陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トルーマン・カポーティ 「ミリアム」その3.

2007-01-18 22:18:09 | 翻訳
「ミリアム」その3.

あの子はいくつなのかしら。台所に立ったミセス・ミラーは、いちごジャムのびんの封を開け、パンを四切れ切った。ミルクをコップに注ぐと、ひと息置くことにして、煙草に火をつけた。それにしても、あの子はどうしてここに来たんだろう。マッチを持っている手がぶるぶる震えているのを、見入られたように見つめていたので、指先がやけどしそうになった。カナリアが鳴いている。朝だけ、ほかの時間帯には決して出さないような声でさえずっている。「ミリアム」ミセス・ミラーは呼んだ。「ミリアム、トミーにはかまったりしないで、って言ったでしょう?」返事はない。もう一度呼んだ。聞こえてきたのはカナリアの鳴き声だけだった。煙草をひとくち吸って、自分がフィルターチップの側に火をつけてしまったのに気がついた。まったく、もう、カッとしちゃいけないわ。

食べ物をお盆にのせて持っていき、コーヒー・テーブルに並べた。すぐ、鳥かごに目をやったのだが、夜にかけておくカヴァーはかかったままだ。なのにトミーはさえずっている。奇妙な胸騒ぎを覚えた。部屋には誰もいない。ミセス・ミラーはベッドルームに続く小部屋に入っていった。戸口で息を呑んだ。

「あなた、何をしてるの」

見上げるミリアムの目は、何か尋常ではない色が浮かんでいた。机の脇に立って、手前の宝石箱の蓋が開いている。しばらくミセス・ミラーに目を据えて、なんとか目を淡そうとして、にっこりわらった。「たいしていいものはないのね」と言った。「だけど、わたし、これ、好き」その手にはカメオのブローチがのっていた。「かわいいもの」

「戻したほうがいいみたいよ」ミセス・ミラーはそう言うと、急に支えなしでは立っていられないような気がした。ドアの枠によりかかる。頭が重くなり、鼓動を打つ心臓にも、圧力が加わったように思える。明かりは故障でもしたかのように、ちらついているような気がする。「やめて、お嬢さん。これは主人がくれたものなの」

「だけどきれいなんだもの、わたし、ほしいわ。もらってもいいでしょ」

立ったままミセス・ミラーは、ともかくブローチを取り戻せそうなせりふを、必死になって考えようとしていたが、ここにはミリアムを翻意させることができるような人間は、誰もいないことに気がついた。自分はたった一人だ。長いこと、頭に浮かんだこともないことだった。そのことが、呆然とするほど重くのしかかる。だが、鳴りを潜めるこの街の自分の部屋で、無視することもさからうこともできないその証拠なら、いくらでもあるのだ、と驚くほどはっきりと気がついていた。

ミリアムはがつがつと食べ、サンドイッチとミルクがなくなると、指を皿の上で蜘蛛の巣のように動かして、パンくずを集めた。カメオはブラウスの上で光っている。金髪の横顔は、まるでトリックか何かのように、それをつけている少女に生き写しだった。「すごくおいしかったわ」少女はため息をついた。「だけど、アーモンド・ケーキとか、さくらんぼとかがあったら、最高よね。甘いものっておいしいわよね、そうじゃない?」

ミセス・ミラーは不安定なままクッションに腰を下ろし、煙草を吸った。ヘア・ネットがずりおちてかしぎ、ほつれた髪が顔にたれている。焦点を失った目を見開き、頬には赤い斑点が、まるで平手打ちをされたあとが永久に消えなくなってしまったかのように、浮きあがっていた。

「キャンディはない? ケーキでもいいわ」

ミセス・ミラーは敷物の上に灰を落とした。目の焦点を合わそうとして、頭をかすかに振った。「サンドイッチを作ってあげたら帰るっていう約束だったわね」

「あら、わたし、そんなこと言った?」

「約束だったわ。それに、疲れているし気分も良くないの」

「イライラしないでよ」ミリアムは言った。「冗談言っただけじゃない」

コートを取り上げて腕にかけると、鏡の前でベレーを直した。それからミセス・ミラーの方にかがんで、ささやいた。「おやすみのキスをしてちょうだい

「ごめんなさい、そんな気にはなれない」ミセス・ミラーは答えた。

ミリアムは片方の肩だけすくめ、眉も一方を持ち上げた。「お好きなように」そう言うと、まっすぐコーヒー・テーブルのほうに歩いていき、紙のバラが挿してある花瓶をつかんで、床の固い表面が剥きだしになっているところまで歩くと、力一杯投げつけた。ガラスは四方に飛び散り、バラの花束は、足の下で踏みにじられた。

ゆっくりとミリアムはドアまで歩き、閉める前に振り向くと、ミセス・ミラーをずるがしこくも無邪気にも見える、好奇心に満ちた目で見返した。

(この項つづく)