hiyamizu's blog

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司馬遼太郎『ひとびとの跫音』を読む

2021年08月13日 | 読書2

司馬遼太郎著『ひとびとの跫音(あしおと)』(2009年8月10日中央公論新社発行)を読んだ。

 

宣伝文句は以下。

詩人、革命家など大正・昭和期の鮮烈な個性に慕われながら、みずからは無名の市井人として生きた正岡家の養子忠三郎。子規ゆかりのひとびとと淡く透明な交わりを結んだ著者が、共感と哀惜をこめて彼らの境涯をたどりつつ、「人間がうまれて死んでゆくということの情趣」を描き、司馬文学の核心をなす名篇。

 

523頁の大部。なお、この作品は1981年中央公論社から上下二巻で出版されたものの新装改版である。

 

そもそも私がこの本を読んだのは、正岡子規を献身的に看病し、生涯を捧げたと思われる妹・律のことが知りたかったためだ。しかし、律について書かれた部分は523ページ中、30ページ程度しかなかった。したがって、ほとんどの部分は飛ばし読みであることをお断りしておく。

 

 

全体としては、子規の養子・正岡忠三郎と、その友人で筋金入りの共産党員である西沢隆二の2人、数奇な人生を送ってはいるが、ほぼ無名の2人との司馬遼太郎の交友録的なエッセイだ。

司馬遼太郎は、伊予松山出身の正岡子規と、日露戦争で活躍した秋山好古、真之兄弟を巡る『坂の上の雲』を書いていて、その関係で、子規の養子・忠三郎、さらには西沢隆二と知り合ったのだ。

 

 

「忠三郎さん」(本書での表現)は、養父・子規の所見を保管したが、いわゆる一般市民で、阪急に入社し、車掌さんになり、その後梅田の阪急百貨店で婦人服を販売していた。

 

西沢隆二(本書では「タカジ」と呼んでいる)は、忠三郎さんの高校からの親友で、共産党員として検挙され、戦争が終わるまで12年間獄中にいた。

 

 

以下、この本のメインテーマではないが、子規の妹・律について書かれていたことをメモとして羅列してみる。

 

律は子規の3歳下の妹で、二人兄妹だ。20代から30代にかけて7年間、兄の看病にすべてを捧げた。「捧げたなどという極端な言いようは、この期間の正岡律にこそあてはまる。」と司馬遼太郎は書いている。(p30)

優しかった母親の八重は、戸籍上はリツだが、「リーさん」と呼んだ。子規のことは、通称升(ノボル)だが、「ノボさん」と呼んでいた。

 

私は、律は子規に尽くしたまま生涯独身だと思っていたが、子規の看病を始める前に既に二度結婚し、二度離婚していた。

献身的に子規を看病していたと思われるが、病人の我がままもあろうが、子規はここまで言うかというほどすさまじく厳しく決めつけている。

律は理屈詰めの女なり 同感同情のなき、木石のごとき女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし

 

土居健子の談話

お母さま(八重)にくらべますと、お律さんのほうが、そのお顔つきからして、きついでしたよ。お律さんはまだ四十代だったと思いますが、昔のことですから随分年よりに見えました。お兄さまのためには自分の一生を投げうって尽くされた方ですが、亡くなられたのちも、家の中はもちろん、庭のどこに何が植わっていたということまでよく憶えておいでで、何一つ置き換えず、子規さんのおられた頃のままにしておられました。ことに子規さんが寝ておられた六畳の間には気をつかい、誰もお入れになりませんでした。

 

子規が36歳で死んだ翌年(明治36年)、小学校を出ただけだった律は33歳で神田一ツ橋の共立女子職業学校へ入学した。卒業後、母校の事務員となり、後に教員となった。融通のきかないほど厳格で厳しい先生であった。(p86) 晩年はより潔癖症になり、細菌のかたまりのような乳児の孫・浩のたらいも物干しも別にしていた。

 

 

私の評価としては、★★☆☆☆(二つ星:読むの?  最大は五つ星)

 

正岡律、正岡忠三郎、あるいは西沢隆二のことを知りたい人には貴重な本だが、そんな人はほとんどいないだろうということで二つ星。

 

この本は、内容が地味過ぎる。無名の二人の足跡が淡々と描かれ、司馬さんが少しずつその生涯を調べていく過程が地味に語られる。驚くこともないではないが、ダイナミックなことは何一つない。

 

律と宮沢賢治の妹・トシとを私は混同していたかもしれない。トシは優秀で、花巻高等女学校では、1年生から卒業まで主席だった。日本女子大学校のとき、結核となり、25歳で死亡した。亡くなる日、彼女は「あめゆじゆとてちてけんじや(みぞれ混じりの雪を取ってきてちょうだい)。」と看病する賢治に頼む。(賢治の『春と修羅』にある『永訣の朝』)。この印象が強すぎたので、子規を看病した律についても知りたくなったのだ。

 

 

司馬遼太郎(しば・りょうたろう)

1923(大正12)年、大阪に生まれる。大阪外国語大学蒙古語科を卒業。

1959(昭和34)年、『梟の城』により第四十二回直木賞を受賞
1967年、『殉死』により第九回毎日芸術賞
1976年、『空海の風景』など一連の歴史小説により第三十二回芸術院恩賜賞
1982年、『ひとびとの跫音』により第三十三回読売文学賞(小説賞)
1983年、「歴史小説の革新」により朝日賞
1984年、『街道をゆく―南蛮のみち1』により第十六回日本文学大賞(学芸部門)
1987年、『ロシアについて』により第三十八回読売文学賞(随筆・紀行賞)
1988年、『韃靼疾風録』により第十五回大佛次郎賞をそれぞれ受賞
1993年、文化勲章受章

1996年、死去

 

 

登場人物

正岡子規:正岡常則。母ヤエ、妹

正岡忠三郎:昭和2年京都大学経済学部卒。八重の弟・加藤恒忠(号は拓川)の三男で子規の死後12年後に死後養子に(戸籍上は律の養子に。

あや子:忠三郎夫人

土居健子(けんこ):好古の次女。

西沢隆二:タカジ。筆名ぬやま・ひろし。詩集『編笠』。忠三郎の親友。共産党員で12年間刑務所にいた。

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