2.べつにそれでもいいんだけれど
先日、新聞におもしろい統計が出ていた。
この統計が端的に示すのは、「そこそこの仕事を見つけて、自分の生活をのんびりと楽しむ。そのほかのことは社会が責任を持ってなんとかしてくれるから、自分はそれ以上のことはするつもりはない」という意思表示である。
別の言い方をすれば、「消費者」である以上のものにはなりたくない、ということだ。
ここでの仕事は「消費を可能にするもの」という以上の意味を持たない。
ただ、この結果を見て、たとえなんだかな、と思ったとしても、その責任を高校生たちに求めるのは気の毒なはなしだ。
彼らはある意味で市場の要請にしたがって、「理想的」な消費者としてみずからを形成しつつあるのだから。
考えてみればわたしもその高校生たちの親とそれほど年齢がちがわないのだけれど、この世代というのは、いわゆる「受験戦争」をくぐりぬけた世代である。
そのころはまだ、いい学校に行くために一生懸命勉強して、いい会社に就職して、という価値観が一般的にあった。なかには「お父さんみたいになりたくなかったら、もっといい学校に行かなくちゃ」という「教育ママ」なるものもいた。
だから、多くの中学生や高校生たちは、勉強なんてあまりおもしろくないけれど、それ以外に選択肢がなかったからその通りにやってきた(実際には多くの高校生たちは、そこまで一生懸命やらなかったけれど、やらなくてはならないというプレッシャーはきつかった)。
その結果、自分の望んだ通りの生き方ができていれば、当然、子供もそう教育する。
いや、そんなふうにとりたてて言わなくても、日々を生き生きと生活をしていれば、それを見た子供も自発的に親と同じ道を歩もうとするはずだ。
ところがそれだけ頑張ったのだけれど、手に入ったものはどうもちがう。良いものを手に入れた、とは思えない。それなりの企業に就職できたのは良いけれど、リストラだの子会社への出向だの、忙しいだけは忙しいが、ちっとも充実感がない。
だから、子供にそこまで強く「勉強しろ」「良い学校へ行け」と言うことができない。
子供から「どうして勉強しなきゃいけないの?」と聞かれて、答えることができない。
そんな親を見ながら育った子供が「偉くな」るために良い学校に入り、良い会社に就職して……と考えることはないような気がする。
では、「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたいと、とても思う」彼らは、自分のことを何と説明するのだろう?
学校の名前でも、仕事の肩書きでもないとしたら。
おそらくそれは「○○が好き/嫌いなわたし」という説明の仕方だ。
消費という局面にしぼって考えてみると、消費者である「わたし」が、別の消費者である「あなた」とちがう人間である、と区別できるのは、購買力と「好き/嫌い」だけしかない。
だが、ほんとうに彼らは「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしてい」くことができるのだろうか。
商品は絶えず新しく市場に登場する。ほとんど変化のない商品に、そのつど、新しい意味が付与され、しかもたちまち古くなる。そういうなかで、望ましいイメージの自分を維持し続けるためには、恐ろしいほどの購買力が必要だろう。
かくして「○○が好きなわたし」というやり方で自分を説明しようとする人間は、慢性的な飢餓状態に置かれることになる。
おそらく「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたい」は、決して現実にはならない。
(この項つづく)
先日、新聞におもしろい統計が出ていた。
「偉くなりたい」と思っている割合は他国の3分の1程度の8%。むしろ「のんびりと暮らしていきたい」と考えている子が多い――。日本の高校生は米中韓国に比べそんな傾向があることが、財団法人「日本青少年研究所」などの調査でわかった。「偉くなること」に負のイメージが強く、責任の重い仕事を避ける傾向も目立った。
調査は昨年10~12月、日米中韓の千数百人ずつを対象に行われ、日本では10都道県の12校1461人に聞いた。
日本の高校生の特徴がもっとも表れたのが、「偉くなること」についての質問。他国では「能力を発揮できる」「尊敬される」といった肯定的なイメージを持つ生徒が多いのに対し、日本では「責任が重くなる」が79%と2位以下を大きく引き離した。「自分の時間がなくなる」「偉くなるためには人に頭を下げねばならない」も他国より多い。
このため「偉くなりたいと強く思う」は8%。他国では22~34%だ。日本の高校生は、他国よりも安定志向が強い。「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたいと、とても思う」は43%と、14~22%の他国より抜きんでる。(以下略)
この統計が端的に示すのは、「そこそこの仕事を見つけて、自分の生活をのんびりと楽しむ。そのほかのことは社会が責任を持ってなんとかしてくれるから、自分はそれ以上のことはするつもりはない」という意思表示である。
別の言い方をすれば、「消費者」である以上のものにはなりたくない、ということだ。
ここでの仕事は「消費を可能にするもの」という以上の意味を持たない。
ただ、この結果を見て、たとえなんだかな、と思ったとしても、その責任を高校生たちに求めるのは気の毒なはなしだ。
彼らはある意味で市場の要請にしたがって、「理想的」な消費者としてみずからを形成しつつあるのだから。
考えてみればわたしもその高校生たちの親とそれほど年齢がちがわないのだけれど、この世代というのは、いわゆる「受験戦争」をくぐりぬけた世代である。
そのころはまだ、いい学校に行くために一生懸命勉強して、いい会社に就職して、という価値観が一般的にあった。なかには「お父さんみたいになりたくなかったら、もっといい学校に行かなくちゃ」という「教育ママ」なるものもいた。
だから、多くの中学生や高校生たちは、勉強なんてあまりおもしろくないけれど、それ以外に選択肢がなかったからその通りにやってきた(実際には多くの高校生たちは、そこまで一生懸命やらなかったけれど、やらなくてはならないというプレッシャーはきつかった)。
その結果、自分の望んだ通りの生き方ができていれば、当然、子供もそう教育する。
いや、そんなふうにとりたてて言わなくても、日々を生き生きと生活をしていれば、それを見た子供も自発的に親と同じ道を歩もうとするはずだ。
ところがそれだけ頑張ったのだけれど、手に入ったものはどうもちがう。良いものを手に入れた、とは思えない。それなりの企業に就職できたのは良いけれど、リストラだの子会社への出向だの、忙しいだけは忙しいが、ちっとも充実感がない。
だから、子供にそこまで強く「勉強しろ」「良い学校へ行け」と言うことができない。
子供から「どうして勉強しなきゃいけないの?」と聞かれて、答えることができない。
そんな親を見ながら育った子供が「偉くな」るために良い学校に入り、良い会社に就職して……と考えることはないような気がする。
では、「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたいと、とても思う」彼らは、自分のことを何と説明するのだろう?
学校の名前でも、仕事の肩書きでもないとしたら。
おそらくそれは「○○が好き/嫌いなわたし」という説明の仕方だ。
消費という局面にしぼって考えてみると、消費者である「わたし」が、別の消費者である「あなた」とちがう人間である、と区別できるのは、購買力と「好き/嫌い」だけしかない。
だが、ほんとうに彼らは「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしてい」くことができるのだろうか。
商品は絶えず新しく市場に登場する。ほとんど変化のない商品に、そのつど、新しい意味が付与され、しかもたちまち古くなる。そういうなかで、望ましいイメージの自分を維持し続けるためには、恐ろしいほどの購買力が必要だろう。
かくして「○○が好きなわたし」というやり方で自分を説明しようとする人間は、慢性的な飢餓状態に置かれることになる。
おそらく「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたい」は、決して現実にはならない。
(この項つづく)