陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あなたのなかの「子供」―描かれた子供たち 3.

2007-01-28 22:17:51 | 
3.子供、その無垢なる生き物

昔のミステリやホラー映画には、子供がつぎつぎに恐ろしいことをする、というタイプのものがあった。周囲はだれもがその子を疑いもしていないために、事態は一層進行していく。
これにはまず前提が成立していなければならない。
子供が純真無垢である、という共通認識を、ほかの登場人物も、読者の側も持っていなければならないのだ。

いまのわたしたちは、さまざまな事件やその報道、あるいは電車などで日常的に目にする子供を通じて、子供がかならずしも純真無垢というようなものではないとかんがえている。

それでも、以下に引く『人間失格』のこの場面はどうだろうか。
主人公の大庭葉蔵は最初の心中に失敗したあと、雑誌記者のシヅ子と知り合い、シヅ子が女手ひとつで育てているシゲ子と三人で生活するようになる。ところが安定した生活も長くは続かない。そういう場面である。
 ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑してから一年以上経って、葉桜の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら襦袢やらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、二晩つづけて外泊して、三日目の晩、さすがに具合い悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞えます。
「なぜ、お酒を飲むの?」
「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」
「いいひとは、お酒を飲むの?」
「そうでもないけど、……」
「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」
「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した」
「セッカチピンチャンみたいね」
「そうねえ」
 シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。
 自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)
 自分は、そこにうずくまって合掌したい気持でした。そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。

ここで主人公がシヅ子シゲ子の母子から離れようとするのは、シゲ子の純真無垢なありようにふれたためとも言える。純真無垢な子供のする無邪気な問いは、主人公の胸を刺す。

ジョン・アップダイクの『走れウサギ』にも、無垢な子供は登場する。
主人公のウサギことハリー・アングストロームは、高校を卒業して皮むき器の宣伝販売をしながら、二人目を妊娠中の妻と子と暮らしていた。自堕落な妻のためにごみためのようになった家を、不意に飛び出してしまうのだが、そのあいだにふたりめの子供が生まれる。その赤ん坊をウサギは病院へ見に行く。
一列に並んでいる赤ん坊部屋で、看護婦が彼の娘をのぞき窓までつれてきたとき、不意をつかれて、ちょうど胸を湿った布でなでられたみたいだった。突然凍りつくような隙間風が、彼の呼気を凍らせてしまう。誰でも生まれたばかりの赤ん坊は醜いと必ず言うものだが、おそらく、この気持がそういった驚きの理由になっているのだろう。看護婦は、赤ん坊の横顔が、ボタンのついた白衣の胸のところでひどく赤く見えるように、抱いていた。鼻孔のまわりには皺が小さくついていて、信じがたいほどそれが精密に見える。閉じられた瞼が小さな縫い目のない合わせ目になって斜めに長くのびている。この目が開くと、大きい、すべてを見とおす目になるんだろう。薄膜のふくらみの背後には、この世でまれなほど貴重で透明な液体がかくされているようだ。静かな瞼の裏には圧力がみなぎっていて、突き出た上唇は傾いているが、彼はそのなかに愛嬌のある軽蔑の色を読みとる。この子は自分の正しいことを知っている。…
ウサギは見るという行為そのものにびくびくしながら、ガラス越しに見おろしている。まるで、粗雑に見ることはこの美しい生命の微妙な機械を破壊してしまうように思える。
ジョン・アップダイク『走れウサギ』(宮本陽吉訳 白水Uブックス)

子供そのものが無垢なわけではない。彼らは、ただ、そこにいるだけだ。そうではなく、子供や赤ん坊は、彼らを見る側に、その小さな生き物が「無垢」である、という気持を呼び起こすのだ。

なぜ子供や赤ん坊を前にする人は、彼らを「無垢」と感じてしまうのだろう?
それは、自分のうちにかつてはあり、そうして日々を生き、さまざまな出来事を経験するうちに失ってしまったなにものかに気がついてしまうのではないだろうか。
「無垢」がどこかにあるわけではない。自分のうちのなかに見つけるのだ。「かつてそこにあったもの」として。
だからこそ、畏怖を感じたり、痛みを覚えたりするのだろう。

(この項つづく)