6.才能の問題(中編)
ジュリアードで「一インチ足りない」と言われた主人公ピーター・ジェンキンズは、新聞社で音楽の批評を書く仕事を始める。いくつかの都市で記者としての訓練を積み、やがてニューヨーク州のなかほどにある市の新聞社に職を得た。音楽会の批評を書いたり、音楽家に会ってインタヴュー記事を書いたりする仕事である。そうして家を買う。
安定した職と家を得たものの、主人公はピアノを弾くことと音楽評を書く以外の余暇の過ごし方を知らない。そこで声楽専攻の学生や独演者の伴奏を引き受ける仕事を始める。
ある日、間もなくリサイタルを開くという女性カレン・ジェンスンから伴奏を依頼される。
耐えがたい思いにかられて、ジェンキンズはピアノを止めてしまう。そのとき、カレンの手首のブレスレットの下に「彼女の狂気が日本の平行線の傷痕となってくっきりと刻まれていた」。ジェンキンズは彼女の伴奏をすることを承諾する。
レッスンのために彼女の部屋に赴いたジェンキンズは、カレンの部屋が自分のものとそっくりであることに驚く。もっとエキセントリックな部屋を想像していたのだ。
誘われるままに彼女の用意した食事を一緒に取り、ふたりはさまざまな話をする。
カレンは、あなたはどんなふうにも見えない、どうして何者にも見えないの、と聞かれたジェンキンズは、ジュリアードでピアノ教師から言われたことを教える。「きみはとても善良な市民だ、だから狂気というものがないんだとね」
それに対して、カレンは、狂気のかわりにわたしを持ち合わせてみたら? と誘われ、ふたりは恋愛関係になる。
カレンのリサイタルには四十人の人が聴きに来た。すべて友人ばかりである。カレンはいつもどおり音を外して歌うが、聴きに来た友人たちは口々におめでとう、という。
ジェンキンズは耐えられなくなって、ついに感情を爆発させてしまった。
翌朝、ジェンキンズは自宅の窓から見える林の一本の木に、首に縄を巻いた女の姿がぶらさがっているのが見えた。裸足のまま家から飛び出したジェンキンズは、それが人形であることに気がつく。それには手紙が添えられていた。
結局これ以降、主人公がどれほどカレンに連絡をとろうとしても、応えてくれることはなかった、というところで、この短編は終わる。
これを初めて読んでから、ずいぶん時間がたつ。非常に強い印象を受けたものの、長いことよくわからなかった。それでもジェンキンズの苛立ちは非常によく理解できたし、カレンのことをいやな女だと思っていた。
けれども、芸術家を描いた作品をさまざまに読みながら、少し読み方も変わってきたように思う。
そのことはまた明日。
ジュリアードで「一インチ足りない」と言われた主人公ピーター・ジェンキンズは、新聞社で音楽の批評を書く仕事を始める。いくつかの都市で記者としての訓練を積み、やがてニューヨーク州のなかほどにある市の新聞社に職を得た。音楽会の批評を書いたり、音楽家に会ってインタヴュー記事を書いたりする仕事である。そうして家を買う。
安定した職と家を得たものの、主人公はピアノを弾くことと音楽評を書く以外の余暇の過ごし方を知らない。そこで声楽専攻の学生や独演者の伴奏を引き受ける仕事を始める。
ある日、間もなくリサイタルを開くという女性カレン・ジェンスンから伴奏を依頼される。
私たちは、ヘンデルの“忠実な羊飼い”の〈青ざめた唇から洩れる溜息〉から始めて、彼女のプログラムをひと通り演奏してみた。やり始めてすぐ私には、彼女がなぜまだニューヨーク州のこんな田舎町におり、なぜまだ生徒なのかわかった。彼女はいい声をしていた。音階も明瞭で的確だった。どことなくビクトリア・デ・ロス・アンヘレス(だと思う)を思わせるスタイルで、有節発音もすばらしかった。それだけを取り上げれば、彼女は充分プロとして通用するだろう。が、音調を保たなければならないところで、彼女のピッチはどうしようもなくぐらつくのだった。それは滑稽なほどというわけではない。相手が素人ならおそらく気づかれずにすむだろう。しかし私には悲惨としかほかに言いようがなかった。彼女は何小節かを完璧に歌ったかと思うと、半音を飛ばすのだ。そのたびに私は、見えない爪の先を頭に突き立てられるような気分になった。チャールズ・バクスター『世界のハーモニー』
耐えがたい思いにかられて、ジェンキンズはピアノを止めてしまう。そのとき、カレンの手首のブレスレットの下に「彼女の狂気が日本の平行線の傷痕となってくっきりと刻まれていた」。ジェンキンズは彼女の伴奏をすることを承諾する。
レッスンのために彼女の部屋に赴いたジェンキンズは、カレンの部屋が自分のものとそっくりであることに驚く。もっとエキセントリックな部屋を想像していたのだ。
誘われるままに彼女の用意した食事を一緒に取り、ふたりはさまざまな話をする。
カレンは、あなたはどんなふうにも見えない、どうして何者にも見えないの、と聞かれたジェンキンズは、ジュリアードでピアノ教師から言われたことを教える。「きみはとても善良な市民だ、だから狂気というものがないんだとね」
それに対して、カレンは、狂気のかわりにわたしを持ち合わせてみたら? と誘われ、ふたりは恋愛関係になる。
カレンのリサイタルには四十人の人が聴きに来た。すべて友人ばかりである。カレンはいつもどおり音を外して歌うが、聴きに来た友人たちは口々におめでとう、という。
ジェンキンズは耐えられなくなって、ついに感情を爆発させてしまった。
「問題なのは音楽だ。音楽が裏切られたんだ。きみはほんとうに今夜の演奏がすばらしかったと思うのかい? 少しもすばらしくなんかなかったよ! まるで茶番だった! ぼくたちは今夜の歌を全部だめにしたんだ。そんなことをしておいてきみはよく平気でいられるね」
「わたしは歌をだめになんかしてません。わたしはそれなりに歌えたと思っています。そして感情を表現できたと思ってます。みんなわたしの歌を愉しんで聞いてくれた。わたしはそれで充分なのよ」
「おそろしい」と私は自分の怒りに酔っているのに気づきながらも言った。「きみはあと一歩というところまでは行っている。でも、きみはいい歌手じゃないんだ。無知蒙昧な連中がどう思おうと、そんなことは知ったことか。連中はきみがどういう音を出さなきゃいけないかも知らないんだ。きみはあのいやったらしいピッチのぶれのこともなんにも知らないんだよ。きみは歌を殺してるんだ。きみは歌をスイカみたいに舞台の上に落としてるんだ。それがむかつくんだよ! ぼくにはもう我慢がならないんだ。ピッチのぶれたきみの歌を聞くのは! 死んじまうよ、こんなことをしてたら」
翌朝、ジェンキンズは自宅の窓から見える林の一本の木に、首に縄を巻いた女の姿がぶらさがっているのが見えた。裸足のまま家から飛び出したジェンキンズは、それが人形であることに気がつく。それには手紙が添えられていた。
昔ならこれがわたしだったかもしれません。でももうそんなことはないわ。でもこれであなたにも少しは考えてもらえるかもしれないと思ったのよ。わたしは歌をあきらめようとは思いません。それはそうと、あなたの演奏に欠けているのは狂気ではありません。集中力よ。あなたはひとつのことに一分以上心を集中することができないみたいね。わたしだっていろんなことに気づいているのよ。あなただけが音楽批評家ではないってことよ。この人形を大事にして、ねっ?
結局これ以降、主人公がどれほどカレンに連絡をとろうとしても、応えてくれることはなかった、というところで、この短編は終わる。
これを初めて読んでから、ずいぶん時間がたつ。非常に強い印象を受けたものの、長いことよくわからなかった。それでもジェンキンズの苛立ちは非常によく理解できたし、カレンのことをいやな女だと思っていた。
けれども、芸術家を描いた作品をさまざまに読みながら、少し読み方も変わってきたように思う。
そのことはまた明日。