近所のスーパーでは午後七時十分ごろになると、お惣菜コーナーの周囲に徐々に人が集まってくる。そういう人の多くは商品を手に取ったりするわけでもなく、ただぶらぶらしているので、最初は一種異様な光景に思えた。この人たちは一体何をしているのだろう、と思ったのだ。
だが、すぐに疑問も氷解した。七時十五分前後になると同時に、店の人が二割引、三割引、半額と赤い字で書いてあるシールの束を持ってくる。そうして、惣菜が調理された時間や痛みやすさなどに応じて、割り引いていくのである。
陳列棚の周りにはあっというまに人だかりができる。そうしてシールが張られていく先から、つぎつぎに手が伸び、割引されたパックは買い物カゴに収まる。陳列棚は十分もしないうちに空になる。
この手のタイムセールを「見切り販売」と呼ぶことを、最近のニュースで知った。セブンイレブンでは加盟店に対し、この「見切り販売」を制限している結果、廃棄処分されるお弁当などが相当な量になるというのだ。
スーパーのお惣菜コーナーでも見られるように、時間を決めると、その時間を待って安くなってから買おうとする客が増えて、結局、店の側は損をすることになるのかもしれない。けれど、「見切り販売」を制限しようとする本社に対して、店側は、たとえその分、赤字になってもいいから、何とか廃棄処分は避けたいと、十分食べられるお弁当やおにぎりを廃棄することに抵抗があるようだった。
繰りかえし報道されるニュースは、セブンイレブンの親会社に対して批判的なトーンが感じられた。そうしてその批判の多くは、大量の食品を廃棄することに向けられていたように思う。
確かにカメラが賞味期限切れのお弁当やおにぎりやサンドイッチ類を廃棄している映像をとらえると、「もったいない」と思う。だが、多くの人が寝ている夜中でも、あたりを煌々と照らしている蛍光灯に使われている電力は、「もったいな」くはないのか。一日に何度も入れ替えをする、そのための輸送にかかる費用は「もったいな」くはないのか。こう考えていけば、「コンビニ」という存在は、「もったいない」の上に成り立っている存在と言えないだろうか。
「もったいない」から、コンビニをなくしてしまえ、と言いたいのではない。わたしたちが「もったいない」と感じるのは、自分の目の届く、ごくごくせまい範囲だけで、それを越えればもう何とも思わない、ということなのだ。
スーパーではお惣菜ばかりでなく、肉や魚、野菜類など、さまざまな商品が「見切り販売」されている。だが、いずれも賞味期限が迫っているが、過ぎてはいない。過ぎたものは、廃棄されている。その廃棄に対して、わたしたちは「もったいない」とは言わない。あたかも「賞味期限」というハードルを越えさえすれば、廃棄することのお墨付きをもらったかのようだ。
あるいは、冷蔵庫の中。買い物をしてきて、冷蔵庫に入れたのはいいが、そのなかで使い切れないまま、賞味期限が切れたり、味が変わったりして、結局途中で廃棄することになる食品が、いったいどれだけあるだろう。「もったいないことをしてしまった」という罪悪感を抱えて、食品を捨てたことのない人が、いったいどれほどの割合でいるのだろうか。
わたしたちが、見切り販売を禁じ、食品廃棄を加盟店に求めるセブンイレブンの親会社に対して、批判的に見てしまうのは、おそらくはわたしたち自身の後ろめたさがそこに投影されているからなのだろう。
だが、すぐに疑問も氷解した。七時十五分前後になると同時に、店の人が二割引、三割引、半額と赤い字で書いてあるシールの束を持ってくる。そうして、惣菜が調理された時間や痛みやすさなどに応じて、割り引いていくのである。
陳列棚の周りにはあっというまに人だかりができる。そうしてシールが張られていく先から、つぎつぎに手が伸び、割引されたパックは買い物カゴに収まる。陳列棚は十分もしないうちに空になる。
この手のタイムセールを「見切り販売」と呼ぶことを、最近のニュースで知った。セブンイレブンでは加盟店に対し、この「見切り販売」を制限している結果、廃棄処分されるお弁当などが相当な量になるというのだ。
スーパーのお惣菜コーナーでも見られるように、時間を決めると、その時間を待って安くなってから買おうとする客が増えて、結局、店の側は損をすることになるのかもしれない。けれど、「見切り販売」を制限しようとする本社に対して、店側は、たとえその分、赤字になってもいいから、何とか廃棄処分は避けたいと、十分食べられるお弁当やおにぎりを廃棄することに抵抗があるようだった。
繰りかえし報道されるニュースは、セブンイレブンの親会社に対して批判的なトーンが感じられた。そうしてその批判の多くは、大量の食品を廃棄することに向けられていたように思う。
確かにカメラが賞味期限切れのお弁当やおにぎりやサンドイッチ類を廃棄している映像をとらえると、「もったいない」と思う。だが、多くの人が寝ている夜中でも、あたりを煌々と照らしている蛍光灯に使われている電力は、「もったいな」くはないのか。一日に何度も入れ替えをする、そのための輸送にかかる費用は「もったいな」くはないのか。こう考えていけば、「コンビニ」という存在は、「もったいない」の上に成り立っている存在と言えないだろうか。
「もったいない」から、コンビニをなくしてしまえ、と言いたいのではない。わたしたちが「もったいない」と感じるのは、自分の目の届く、ごくごくせまい範囲だけで、それを越えればもう何とも思わない、ということなのだ。
スーパーではお惣菜ばかりでなく、肉や魚、野菜類など、さまざまな商品が「見切り販売」されている。だが、いずれも賞味期限が迫っているが、過ぎてはいない。過ぎたものは、廃棄されている。その廃棄に対して、わたしたちは「もったいない」とは言わない。あたかも「賞味期限」というハードルを越えさえすれば、廃棄することのお墨付きをもらったかのようだ。
あるいは、冷蔵庫の中。買い物をしてきて、冷蔵庫に入れたのはいいが、そのなかで使い切れないまま、賞味期限が切れたり、味が変わったりして、結局途中で廃棄することになる食品が、いったいどれだけあるだろう。「もったいないことをしてしまった」という罪悪感を抱えて、食品を捨てたことのない人が、いったいどれほどの割合でいるのだろうか。
わたしたちが、見切り販売を禁じ、食品廃棄を加盟店に求めるセブンイレブンの親会社に対して、批判的に見てしまうのは、おそらくはわたしたち自身の後ろめたさがそこに投影されているからなのだろう。