その4.
「ところで」と医者が言った。「きみの飛行中隊が電話で容態を聞いてきたよ。見舞いに来たいという話だったが、もう一日か二日、待ったほうがいいだろうと言っておいた。きみは元気だし、この先、いつだって来られるんだから、とね。少しのあいだ、おとなしく寝て、ムリをしないことだよ。何か読むものでももらったかね?」
医者はバラが置いてあるテーブルを見やった。「ないのか。まあ、気味の面倒は看護婦がみてくれるさ。ほしいものがあったら、何でも言えばいい」そういうと、片手を上げて、部屋を出ていき、大柄できちんとした看護婦がそれに続いた。
ふたりが行ってしまうと、ふたたび横になって天井を眺めた。蠅は依然としてそこにおり、蠅からまた目を離さずにいると、遠くから飛行機の音が聞こえてきた。寝ころんだまま、エンジン音に耳を澄ます。かなり遠い。機種は何だろう、と考えた。うーん、分かるかもしれない……。急に首をぐいっと回して片側に向けた。爆撃された人間なら、誰だってユンカース88のエンジン音を忘れるはずがない。ドイツの爆撃機ならほとんど分かる、ユンカース88ならなおさらだ。そいつのエンジンはデュエットしてるみたいなんだ。ビブラートのかかった深い響きのバスに、ピッチの高いテナーがかぶさる。あのテナーこそがJU-88(ユンカース88)がたてる音で、それが聞こえたら、もうまちがいようがない。
横になったまその音を聞いて、まちがいない、と確信した。だがサイレンはどこだ、銃撃の音も聞こえないぞ。この真っ昼間、一機だけでブライトンあたりまで飛んでくるとは、あのドイツの飛行機乗りもいい度胸をしてるじゃないか。
飛行機は相変わらず遠いまま、やがてエンジン音も遠ざかって消えてしまった。それからもう一機きた。今度のも遠かったが、同じ震えるバスと高いさえずりのようなテナーは、まちがいなくJU-88だった。あの音なら戦闘中に毎日聞いていたのだから。
合点のいかない話だった。ベッド脇のテーブルにベルがある。手を伸ばしてそれを鳴らした。廊下をやってくる足音が聞こえ、看護婦が入ってきた。
「看護婦さん、あの飛行機は何でした?」
「わたしにはわからないわ。何も聞こえなかったから。たぶん戦闘機か爆撃機でしょう。フランスから帰ってきたんじゃない? どうしてそんなことを聞くの? どうかしたの?」
「あれはJU-88だった。確かにJU-88だ。あのエンジン音はよく知ってるんだ。二機もいた。こんなところで何をしていたんだ?」
看護婦はベッドまでやってくると、シーツの皺をのばしてマットレスの下へたくしこんだ。
「あらあら、いったいどんな空想をしているのかしらね。そんな心配は必要ないわ。何か読むものでも持ってきましょうか」
「いらない、だけどありがとう」
看護婦は枕を軽く叩くと、彼の額にかかっていた髪の毛をかき上げた。
「ユンカースなんて、もう昼間に来ることはないわ。あなただってそのことは知ってるでしょう。たぶんランカスターかフライング・フォートレス(※ボーイング B-17爆撃機)だったのよ」
「看護婦さん」
「どうしたの」
「タバコ、もらえるかな」
「もちろんいいわよ」
看護婦は出ていったかと思うとすぐにプレイヤーズの箱とマッチを手に戻ってきた。一本彼に渡し、くわえたところでマッチを擦って火をつけてやった。
「また何か必要なものがあったら、ベルを鳴らしてね」そういうと、出ていった。
もういちど、夕方近くに飛行機の音が聞こえた。遠かったが、それでも単発機であることはわかった。だが、それが何かまではわからない。わかったのは、高速だということだけだった。だが、スピットファイアでもハリケーンでもない。アメリカの飛行機でもなかった。米軍機はもっとやかましいのだ。機種がわからず、そのことがひどくひっかかった。たぶんおれは調子が悪いんだ。たぶん空耳なんだ。多少熱があるのかもしれない。何を考えたらいいか、わかってないんだ。
(この項つづく)
「ところで」と医者が言った。「きみの飛行中隊が電話で容態を聞いてきたよ。見舞いに来たいという話だったが、もう一日か二日、待ったほうがいいだろうと言っておいた。きみは元気だし、この先、いつだって来られるんだから、とね。少しのあいだ、おとなしく寝て、ムリをしないことだよ。何か読むものでももらったかね?」
医者はバラが置いてあるテーブルを見やった。「ないのか。まあ、気味の面倒は看護婦がみてくれるさ。ほしいものがあったら、何でも言えばいい」そういうと、片手を上げて、部屋を出ていき、大柄できちんとした看護婦がそれに続いた。
ふたりが行ってしまうと、ふたたび横になって天井を眺めた。蠅は依然としてそこにおり、蠅からまた目を離さずにいると、遠くから飛行機の音が聞こえてきた。寝ころんだまま、エンジン音に耳を澄ます。かなり遠い。機種は何だろう、と考えた。うーん、分かるかもしれない……。急に首をぐいっと回して片側に向けた。爆撃された人間なら、誰だってユンカース88のエンジン音を忘れるはずがない。ドイツの爆撃機ならほとんど分かる、ユンカース88ならなおさらだ。そいつのエンジンはデュエットしてるみたいなんだ。ビブラートのかかった深い響きのバスに、ピッチの高いテナーがかぶさる。あのテナーこそがJU-88(ユンカース88)がたてる音で、それが聞こえたら、もうまちがいようがない。
横になったまその音を聞いて、まちがいない、と確信した。だがサイレンはどこだ、銃撃の音も聞こえないぞ。この真っ昼間、一機だけでブライトンあたりまで飛んでくるとは、あのドイツの飛行機乗りもいい度胸をしてるじゃないか。
飛行機は相変わらず遠いまま、やがてエンジン音も遠ざかって消えてしまった。それからもう一機きた。今度のも遠かったが、同じ震えるバスと高いさえずりのようなテナーは、まちがいなくJU-88だった。あの音なら戦闘中に毎日聞いていたのだから。
合点のいかない話だった。ベッド脇のテーブルにベルがある。手を伸ばしてそれを鳴らした。廊下をやってくる足音が聞こえ、看護婦が入ってきた。
「看護婦さん、あの飛行機は何でした?」
「わたしにはわからないわ。何も聞こえなかったから。たぶん戦闘機か爆撃機でしょう。フランスから帰ってきたんじゃない? どうしてそんなことを聞くの? どうかしたの?」
「あれはJU-88だった。確かにJU-88だ。あのエンジン音はよく知ってるんだ。二機もいた。こんなところで何をしていたんだ?」
看護婦はベッドまでやってくると、シーツの皺をのばしてマットレスの下へたくしこんだ。
「あらあら、いったいどんな空想をしているのかしらね。そんな心配は必要ないわ。何か読むものでも持ってきましょうか」
「いらない、だけどありがとう」
看護婦は枕を軽く叩くと、彼の額にかかっていた髪の毛をかき上げた。
「ユンカースなんて、もう昼間に来ることはないわ。あなただってそのことは知ってるでしょう。たぶんランカスターかフライング・フォートレス(※ボーイング B-17爆撃機)だったのよ」
「看護婦さん」
「どうしたの」
「タバコ、もらえるかな」
「もちろんいいわよ」
看護婦は出ていったかと思うとすぐにプレイヤーズの箱とマッチを手に戻ってきた。一本彼に渡し、くわえたところでマッチを擦って火をつけてやった。
「また何か必要なものがあったら、ベルを鳴らしてね」そういうと、出ていった。
もういちど、夕方近くに飛行機の音が聞こえた。遠かったが、それでも単発機であることはわかった。だが、それが何かまではわからない。わかったのは、高速だということだけだった。だが、スピットファイアでもハリケーンでもない。アメリカの飛行機でもなかった。米軍機はもっとやかましいのだ。機種がわからず、そのことがひどくひっかかった。たぶんおれは調子が悪いんだ。たぶん空耳なんだ。多少熱があるのかもしれない。何を考えたらいいか、わかってないんだ。
(この項つづく)