最近の犬は、家の中で飼われていることが多いが、わたしが子供の頃は、犬というのは玄関先の犬小屋に繋がれているものだった。郵便屋さんや新聞配達のおじさんが来たら、自分の出番だ! とばかりに、わんわんわんわんとやかましく吠えるのだが、それ以外のときはつまらなそうな顔をして犬小屋に寝そべって、前を通るわたしをちらりと見上げてもすぐに目をそらし、何かいいことないかな~という顔をしていたものだ。
種類もたいていしっぽのくるんと巻いている柴犬で、たいして大きいわけでもないし、さほど見栄えもよくない。いまはコマーシャルでそんなかつてはありふれていた犬が「お父さん」になっているが、昔は動物図鑑でしか見たことのなかったような犬が当たり前に飼われるようになって、逆に柴犬の方が新鮮に見えるのかもしれない。
ただ、当時はあの「お父さん」と同じ白い犬でも、あんなに真っ白ではなかった。愛玩犬としては比較的早くからメジャーだったスピッツが真っ白かったのに対して、庭先の「シロ」たちは、黄ばんだと言ったらよいのか、薄汚れたと言ったらよいのか、決して「白」ではなかったのである。
そんな犬の犬小屋の奥には、たいてい古びて薄汚れた毛布が丸まっていて、犬小屋の前にはいびつにひしゃげたアルマイトの鍋があった。それが犬の餌入れなのだ。
のちにチャールズ・M・シュルツのマンガ『ピーナツ』を見て、スヌーピーが白い横板の張られた赤い屋根の家のてっぺんに寝そべっているのに驚いたのを覚えている。アメリカでは犬もおしゃれな家に住んでいるのか、と。スヌーピーのエサ入れは、青いプラスティックのこれまたおしゃれなボウルだった。
スヌーピーが食べていたのはまちがいなくドックフードだったのだろうが、わが町内に買われていた犬たちが食べているのは、ドッグフードなどではなく、たいていみそ汁をかけたご飯だった。犬を飼っている近所のおじさんが「新米を食べる犬なんか、世界中探しても日本ぐらいしかおらん」と苦々しげに話していたのをいやによく覚えているのだが、どうも自分の家の犬が好きではなかったからそんなことを言っていたのかもしれない。だがわたしの目には、スヌーピーたちの方がよほど恵まれているように思えた。
ともかく人間が食べているみそ汁とご飯を混ぜ合わせた食事を与えられると、大慌てでハクハクと音を立ててむさぼり食い、あっというまに平らげてしまうのだった。食べ終わるとぺろぺろと鍋をなめまわし、アルマイトの鍋は磨いたようになる。だが、なめるだけで飽き足らないのか、ときどき噛みつくので、アルマイトの鍋はあちこちがへこんでしまうのだった。
そんなふうに当時の犬は「みそ汁ご飯」が大好物(?)だったのだが、犬もみそ汁が好きだったのだろうか。猫を飼っている当時、猫に同じ猫缶ばかり食べさせていると、じきに飽きて食べなくなってしまっていたが、当時の犬は来る日も来る日も「みそ汁ご飯」で飽きるということはなかったのだろうか。
以前「○○君ってご飯みたい。毎日食べても食べ飽きないみたいに、毎日会っても飽きないの」と言っている人に、「あのね、ご飯が食べ飽きないのは、おかずが毎日ちがうからでしょ」と言っている人がいた。
だが、毎日パンが続くと、わたしたちの多くは、「ご飯」、つまり、炊いた米が食べたくなる。米と明太子だけでも(栄養価はともかく)わたしは一週間食べ続けられる自信はある(意味のない自信だなあ……)。おそらく食べ飽きないのはおかずが代わるからではなく、米だから食べ飽きないのだ。
大学に入るまでは、調理実習以外では米をといだこともなかったわたしが、結局自炊をするようになったのは、もちろん外食するお金がなかったということもあるのだが、外食の味に飽きてしまったこともその理由のひとつだった。ご飯にみそ汁、煮魚や焼き魚、かぼちゃや里芋の煮付け、きゅうりやなすのぬか漬け、そういうものが無性に食べたくなったのである。もちろん、その全部が並ぶこともなく、1/4個でもかぼちゃを買ってしまえば、三~四日はかぼちゃの煮付けばかりを食べなくてはならない。それでも、だしと醤油で味付けしたものなら、毎日でも食べることができた。
毎日でも食べることができるものは、人によって多少ちがうことはあっても、日本人の多くはやはりご飯にみそ汁、あとは明太子だったり卵焼きだったり、大きなちがいはないのではないか。
以前、アメリカ人の知り合いに聞いたら、日本のパン屋に売っているような、白くて甘くてふわふわしたパンではなく、塩の味しかしない、ずっしり重いパンなら毎日食べられる、と言っていた。彼の求めるパンは、ふつうのパン屋には売っていなくて、わざわざそのパンを遠くまで買いに行き、たくさん買ってきて、冷凍庫に保存していると言っていた。
以前、読んだことがあるのは、モロヘイヤ。古くからモロヘイヤを食べていた原産国のエジプトでは、スープにして食べる以外の食べ方はないのだという。日本人は入ってきてからすぐに、パンに練り込むとか和え物にするとか、さまざまな食べ方を工夫した。これは、日本人が新しい食べ方の探求に熱心という以上に、いまひとつ口に合わないモロヘイヤの、なんとか食べやすい食べ方を求めて四苦八苦した、と考えた方がいいように思う
思うのだが、結局、毎日食べて飽きることのない料理というのは、生まれてこの方、繰りかえし繰りかえし食べ続けた味なのではあるまいか。飽きるほど繰りかえし、そこからさらに繰りかえすことによって、それが「食べ飽きない味」になっていくのではないのだろうか。
そうして、そんなふうに食べ続けて飽きない味というのは、ごく狭い、特定の味なのだろう。日本の犬も、みそ汁ごはんをそんなふうに「食べ飽きない味」と感じていたとしたら、なんとなく楽しくなってくる。
種類もたいていしっぽのくるんと巻いている柴犬で、たいして大きいわけでもないし、さほど見栄えもよくない。いまはコマーシャルでそんなかつてはありふれていた犬が「お父さん」になっているが、昔は動物図鑑でしか見たことのなかったような犬が当たり前に飼われるようになって、逆に柴犬の方が新鮮に見えるのかもしれない。
ただ、当時はあの「お父さん」と同じ白い犬でも、あんなに真っ白ではなかった。愛玩犬としては比較的早くからメジャーだったスピッツが真っ白かったのに対して、庭先の「シロ」たちは、黄ばんだと言ったらよいのか、薄汚れたと言ったらよいのか、決して「白」ではなかったのである。
そんな犬の犬小屋の奥には、たいてい古びて薄汚れた毛布が丸まっていて、犬小屋の前にはいびつにひしゃげたアルマイトの鍋があった。それが犬の餌入れなのだ。
のちにチャールズ・M・シュルツのマンガ『ピーナツ』を見て、スヌーピーが白い横板の張られた赤い屋根の家のてっぺんに寝そべっているのに驚いたのを覚えている。アメリカでは犬もおしゃれな家に住んでいるのか、と。スヌーピーのエサ入れは、青いプラスティックのこれまたおしゃれなボウルだった。
スヌーピーが食べていたのはまちがいなくドックフードだったのだろうが、わが町内に買われていた犬たちが食べているのは、ドッグフードなどではなく、たいていみそ汁をかけたご飯だった。犬を飼っている近所のおじさんが「新米を食べる犬なんか、世界中探しても日本ぐらいしかおらん」と苦々しげに話していたのをいやによく覚えているのだが、どうも自分の家の犬が好きではなかったからそんなことを言っていたのかもしれない。だがわたしの目には、スヌーピーたちの方がよほど恵まれているように思えた。
ともかく人間が食べているみそ汁とご飯を混ぜ合わせた食事を与えられると、大慌てでハクハクと音を立ててむさぼり食い、あっというまに平らげてしまうのだった。食べ終わるとぺろぺろと鍋をなめまわし、アルマイトの鍋は磨いたようになる。だが、なめるだけで飽き足らないのか、ときどき噛みつくので、アルマイトの鍋はあちこちがへこんでしまうのだった。
そんなふうに当時の犬は「みそ汁ご飯」が大好物(?)だったのだが、犬もみそ汁が好きだったのだろうか。猫を飼っている当時、猫に同じ猫缶ばかり食べさせていると、じきに飽きて食べなくなってしまっていたが、当時の犬は来る日も来る日も「みそ汁ご飯」で飽きるということはなかったのだろうか。
以前「○○君ってご飯みたい。毎日食べても食べ飽きないみたいに、毎日会っても飽きないの」と言っている人に、「あのね、ご飯が食べ飽きないのは、おかずが毎日ちがうからでしょ」と言っている人がいた。
だが、毎日パンが続くと、わたしたちの多くは、「ご飯」、つまり、炊いた米が食べたくなる。米と明太子だけでも(栄養価はともかく)わたしは一週間食べ続けられる自信はある(意味のない自信だなあ……)。おそらく食べ飽きないのはおかずが代わるからではなく、米だから食べ飽きないのだ。
大学に入るまでは、調理実習以外では米をといだこともなかったわたしが、結局自炊をするようになったのは、もちろん外食するお金がなかったということもあるのだが、外食の味に飽きてしまったこともその理由のひとつだった。ご飯にみそ汁、煮魚や焼き魚、かぼちゃや里芋の煮付け、きゅうりやなすのぬか漬け、そういうものが無性に食べたくなったのである。もちろん、その全部が並ぶこともなく、1/4個でもかぼちゃを買ってしまえば、三~四日はかぼちゃの煮付けばかりを食べなくてはならない。それでも、だしと醤油で味付けしたものなら、毎日でも食べることができた。
毎日でも食べることができるものは、人によって多少ちがうことはあっても、日本人の多くはやはりご飯にみそ汁、あとは明太子だったり卵焼きだったり、大きなちがいはないのではないか。
以前、アメリカ人の知り合いに聞いたら、日本のパン屋に売っているような、白くて甘くてふわふわしたパンではなく、塩の味しかしない、ずっしり重いパンなら毎日食べられる、と言っていた。彼の求めるパンは、ふつうのパン屋には売っていなくて、わざわざそのパンを遠くまで買いに行き、たくさん買ってきて、冷凍庫に保存していると言っていた。
以前、読んだことがあるのは、モロヘイヤ。古くからモロヘイヤを食べていた原産国のエジプトでは、スープにして食べる以外の食べ方はないのだという。日本人は入ってきてからすぐに、パンに練り込むとか和え物にするとか、さまざまな食べ方を工夫した。これは、日本人が新しい食べ方の探求に熱心という以上に、いまひとつ口に合わないモロヘイヤの、なんとか食べやすい食べ方を求めて四苦八苦した、と考えた方がいいように思う
思うのだが、結局、毎日食べて飽きることのない料理というのは、生まれてこの方、繰りかえし繰りかえし食べ続けた味なのではあるまいか。飽きるほど繰りかえし、そこからさらに繰りかえすことによって、それが「食べ飽きない味」になっていくのではないのだろうか。
そうして、そんなふうに食べ続けて飽きない味というのは、ごく狭い、特定の味なのだろう。日本の犬も、みそ汁ごはんをそんなふうに「食べ飽きない味」と感じていたとしたら、なんとなく楽しくなってくる。