その5.
その日の夕方、看護婦がお湯を入れた洗面器を持ってやってきて、彼の体を洗ってくれた。
「まあ、ここが爆撃されるかもしれない、なんて考えない方がいいわよ」
看護婦はパジャマの上衣を脱がせると、右腕に浴用タオルで石けんをぬりつける。彼の方は口を開かなかった。
浴用タオルをお湯ですすぎ、石けんをあらためてこすりつけ、こんどは胸を拭い始めた。
「今夜は調子がいいみたいね。あなたはここへ運び込まれてすぐ、手術を受けたのよ。そりゃもう見事な手際だったわ。だからもうすっかりいいのよ。わたし、RAF(※イギリス空軍)に兄弟がいるのよ」それから言い足した。「爆撃手なの」
「おれはブライトンの学校に行ったんだ」
看護婦はさっと顔をあげた。「あら、それはいいわね。この町でも知り合いがいるでしょうね」
「ああ。知ってるやつは多いな」
腕と胸を拭い終わると、こんどは上掛けをめくって左脚を出した。包帯でぐるぐる巻きにされた右脚の残りがシーツの下から出ないように気をつけていた。紐をほどいてパジャマのズボンを脱がせる。右脚の部分が切りとられていたので、包帯も邪魔にならず、簡単に脱ぐことが出来た。左脚と残った箇所に取りかかる。彼にとっては清拭を受けるのはこれが初めてだったので、きまりが悪かった。看護婦は脚のしたにタオルをひろげて、浴用タオルで拭いていく。
「このひどい石けんったら、ちっとも泡がたちやしない。水のせいね。すごく硬度が高い水なんだわ」
「きょうびの石けんはどれもひどいもんだよ。もちろん硬水となると、どうしようもないね」そう言っているうちに、脳裏にあることがよみがえってきた。ブライトンの学校時代、入っていた風呂のこと、横長い石造りの浴室で、浴槽が四つ並んでいた浴室を思いだしたのだ。硬度のひどく低い軟水だったから、体から石けんを洗い流すために、あとでシャワーを浴びなければならなかった。それだけではない、お湯の表面には泡がぶくぶくたって、その下の脚など見えなかったことも。おまけに、ときどきカルシウムの錠剤を飲まされて、校医が繰りかえし、軟水は歯に悪いのだ、と言っていたことまで。
「ブライトンじゃ、水は……」
彼の言葉は最後までいかないうちに消えてしまった。ふとあることが心に浮かんだのだ。あまりに突拍子もない、馬鹿げた思いつきだったので、一瞬、看護婦に話して、一緒に笑おうかと思ったほどだ。
看護婦は顔を上げた。「水がどうしたの」
「なんでもない。夢でも見てたのさ」
洗面器で浴用タオルをすすぐと、脚の石けんをぬぐい、別のタオルでさらに拭いた。
「洗ってもらってさっぱりした。気持ちがよくなったよ」両手で顔をなでながら言い足した。「ひげを剃りたいんだが」
「それは明日にしましょう。明日だったらきっと自分でできるはずよ」
その夜、彼は寝られなかった。眠れないまま横になってユンカース88のことや水の硬度のことを考えた。ほかのことは考えられない。あれはJU-88だった、と独り言をいった。それは確かだ。だが、そんなことはありえないんだ、やつらがこのあたりを真っ昼間にあんな低空で飛んでくるはずがない。いくらそれが事実でも、そんなことがあるわけがないんだ。たぶん意識が混濁しているんだ。長い間横になったまままんじりともせずそうしたことを考えていた。一度、ベッドに起きあがって声に出して言った。「おれは気が狂ってなんかいないことを証明してやらなくちゃ。こむずかしい、頭のよさそうな演説だってできるんだ。戦争が終わったらドイツをどうしてやるか話してやる」だがそれを始める前に、彼は眠ってしまった。
(この項つづく)
その日の夕方、看護婦がお湯を入れた洗面器を持ってやってきて、彼の体を洗ってくれた。
「まあ、ここが爆撃されるかもしれない、なんて考えない方がいいわよ」
看護婦はパジャマの上衣を脱がせると、右腕に浴用タオルで石けんをぬりつける。彼の方は口を開かなかった。
浴用タオルをお湯ですすぎ、石けんをあらためてこすりつけ、こんどは胸を拭い始めた。
「今夜は調子がいいみたいね。あなたはここへ運び込まれてすぐ、手術を受けたのよ。そりゃもう見事な手際だったわ。だからもうすっかりいいのよ。わたし、RAF(※イギリス空軍)に兄弟がいるのよ」それから言い足した。「爆撃手なの」
「おれはブライトンの学校に行ったんだ」
看護婦はさっと顔をあげた。「あら、それはいいわね。この町でも知り合いがいるでしょうね」
「ああ。知ってるやつは多いな」
腕と胸を拭い終わると、こんどは上掛けをめくって左脚を出した。包帯でぐるぐる巻きにされた右脚の残りがシーツの下から出ないように気をつけていた。紐をほどいてパジャマのズボンを脱がせる。右脚の部分が切りとられていたので、包帯も邪魔にならず、簡単に脱ぐことが出来た。左脚と残った箇所に取りかかる。彼にとっては清拭を受けるのはこれが初めてだったので、きまりが悪かった。看護婦は脚のしたにタオルをひろげて、浴用タオルで拭いていく。
「このひどい石けんったら、ちっとも泡がたちやしない。水のせいね。すごく硬度が高い水なんだわ」
「きょうびの石けんはどれもひどいもんだよ。もちろん硬水となると、どうしようもないね」そう言っているうちに、脳裏にあることがよみがえってきた。ブライトンの学校時代、入っていた風呂のこと、横長い石造りの浴室で、浴槽が四つ並んでいた浴室を思いだしたのだ。硬度のひどく低い軟水だったから、体から石けんを洗い流すために、あとでシャワーを浴びなければならなかった。それだけではない、お湯の表面には泡がぶくぶくたって、その下の脚など見えなかったことも。おまけに、ときどきカルシウムの錠剤を飲まされて、校医が繰りかえし、軟水は歯に悪いのだ、と言っていたことまで。
「ブライトンじゃ、水は……」
彼の言葉は最後までいかないうちに消えてしまった。ふとあることが心に浮かんだのだ。あまりに突拍子もない、馬鹿げた思いつきだったので、一瞬、看護婦に話して、一緒に笑おうかと思ったほどだ。
看護婦は顔を上げた。「水がどうしたの」
「なんでもない。夢でも見てたのさ」
洗面器で浴用タオルをすすぐと、脚の石けんをぬぐい、別のタオルでさらに拭いた。
「洗ってもらってさっぱりした。気持ちがよくなったよ」両手で顔をなでながら言い足した。「ひげを剃りたいんだが」
「それは明日にしましょう。明日だったらきっと自分でできるはずよ」
その夜、彼は寝られなかった。眠れないまま横になってユンカース88のことや水の硬度のことを考えた。ほかのことは考えられない。あれはJU-88だった、と独り言をいった。それは確かだ。だが、そんなことはありえないんだ、やつらがこのあたりを真っ昼間にあんな低空で飛んでくるはずがない。いくらそれが事実でも、そんなことがあるわけがないんだ。たぶん意識が混濁しているんだ。長い間横になったまままんじりともせずそうしたことを考えていた。一度、ベッドに起きあがって声に出して言った。「おれは気が狂ってなんかいないことを証明してやらなくちゃ。こむずかしい、頭のよさそうな演説だってできるんだ。戦争が終わったらドイツをどうしてやるか話してやる」だがそれを始める前に、彼は眠ってしまった。
(この項つづく)