陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

芸術家たち その7.

2007-04-03 22:34:34 | 
7.託宣

『世界のハーモニー』では、主人公のピーター・ジェンキンズと、独唱者であり恋人になるカレン・ジェンスンは、『人間失格』のところで使った「同義語・対義語」で考えてみると、「同義語」である側面と「対義語」である側面がある。
同義語であるのは、部屋のしつらえを始め、性格のさまざまな部分で、非常に近しいものである、ということ。もうひとつ、音楽の面では、プロになるためには、ともにあとちょっとのところで何かが足りない、ということ。
対義語であるのは、ピーターの方が、「才能」は充分なのに、「狂気」に欠けている、と評価され、カレンの方は、あるていどのところまではいけても、あと一歩、「才能」に欠けるが、「狂気」は持ち合わせている、ということ。
ピーターは自分に欠けている「狂気」を持っている彼女にひかれるようになる。

だが、ピーターは音程を外したまま、身内でリサイタルをやっている彼女を許せない。
つまり、「溝を飛び越え」てもいないくせに、音楽を平気で続けていられる彼女が許せないのだ。根底にあるのは、自分は音楽から足を洗ったのに、という思いである。自分よりさらに才能に欠ける彼女が、どうして平気で続けられるのか。そのような状態で音楽を続けるのは、音楽に対する冒涜ではないのか。

だが、ほんとうにピーターは音楽から足を洗ったのだろうか。
確かにジュリアードは中退した。
それでも、音楽評を書き、「時間つぶしのため」伴奏のピアノを弾く。
これは音楽を続けているとはいえないのだろうか。

最後にカレンは「あなたの演奏に欠けているのは狂気ではありません。集中力よ」と手紙で言い置くけれども、これこそ、音楽の世界に自分なりの足場を見つけ、そこに自分なりのなにものかを築いていこうとしているカレンから見た、ピーターの評価なのだろう。

自分が音楽のなかに意味を見出すこと。
音楽に、自分の足場を築いていくこと。
カレンはおそらく才能の限界を感じて自殺未遂という「狂気」を経験したのちに、なんとか自分なりの意味を見出していったのだ。それがどれほど危うい足場でも、そこから生みだされるものが、どれほど拙いものであろうとも、そこからなにものかを生みだしていく努力を続けようとした。
それを「音楽ではない」と評価されても、カレンは揺らがない。

ピーターはジュリアード在籍中に「狂気が欠けている」という評価を得た。そこで音楽家になる、という夢をすっぱりとあきらめたものの、音楽とは、やはり係わり続けた。そうやって関わるつもりなら、そこに自分の足場を築き、そこからなにものかを生みだしていこうとする努力は、最低限続けていくべきではないのか。それがカレンからするピーターへの評価だったのだろう。

ところで、もういちどモームの『人間の絆』を見ておこう。
先生(フォアネ)に自分の絵を見てほしい、と頼んだフィリップは、内心、こんな場面を期待する。
やはり心の底では、フォアネが絵を見てくれ、そして滅多に見られない微笑が、彼の顔に浮かんで、フィリップの手を握ったかと思うと、「ああ、結構だ(パ・マル)。君続け給え。君には、才能がある、本当に才能がある。」と、言ってほしい気は、十分にあった。
サマセット・モーム『人間の絆』(二)中野好夫訳 新潮文庫

だが、このような託宣は、おそらくはありえない。教師に言えることは、「いますぐやめなさい」か、「いましばらくは続けても良い」かのどちらかでしかないだろう。

これは小説ではない。現実の、わたしたちだれもが知っているピアニストの話だ。吉田秀和が「二十世紀の偉大なるピアニストたち」というコレクションを聴いての感想である。
 ホロヴィッツでさえ、キャリアは決して一本道ではなかった。1928年にアメリカでデビューして以来(その前からすでにロシアから西欧で広く認められてはいたのだが)、成功につぐ成功をおさめ、栄光の頂上に立っているようなキャリアをつんでいる最中、1935年、突如として活動を中止した。その原因は何だったのか? …略…

 1903年の生まれで、ホロヴィッツとほとんど同年代のクラウディオ・アラウが、1920年――というから十七歳だったろう――精神的な閉塞感にとらわれ、音楽を通じて自分を表現するのがうまくできなくなってしまい、結局、精神分析の治療を受けたという話は、これまで知らなかった。…略…

 私はよく思うのだ。グレン・グールドが50年代の中ごろのあのセンセーショナルな成功のあと、間もなく、ステージでの演奏活動をやめ、録音スタジオにこもってしまったというのも、本人があれこれ主張するだけでは、これまでにいろんな本に出ているが、それでも、私はまだ完全に納得はできてない。アルゲリッチがここ何年とソロ・リサイタルをほとんどやらず、合奏とか公開レッスンとかに時間を費やしている姿を見聞きするにつれ、私が感じるのも、グールドとは違うけれど、しかし、大ホールで満員の客に囲まれ、その熱心な眼差しと関心を一身に集めながら、全身全霊を傾倒して、ショパンやリスト、ラヴェル、プロコフィエフなどをひいているのに、耐えられなくなった何かが、彼女の中にも生まれてきたからではないか。
「「二十世紀の偉大なピアニストたち」より」『吉田秀和全集 24』所収 白水社

これはピアノという楽器の特殊性もあると思う。けれどもそれだけではない。
並はずれて際立った能力を、幼い段階から発揮している人を、わたしたちは「神童」と呼び、その能力を発揮し続ける人を、さらに「天才」と称し、そういう人のことを「才能がある」と考えるのだけれど、どれほどその能力が際立ったとしても、それだけでは何ものをも意味しない。ホロヴィッツやグールドやアルゲリッチのような人々でさえ、そのキャリアを一時中断させたり、後退させたりしている。「才能」というものが仮にあるとしたら、こういう人ほどその言葉にふさわしい人々もいないだろう。けれども、そういう人々でさえ、「才能」は、その人が音楽を続けていける保証を与えてくれるものではないのだ。

たとえそういう人であっても、それぞれが、自分でその音楽とのつきあいかたを見つけていくしかないし、音楽の中に、その人なりの足場を築いて、なにものかを生みだしていく努力はつづけていかなくてはならない。

そうして、その場でうみだされたものは、それぞれのレベルに応じてつねに評価されつづける。
「やめなさい」という評価を受ければ、もういちど、自分の音楽と、あるいは美術と、文学との意味を見直しは求められる。それによって、せっかくそれまでに築いた足場を捨てていかなければならなくなるかもしれない。軌道修正も必要だろう。それでも別の場所で、別の種類の足場を築いていくだけの話だ。それを「託宣」と受けとるかどうかはその人次第だし、たとえその評価が望ましいものであっても、それはどんな未来も保証するものではない。

だがこれはまるでわたしたちの毎日のありようそのものではないか。
わたしたちは仕事をする。あるいは、勉強をする。そこで常に評価される。
自分なりに仕事の意味を考え、自分がその仕事を通して、より望ましいことができるように、少しずつ足場を固めていく。
おそらくは芸術家というのは、この評価がより厳しく、より深いところでの意味づけが求められ、生みだすものに対しては、質の高いもの、あるいは深いもの、感情に直接働きかける要素の強いものが求められる、ただそれだけのちがいではないのだろうか。

わたしはここでも「生活者」と「芸術家」のありようの差が、本質的なものであるようには考えられないのだ。

さて、いよいよまとめに入っていこう。
明日は「芸術家の登場する作品をわたしたちが読む意味」について考えてみたい。

(この項つづく)