その9.
ブレイクは女が座席に置いていた手紙を拾い上げた。安っぽい紙の感触にぞっとし、指が汚れるような気がした。手紙は畳まれた上からさらに折り曲げてある。そこには「愛する夫へ」とあった。あの気ちがいじみた、行き先を見失ったような文字だ。
「人を愛することによって、わたしたちは聖なる愛へと導かれるといわれますが、ほんとうのことなのでしょうか。わたしは夜ごと、あなたを夢に見ます。狂おしいほどの欲望を味わっています。わたしには常日頃から夢を見るという才能がありました。火曜日には血を噴き出している火山の夢を見ました。入院しているとき、お医者さんたちはわたしを治してあげる、と言いましたが、わたしの自尊心を取り上げようとするだけでした。あの人たちは、わたしに縫い物や籠細工の夢ばかり見てほしかったのでしょうけれど、わたしは何とか自分の持って生まれた夢見る力を守ろうとしたんです。わたしには千里眼が備わっています。だから、いつ電話が鳴るかもわかるんです。これまでただの一度も、心からの友人がいたことはなかったのだけれど……」
電車はふたたび停まった。そこにもまたプラットフォームがあり、乾杯しているカップルと、ゴム底と、ハワイアン・ダンサーのポスターがあった。不意に、女がまた耳元に顔をよせてささやく。「何を考えてるか、知ってるわ。顔に書いてあるんですもの。あなた、シェイディ・ヒルに着いたら、わたしから逃げられると思ってるんでしょ? あのね、わたし、もう何週間もこの計画を練っていたのよ。ほかに考えなきゃいけないことなんてなかったから。あなたを傷つけたいわけじゃないんです。もし、わたしに好きなように話をさせてくれるのであればね。わたし、ずっと悪魔のことを考えてたのよ。つまり、もしこの世に悪魔がいるんだったら、それに、もし邪悪さを体現してるような人がいるんだったら、そんなやつらの息の根を、ひとり残らず止めてやることが、わたしたちの義務なんじゃないかしら、って。あなたがいつだって弱い者を餌食にする人だってわたしにはわかる。知ってるのよ。ああ、ときどきわたし、あなたを殺さなきゃって思うの。ときどき、わたしが幸わせになるためのたったひとつの障害が、あなたなんじゃないか、って思うのよ。ときどき……」
女は銃をブレイクに当てた。銃口が下腹部に当たる。この距離なら、銃弾の射入口は小さかろうが、背中の射出口はサッカーボールぐらいの大きさになることだろう。戦争中に見た、埋葬されていない死体のことがよみがえってくる。記憶がどっと押し寄せた――はらわた、目、砕けた骨、排泄物などのさまざまな汚物。
「わたしがこの世で求めていたのは、ほんのささやかな愛」女が言った。銃を押しつける力が弱くなった。ミスター・ワトキンスは居眠りを続けたままだ。ミセス・コンプトンは両手を膝の上で組んで、静かに坐っている。車内はがたごとと揺れていた。それに合わせて両側の窓の間でかすかに揺れているのは、乗客の着ている上着やマッシュルーム色のレインコートだ。ブレイクは肘を窓枠にのせ、左の靴をスチーム・パイプの覆いの上に置いていた。車内は陰気な教室めいた臭いを放っている。乗客たちは、それぞれがばらばらになって、眠っているように見えた。ブレイクは、この熱っぽい臭いや、濡れた服や、ぼんやりした明かりから、もう二度と逃げられないのかもしれない、という気がした。彼は何とかして自分をだまそうとした。これまでにもときどき、自分を元気づけるためにそうしてきたのだ。だが、だまそうにもそんなエネルギーは、どこにも残っていなかった。
車掌がドアから頭をのぞかせて言った。
「シェイディ・ヒル、つぎはシェイディ・ヒル」
「さあ」彼女が言った。「わたしの前を歩いていくのよ」
(明日いよいよ最終回。ブレイクの運命やいかに)
ブレイクは女が座席に置いていた手紙を拾い上げた。安っぽい紙の感触にぞっとし、指が汚れるような気がした。手紙は畳まれた上からさらに折り曲げてある。そこには「愛する夫へ」とあった。あの気ちがいじみた、行き先を見失ったような文字だ。
「人を愛することによって、わたしたちは聖なる愛へと導かれるといわれますが、ほんとうのことなのでしょうか。わたしは夜ごと、あなたを夢に見ます。狂おしいほどの欲望を味わっています。わたしには常日頃から夢を見るという才能がありました。火曜日には血を噴き出している火山の夢を見ました。入院しているとき、お医者さんたちはわたしを治してあげる、と言いましたが、わたしの自尊心を取り上げようとするだけでした。あの人たちは、わたしに縫い物や籠細工の夢ばかり見てほしかったのでしょうけれど、わたしは何とか自分の持って生まれた夢見る力を守ろうとしたんです。わたしには千里眼が備わっています。だから、いつ電話が鳴るかもわかるんです。これまでただの一度も、心からの友人がいたことはなかったのだけれど……」
電車はふたたび停まった。そこにもまたプラットフォームがあり、乾杯しているカップルと、ゴム底と、ハワイアン・ダンサーのポスターがあった。不意に、女がまた耳元に顔をよせてささやく。「何を考えてるか、知ってるわ。顔に書いてあるんですもの。あなた、シェイディ・ヒルに着いたら、わたしから逃げられると思ってるんでしょ? あのね、わたし、もう何週間もこの計画を練っていたのよ。ほかに考えなきゃいけないことなんてなかったから。あなたを傷つけたいわけじゃないんです。もし、わたしに好きなように話をさせてくれるのであればね。わたし、ずっと悪魔のことを考えてたのよ。つまり、もしこの世に悪魔がいるんだったら、それに、もし邪悪さを体現してるような人がいるんだったら、そんなやつらの息の根を、ひとり残らず止めてやることが、わたしたちの義務なんじゃないかしら、って。あなたがいつだって弱い者を餌食にする人だってわたしにはわかる。知ってるのよ。ああ、ときどきわたし、あなたを殺さなきゃって思うの。ときどき、わたしが幸わせになるためのたったひとつの障害が、あなたなんじゃないか、って思うのよ。ときどき……」
女は銃をブレイクに当てた。銃口が下腹部に当たる。この距離なら、銃弾の射入口は小さかろうが、背中の射出口はサッカーボールぐらいの大きさになることだろう。戦争中に見た、埋葬されていない死体のことがよみがえってくる。記憶がどっと押し寄せた――はらわた、目、砕けた骨、排泄物などのさまざまな汚物。
「わたしがこの世で求めていたのは、ほんのささやかな愛」女が言った。銃を押しつける力が弱くなった。ミスター・ワトキンスは居眠りを続けたままだ。ミセス・コンプトンは両手を膝の上で組んで、静かに坐っている。車内はがたごとと揺れていた。それに合わせて両側の窓の間でかすかに揺れているのは、乗客の着ている上着やマッシュルーム色のレインコートだ。ブレイクは肘を窓枠にのせ、左の靴をスチーム・パイプの覆いの上に置いていた。車内は陰気な教室めいた臭いを放っている。乗客たちは、それぞれがばらばらになって、眠っているように見えた。ブレイクは、この熱っぽい臭いや、濡れた服や、ぼんやりした明かりから、もう二度と逃げられないのかもしれない、という気がした。彼は何とかして自分をだまそうとした。これまでにもときどき、自分を元気づけるためにそうしてきたのだ。だが、だまそうにもそんなエネルギーは、どこにも残っていなかった。
車掌がドアから頭をのぞかせて言った。
「シェイディ・ヒル、つぎはシェイディ・ヒル」
「さあ」彼女が言った。「わたしの前を歩いていくのよ」
(明日いよいよ最終回。ブレイクの運命やいかに)