陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

正月の時間 その2.

2007-01-05 22:33:56 | weblog
暮れの夕暮れ

あれはわたしが何歳のときだったのだろう。
おそらく小学校にあがって一年目か二年目ぐらいのころだったのだと思う。
年の暮れ、同じ並びの数軒先の家に「やくざ」の親戚が来た、と大騒ぎになったことがあった。

近所のおばさんが、母のところにそのニュースを持ってきたのが最初だったのだと思う。

それがね、奥さん、夜中に酒を飲んでやってきたのよ、大声で怒鳴って。ウチは隣でしょ、もう丸聞こえでね、恐かったのなんのって、そりゃもう、生きた心地がしなかった。ナントカ組のナントカという親分から盃をもらったんだ、って言ってたわよ。まだ若いのに、幹部級の人なんですって。 * * ちゃん(とわたしに向かって)、おっかない人が来たんだから、外なんか出ちゃだめよ。

「やくざ」がなんなのか、当時のわたしにはよくわからなくて(いまでもほんとうはよくわかっていないのかもしれない)、母に聞いたのだと思う。
するとそのおばさんは指でほっぺたにバッテンを書いてみせ、「こういう人なのよ」といったのだった。
わたしはその仕草を見て、おそらくその人は頬に傷があるのだろうと理解したのだった。
頬に傷のある恐い人。
だがそのイメージは、「親分」からもらった盃を大切にしている、ということとどうしても一致しない。それは金でできたか何かで、高価なものなのだろうか。だから大切にしていたのだろうか。
わたしはその「やくざ」のことを毎日あれこれと想像した。

それからというもの、せっかくの冬休みだというのに、外へ出てはいけなくなってしまった。遊びに行くのももちろん、庭でなわとびをすることさえ咎められる。
母は、大掃除ができない、庭も手を入れなきゃいけないのに、としきりにこぼしていた。

それでも、その「やくざ」が大声を出したりして騒いだのは、最初の日だけだったようで、それからはまったく静かに、家から出ることもなくひっそりと暮らしている、という話だった。相変わらず、外へ行ってはいけない、とやかましく言われていたが、家のまわりで遊ぶぐらいなら大丈夫、ということになり、やがて年の瀬が押し迫るにつれて、気がつけば庭の掃除や草むしりや窓ふきなどを言いつけられるようになっていた。

それでも、まだ大掃除の戦力になる年齢ではなかったのだろう。忙しげに立ち働いている母に、お手伝いすることない? と聞きにいっても、邪魔をしないでくれるのがお手伝い、といわれたりしていた。だからおそらく、庭の植木鉢に残ったアサガオやヒマワリの残骸を片づけたあとは、たいしてやることもなくなっていたのだと思う。

そのとき、わたしは何をしていたのだろう。
わたしは家の前に立って、空が少しピンクがかって、短い冬の日が暮れていくのを見ていた。空気は冷たく、ときおり風がふいて、アスファルトの道路の隅に溜まった砂をパッと巻きあげていた。
庭にはだれもおらず、風が電線を揺する音が聞こえた。

不意に、角を曲がって、若い男がわたしのほうに来た。その見たことのない男が「盃をもらったやくざ」であることはすぐにわかった。
薄い黒いシャツ一枚で黒いズボンをはき、素足に草履履き、髪の毛のひどく短い(当時わたしが知っていただれよりも短い毛だった)、色の白い、整ってきれいな顔立ちの、それでもわたしのそれまで知っていただれにもない、その当時はそんなボキャブラリはまだ持っていなかったけれど、いまのわたしなら「荒れた」とでもいうのだろう、そんな感じがあった。
わたしは頬の傷がどんなものなのか確かめたくて、胸をドキドキさせながら、じっと見ていた。

なんだ、傷なんかないじゃん。△△のおばさん、まちがえたんだ。

男はすれちがいざま、わたしにちらっと一瞥をくれて、そのまま行ってしまった。あんな薄いシャツで靴下もはいてなくて寒くないんだろうか、とわたしが見送っていると、その男は数軒先のその家に入っていったのだった。

すぐに家に入って頬に傷がなかったことを母に報告した。
それから母が何と答えたか、また、ジロジロ見たりしたことを怒られたか、などといったことはまったく記憶に残っていないのだけれど、年の暮れの夕方、胸元を開け、裾をなびかせていた黒い薄いシャツと、白い顔は、いまだに目に浮かんでくるようだ。

どういうわけか「暮れの時間」というと、そのときのことを思い出すのである。

(この項つづく)