陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あなたのなかの「子供」―描かれた子供たち

2007-01-26 22:41:08 | 
「ミリアム」を訳しながら考えたのは、ミリアムがミセス・ミラーの分身であるとしたら、なぜ少女の姿をしてあらわれたのだろう、ということだった。

同じ過去のミセス・ミラーであるにしても、たとえば二十代、結婚する以前のミセス・ミラーであってもいい。
けれどもそうなればおそらく話はまったくちがうものになっていただろう。

文学にはさまざまな「子供」が描かれる。
なぜ、子供なのだろう。
子供はどんな役割をその作品のなかで果たしているのだろう。
そのことを考えてみたい。

1.一人称の子供

作品の中には、大人になった自分が、子供のころを振り返る、という種類のものがある。それが作者の自伝的な性格のものであれ、まったくのフィクションであれ、「大人になった自分」が現在の位置から「かつての自分」をふりかえっているものにはちがいはない。

たとえば『坊っちゃん』がそうだ。
 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。


大人になった「坊っちゃん」は子供時代を振り返り、いろんなエピソードをあげていく。
・二階から飛び降りたこと。
・ナイフで自分の親指を切ってみせたこと。
・勘太郎とケンカをして、相手をおそらく失神させてしまったこと。
・ニンジン畑で相撲をとったこと。
・田圃の井戸の水を止めてしまったこと。

いくつものエピソードはすべて、「坊っちゃん」が、自分がいかに無鉄砲なやんちゃ坊主であったかの傍証となるものである。
つまり、大人になった「坊っちゃん」は、いまの自分のルーツを、その無鉄砲なやんちゃ坊主に求め、そこから自分を語ろうとしているのだ。

太宰治の『人間失格』の語り手大庭葉蔵も、「坊っちゃん」とまったく同じことをする。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

「人間の生活というものが、見当つかない」大庭葉蔵は、「実用」ということが理解できず、現実の世界を一種のファンタジーの世界に生きていたということを説明するために、やはり、さまざまなエピソードをあげていく。「人間の営みというものが未だに何もわかっていない」いまの自分のルーツを、そこに求めているのである。

人は数知れないほどの自分の過去の出来事のなかから、現在の自分が「あること」を語るために、始め-なか-終わりを持つ物語として取り出す。その物語の主人公が、「子供の自分」である。
けれども、それはあるがままの子供ではない。「現在の自分」によって編集作用をほどこされた子供である。
言い換えればそれは、「現在の自分」に意味を与える存在としての「子供のかたちをした自分」なのである。

(この項つづく)

(※母は週明けに退院することになりました。ほんとうにホッとしました。気にかけてくださった方、どうもありがとうございました。「家」はそのうち書き足して、まとめたのをアップするようにします)