陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものを贈る話(その1)

2006-08-05 22:23:52 | 
ものを贈る話(その1)


――たいしたもんじゃないってのは知ってる
だけど、ぼくが贈りたいのはぼくの歌、君のことを歌った歌なんだ
(Elton John "Your Song")


贈り物を贈るのと、もらうのと、どちらが楽しいだろう?

小さい頃は、お誕生日が楽しみだった。お誕生日まであと何日と、指を折って数え、今年は何がもらえるだろう、とワクワクした。

そのうち、自分が贈る側にまわる。母の日、父の日、家族の誕生日から始まって、徐々に贈り物をする相手は外に広がっていく。

何を贈ろう?
相手には、何がふさわしいだろう?
相手の喜ぶ顔を思い浮かべながら、自分の乏しいお小遣いと相談して、知恵を絞る。

あたしのジムに。ジムに何かすばらしいものをと計画して、幸福な時間をすごしてきたものだった。何かすばらしい、めったにないような、立派なもの――いささかでもジムの所有物であるという名誉にふさわしいもの。
(O.ヘンリ『賢者の贈り物』『O.ヘンリ短編集(二)』大久保康雄訳 新潮文庫)

ものを贈ることの楽しさは、相手のことを考える楽しさでもあるのだ。
とびきりすばらしい相手にふさわしい、とびきりすばらしいもの。
そう思って選んだ物は、その人にとって、一般的な価値以上の、特別な「もの」になる。

『賢者の贈り物』の主人公は、貧しい若夫婦だ。
デラは、乏しい家計をやりくりしながら爪に火を灯すようにして金を貯めた。ところがクリスマス前日になっても、たった一ドル八十七セントしか貯まっていない。

デラには贈りたいものがあった。

ジェームズ・ディリンガム・ヤング夫妻がひどく自慢しているものが二つあった。一つは、かつては祖父のものであり、父のものでもあったジムの金時計である。もう一つはデラの髪の毛だ。

デラはその髪の毛を売り、金時計に見合うプラチナの時計鎖を買ったのである。
ところがジムのほうは、自分の時計を売って、妻のために櫛を買っていた。
こうして、お互いに自分が所有している最高のものを売り、相手のために贈り物を買った結果、お互いの贈り物もまったく役に立たないものとなってしまったのである。

けれども、この物語の語り手はこう言う。

ここに私は、わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たちの、なんの変哲もないお話を不十分ながら申しあげたわけである。だが、最後に一言、贈りものをするどんな人たちよりも、この二人こそ最も賢い人たちであったのだと、現代の賢明な人たちに向かって言っておきたい。贈りものをあげたりもらったりする人々の中で、この二人のような人たちこそ最も賢明なのである。

なぜ、これが「最も賢明な贈り物」なのだろうか。
ここに贈り物が贈り物であるゆえんがあるのではないだろうか。

1.贈り物は交換か?

たとえば、あなたがだれかにクリスマスプレゼントとして九千八百円のカシミアのマフラーを贈ったとする。すると、相手はすぐに九千八百円を返してくれたとする。

あなたは相手の行為に深く傷つくのではあるまいか。
相手の意図は明白である。相手は贈り物を確かに受け取ってはくれた。けれども、あなたの「気持ち」のほうは拒否したのである。

こういうことは、現実に行われる。
かつて塾でバイトしていたころ、こんなことがあった。
何人かの生徒の親からお中元やお歳暮が届くのである。そういう際は即座にその品物とほぼ同額の文具券や図書券を返すことが決まりだった。そういうものは受け取れない。けれども、受け取らないと角が立つ。そこで、ほぼ同額のものを返すことによって、「なかったこと」にしてしまうのだ。

山嵐とケンカをした坊ちゃんは、かつておごってもらった一銭五厘の氷水の代金が気になってしょうがない。

 ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。

おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。

清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
 
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
(夏目漱石『坊っちゃん』青空文庫


ここでは「贈り物」を受け取る、というのはどういうことかが描かれている。
「他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ」とあるように、「贈り物」は相手にたいして、好意があるから、受け取るのだ。好意がなければ、たとえそれが氷水一杯の代金一銭五厘であっても、返さずにはおれない。

「交換」であれば、相手に対する好意がなくても可能である。そのとき考えるのは、「この交換が、自分にとって利益になるかどうか」ということだ。
けれども「贈り物」には、贈る側にしても、受け取る側にしても、相手にたいして好意がなければ成立しない。好意がない場合は、受け取る側がたとえ受け取ったとしても、速やかにお返しをすることで、「なかったこと」にすることもできるのだ。

ならば、交換の際に考慮される「利益」ということに関してはどうなのだろう。
贈る側が「見返り」を求めることはないのだろうか。

明日はこのことを考えてみよう。

(この項つづく)