない」という、ある種、単純でわかりやすい感情だから、どんなに「これは嫉妬ではない」と自分に言いきかせようとしたところで、ごまかしようがない。多くのこじれた感情というのは、本当の原因というのが慎重に隠されている(隠しているのはほかならぬ自分なのだが)から、探り当てるまでが大変だ。逆に言えば、探り当てたところで、半分以上問題は解決しているともいえる。嫉妬が厄介なのは、「わかっちゃいるけどやめられない」というところにあるのだろう。

昨日あれこれ書いたのは、いかにも十代二十代を自分にかまけ続けたわたしらしい対策のような気がしている。
むしろ嫉妬したっていいじゃないか、ぐらいに、気持ちを楽に持った方がいいのかもしれない。

自分はいま、あの人に対して腹を立てている。いなくなればいいと思っている。
だが、彼、もしくは彼女がいなければ、いまのままの自分で思い通りになるのだろうか。
葵の上がいなくても、自分から離れた源氏の心がもはや戻ってくるわけではない。相手がいなくても、いまの自分の実力では大学に受かるわけではない。
自分は自分、この弱くて、愚かで、美しくもなく、もはや若くもない自分を抱えて生きていかなくてはならないのだ。

もう「自分は自分」と腹をくくるしかないではないか。