陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー「ニューヨーク発五時四十八分」その3.

2009-06-18 22:41:35 | 翻訳
その3.

向こうにマディソン・アヴェニューの交差点が見える。街の灯は、こちらよりさらに明るい。マディソン・アヴェニューにまでたどりつけたら、もう大丈夫のような気がした。角に入り口が二箇所あるパン屋がある。市内を横断する広い通りに面したドアから入り、ほかの通勤客がするようにコーヒーリングをひとつ買って、マディソン・アヴェニュー側のドアから外に出た。マディソン・アヴェニューを歩きだしてから、彼女が新聞を売るスタンドの横で待っているのに気がついた。

 彼女は頭が良い方ではなかった。まくのはさほどむずかしくはあるまい。タクシーをつかまえて一方のドアから乗り込み、反対側から出ることだってできる。警官に話しかけたっていい。走ることも可能だった――とはいえ、実際に走ったら、彼女の目論む暴力沙汰の引き金になるかもしれない。彼はいま、知り尽くした一画に近づきつつあった。地上の通りと地下通路が迷路のように絡み合い、エレベーターはいくつも並んでいるし、ロビーも混雑していて、尾行をまくのも簡単だ。

そんなことを考えながら、コーヒーリングの甘く温かい匂いを嗅いでいると、元気がでてきた。人でにぎわう通りの真ん中で、危害を加えられるかもしれないと思うこと自体、ばかげたことだった。確かにあの女はばかで、しかも誤解していて、おそらくは孤独だ――だが、それだけのことではないか。

自分は、とりたててどうということもない男ではあるし、職場から駅まで尾行されなければならないようないわれなどない。だいそれた秘密を握っているわけでもない。ブリーフケースに入っている報告書も、戦争とも平和とも、麻薬密売とも、水爆だのなんだの、考える限り、いかなる国際的陰謀とも無縁だ。あとをつけてくる女やトレンチコートの男たち、濡れた歩道から連想は広がった。行く手に男性専用のバーのドアが見える。そうだ、簡単な手があったぞ!

 彼はギブソンを一杯注文し、バーにいる男ふたりのあいだに肩を入れるようにして割りこみ、たとえ彼女が窓からのぞいても、見つからないようにした。店は電車やバスに乗る前に、一杯やって帰ろうという通勤客で混み合っている。誰もが服だけでなく、靴や傘にまで、雨の夕暮れ時のすえた臭いを染みつかせたまま店に持ち込んでいた。だが、ギブソンを味わううちに、ブレイクの緊張もほぐれていく。周りにはありふれた、多くはさほど若くない顔ばかりで、悩みといえばせいぜいが税率や、だれが販売促進部長になるだろう、程度のことなのではあるまいか。彼は女の名前を思い出そうとした――ミス・デントだったか、ミス・ベントか、それともミス・レント――自分が思い出せないのに気がついて驚いた。記憶力が良いだけでなく、記憶している範囲も広いのを、常々自慢に思っていたし、たかだか半年前のことだったのである。




(この項つづく)