陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

名前の話

2007-04-09 22:16:24 | weblog
最近の名前は読めない、というのは、もはやあまりに一般的になってしまって、ことさら言うまでもないのだけれど、やっぱりほんとうに読めないので書いてしまう。

ここに「2006年名前ランキング」というのがあるのだが、男の子の1位の「陸」は読めるけれど、2位の「大翔」が「ひろと」だなんて絶対に読めない。

わたしの名前は比較的ありふれた名前なので、読んでもらえなかったりまちがえられたり、という経験はあまりないのだけれど、高校ぐらいまで、新学期になるとかならず読み損なわれる子がクラスに何人かいた。クラスメイトたちはみんな「また始まった」とばかり笑っていたけれど、そういう子のひとりが笑われるほうは、あたりまえの話ではあるけれど、決して楽しくはなかったようだ。

ただ、なかに、名簿の順番から考えて、読みにくい名前でも類推しながら、かなり正確に読む先生もいた。その先生のモットーが「名前は正しく読む」だったのだ。

だが、そうやって読めるのはおもに名字で、わたしのころからすでに「一郎」とか「晶子」などという名前は少なかったのだけれど、いまのように「結愛」などというだれにも読めない名前はいなかった。ちなみにこれは「ゆあ」と読むのだそうだ。

わたしもバイトから教える側にまわって、いつも生徒の名前はできるだけ正しく読もうとした。名簿をもらったら辞書をひき、考える。ちょっとびっくりするような名字もあったけれど、それはそれでその来歴を考えるのも楽しかった。

シェイクスピアはジュリエットに「名前に何の意味がありましょう」と言わせたけれど、そのシェイクスピアの登場人物からして、それぞれに意味や来歴を備えている。
以前、英会話の講師のイギリス人に、イギリスの貴族出身者がいたのだけれど、そのアポストロフィつきの名前を見れば、イギリス人なら誰でも、その名のもちぬしが貴族であることがわかるのだそうだ。
きょうび、シェパードが羊飼いで、スミスが鍛冶屋、ベイカーがパン屋であると思う人はいないけれど(※そもそもそういう意味がある)、そんなふうにやはり出身階級がわかるような名字もあるのだ。日本だとさしあたり「万里小路」なんていう名字なんだろうか。

名字ではなく、名前となると、これはもう親が何らかの願いをこめてつけるものである。
わたしの名前など、親が何を願っていたか明白すぎて、こっちが恥ずかしくなるくらいなのだが、その名の通り育つかどうかは別として、生まれたことを喜び、自分に期待し、幸多かれと願ってくれたことはよくわかる。

ところがいまの名前というのはどうなのだろう。
漢字というのは、表意文字のはずなのだが、音の響きだけでつけている名前があまりに多いような気がするのだ。
生まれたときは赤ん坊でも、三十になり、五十になり、七十になる。
そういうことを考えれば、「美留来(みるく)」なんて名前をつけるのは、いかがなものか、と思ってしまう。

ペットの名前と一緒にしているのではないのだろうか。
自分は、ひとりの人間が一生背負っていくことになる、重い決定を下そうとしているのだ、という自覚があるのだろうか。ちょっとそれが気になりもする。

ただ、いまはみんなそうなってしまったから、逆に、昔のように、入学式で名前が読み上げられるとき笑い声が起こったりするようなことはないのかもしれない。そのかわり、読み上げる側の名簿には、ほぼ全員にルビがふってあるにちがいない。

以前、かなり強烈な名前の子に、その名前、どう? 気に入ってる? と聞いてみたことがある。
「あたし、好きですよ、みんな読めないけど、すぐに覚えてもらえるし」と屈託がなかった。端から見れば、ヘンだと思ったり、意味がないじゃないか、と思ったりしたとしても、生まれたときからその名前で呼ばれ、自分のアイデンティティの大きな要素ともなっている名前がもちぬしにとっては大切な名前であることには、なんら変わりはないのだろう。

だから、もうちょっと考えろよ、と思ってしまうのも、こちらが歳を取った証拠なのかもしれない。
それでも天使と書いてアンジェリーナと読ませるのはやめてほしい。
こちらが恥ずかしい(いや、これは仮名ですが)。