●2月26日(水)·
<「おーい六さん 中川六平追悼遺稿集」出版>
わが友、中川六平が生きていればこの2月に70歳を迎えている。昨年9月に七回忌の法要が行われた後、編集者の大河久典さんの尽力で「おーい 六さんー中川六平遺稿追悼集」が刊行され送られてきた。
第一部は、彼の遺稿、「鶴見さんの言葉」と題して収められている。
第二部は「六年目の追悼」と題して、友人たちの文章が掲載されている。
ぼくと彼は20歳のころに同志社のキャンパスで出会う。彼は、岩国の反戦喫茶「ほびっと」のマスターとして奮闘。卒業後、東京タイムスの記者やフリーライターとなった後、晶文社の編集者として、師と仰ぐ今は亡き鶴見俊輔さんの対談集など多くの本を世に出した。
追悼文にはべ平連仲間であった豊田勇造や甲斐扶佐義、栢下芳郎、関谷滋、岩国からは冨田裕明、鷲野正和、そして児童文学作家になった岩瀬成子が寄稿している。
そして、彼が多くの時間を過ごした東京での多くの編集者仲間が酒席でのエピソードや本づくりの楽しさを寄稿している。彼は多くの仲間に囲まれて、楽しい人生だったと思う。この遺稿追悼集は市販されないので、もし読んでみたい人があれば、連絡してください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下は、僕が書いた追悼文。
<わが友ロッペイ、「ほびっと」、わが青春!>
「どうもどうも!」今もにこやかなロッペイの笑顔を思いうかべることがある。出会ったのは1970年春かな。50年前。20歳の頃。ベトナム戦争が激化して、ぼくは京都べ平連(ベトナムに平和を市民連合)と同志社べ平連に参加していた。岩国の米軍海兵隊基地から戦闘機が飛び立っていた。
――――マサホさんが部屋に現れた。「おー、いたのか、どうや、岩国にデモでもやりに行かないか」。顔を見るなり話しかけてきた。髭だらけの丸顔でぼくより1学年上だ。「岩国ですか」僕はつぶやいていた。「面白そうじゃないですか」と応えていた。マサホさんは笑みを浮かべた。――
それから2年後、1972年に開店した反戦喫茶「ほびっと」の初代マスターとして幾多の困難に立ち向かう。彼が書き残した「ほびっと 戦争を止めた喫茶店」(2009年講談社刊)には、「マサホさん」が何度も何度も出てくる。彼が大学に戻ることを決断した時、1973年5月ほんやら洞で会議をした時のこともロッペイは書いている。
――――マサホさんは「よくやったよ」といった。明日は試験だということを忘れてマサホさんと飲み続けたーーーー。
彼は大学を卒業して東京に行った。実は、その後「マサホさん」は「ほびっと」で出会った悦子さんと結婚して長男に「穂人」と名付けた。
それから40年、2013年、夏の終わり、武蔵境の病院に見舞いに行った。食道がんで放射線治療を受けるという。入れ歯を外していたが、相変わらず口は達者で、鶴見俊輔さんの本作りのことなど喋る。「マサホさんも書きなよ!青春時代のことや市会議員の生活のことを!僕が編集するから」と言ってくれた。それが今生の分かれになった。2週間後、訃報を聞いたとき、また告別式で向かう新幹線の中で本を読み返したとき、涙が出た。早すぎた旅立ち。
2019年9月、彼の7周忌の法要の後、岩国を訪れた。ロッペイの後を継いだトミさん、ワシノ、米国人活動家のエドや常連客で児童文学作家になった岩瀬成子さんら10人ほどが集まった。その場にはロッペイがいない。「天国で見てるよな」とぼくは思った。翌日、岩国の街を歩いた。「ほびっと」のあった建物は空き地になっている。しかし、米軍の岩国海兵隊基地は今もある。戦闘機を止めようと凧を揚げた川沿いに戦闘機が轟音を響かせて飛び立った。
今やべ平連も「ほびっと」も歴史になり、戦後社会運動の研究者にとって「ほびっと戦争を止めた喫茶店」は、その時代の証言でもある。もちろん、「ほびっと」はロッペイの青春奮闘記であり、そして「マサホさん」のつまり僕の青春でもある。よくぞ書き残してくれた!
ぼくも古希を迎え、32年間の京都市会議員生活を終えて、色々な資料を読み返すとき、ロッペイこと中川六平が岩国で切り開いたことが大きな意味があったことを改めて思うのである。
いつか、わが青春、わが人生の回顧を僕も書き残したいと思うが、ぜひロッペイに編集者として本を出してほしかった。わが友、わが戦友、ロッペイ!いつかあの世でまた飲もうよ! 2019年初冬 鈴木正穂
2月25日(火)·
朝、消防車のサイレンが鳴っているのを聞いたような気がしていたが、FBを見ていたら神楽岡町で火災発生とのこと。すでに鎮火はしていた。場所では神楽岡町の夜店が行われている路地のところ。お一人がなくなったそうです。お悔やみ申し上げます。
.閑話休題。このところ、家の倉庫?に眠っていた昔に書いたものや資料やアルバムなどを整理している。 鴨沂高校時代(16歳のころ?)にNHK教育テレビの「若い広場」に出演したことがあるのです。永六輔さんも一緒やったんやね。親父が撮ってアルバムに張り付けてありました。55年ほど前は紅顔の少年でした。ワハハ!
色々な写真が出てきて面白い!
新型コロナウイルスの影響でキャンセルが相次ぎ、中国人向けの愛知の老舗旅館が廃業とか、京都のホテルもゲストハウスもどうなるのか。Jリーグの延期を発表、中国での死者が2,715人、感染者が7万8,064人となる。イタリアで新型コロナウイルスによる死者が11人となる。各国に広がっているのだ。
<「おーい六さん 中川六平追悼遺稿集」出版>
わが友、中川六平が生きていればこの2月に70歳を迎えている。昨年9月に七回忌の法要が行われた後、編集者の大河久典さんの尽力で「おーい 六さんー中川六平遺稿追悼集」が刊行され送られてきた。
第一部は、彼の遺稿、「鶴見さんの言葉」と題して収められている。
第二部は「六年目の追悼」と題して、友人たちの文章が掲載されている。
ぼくと彼は20歳のころに同志社のキャンパスで出会う。彼は、岩国の反戦喫茶「ほびっと」のマスターとして奮闘。卒業後、東京タイムスの記者やフリーライターとなった後、晶文社の編集者として、師と仰ぐ今は亡き鶴見俊輔さんの対談集など多くの本を世に出した。
追悼文にはべ平連仲間であった豊田勇造や甲斐扶佐義、栢下芳郎、関谷滋、岩国からは冨田裕明、鷲野正和、そして児童文学作家になった岩瀬成子が寄稿している。
そして、彼が多くの時間を過ごした東京での多くの編集者仲間が酒席でのエピソードや本づくりの楽しさを寄稿している。彼は多くの仲間に囲まれて、楽しい人生だったと思う。この遺稿追悼集は市販されないので、もし読んでみたい人があれば、連絡してください。
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以下は、僕が書いた追悼文。
<わが友ロッペイ、「ほびっと」、わが青春!>
「どうもどうも!」今もにこやかなロッペイの笑顔を思いうかべることがある。出会ったのは1970年春かな。50年前。20歳の頃。ベトナム戦争が激化して、ぼくは京都べ平連(ベトナムに平和を市民連合)と同志社べ平連に参加していた。岩国の米軍海兵隊基地から戦闘機が飛び立っていた。
――――マサホさんが部屋に現れた。「おー、いたのか、どうや、岩国にデモでもやりに行かないか」。顔を見るなり話しかけてきた。髭だらけの丸顔でぼくより1学年上だ。「岩国ですか」僕はつぶやいていた。「面白そうじゃないですか」と応えていた。マサホさんは笑みを浮かべた。――
それから2年後、1972年に開店した反戦喫茶「ほびっと」の初代マスターとして幾多の困難に立ち向かう。彼が書き残した「ほびっと 戦争を止めた喫茶店」(2009年講談社刊)には、「マサホさん」が何度も何度も出てくる。彼が大学に戻ることを決断した時、1973年5月ほんやら洞で会議をした時のこともロッペイは書いている。
――――マサホさんは「よくやったよ」といった。明日は試験だということを忘れてマサホさんと飲み続けたーーーー。
彼は大学を卒業して東京に行った。実は、その後「マサホさん」は「ほびっと」で出会った悦子さんと結婚して長男に「穂人」と名付けた。
それから40年、2013年、夏の終わり、武蔵境の病院に見舞いに行った。食道がんで放射線治療を受けるという。入れ歯を外していたが、相変わらず口は達者で、鶴見俊輔さんの本作りのことなど喋る。「マサホさんも書きなよ!青春時代のことや市会議員の生活のことを!僕が編集するから」と言ってくれた。それが今生の分かれになった。2週間後、訃報を聞いたとき、また告別式で向かう新幹線の中で本を読み返したとき、涙が出た。早すぎた旅立ち。
2019年9月、彼の7周忌の法要の後、岩国を訪れた。ロッペイの後を継いだトミさん、ワシノ、米国人活動家のエドや常連客で児童文学作家になった岩瀬成子さんら10人ほどが集まった。その場にはロッペイがいない。「天国で見てるよな」とぼくは思った。翌日、岩国の街を歩いた。「ほびっと」のあった建物は空き地になっている。しかし、米軍の岩国海兵隊基地は今もある。戦闘機を止めようと凧を揚げた川沿いに戦闘機が轟音を響かせて飛び立った。
今やべ平連も「ほびっと」も歴史になり、戦後社会運動の研究者にとって「ほびっと戦争を止めた喫茶店」は、その時代の証言でもある。もちろん、「ほびっと」はロッペイの青春奮闘記であり、そして「マサホさん」のつまり僕の青春でもある。よくぞ書き残してくれた!
ぼくも古希を迎え、32年間の京都市会議員生活を終えて、色々な資料を読み返すとき、ロッペイこと中川六平が岩国で切り開いたことが大きな意味があったことを改めて思うのである。
いつか、わが青春、わが人生の回顧を僕も書き残したいと思うが、ぜひロッペイに編集者として本を出してほしかった。わが友、わが戦友、ロッペイ!いつかあの世でまた飲もうよ! 2019年初冬 鈴木正穂
2月25日(火)·
朝、消防車のサイレンが鳴っているのを聞いたような気がしていたが、FBを見ていたら神楽岡町で火災発生とのこと。すでに鎮火はしていた。場所では神楽岡町の夜店が行われている路地のところ。お一人がなくなったそうです。お悔やみ申し上げます。
.閑話休題。このところ、家の倉庫?に眠っていた昔に書いたものや資料やアルバムなどを整理している。 鴨沂高校時代(16歳のころ?)にNHK教育テレビの「若い広場」に出演したことがあるのです。永六輔さんも一緒やったんやね。親父が撮ってアルバムに張り付けてありました。55年ほど前は紅顔の少年でした。ワハハ!
色々な写真が出てきて面白い!
新型コロナウイルスの影響でキャンセルが相次ぎ、中国人向けの愛知の老舗旅館が廃業とか、京都のホテルもゲストハウスもどうなるのか。Jリーグの延期を発表、中国での死者が2,715人、感染者が7万8,064人となる。イタリアで新型コロナウイルスによる死者が11人となる。各国に広がっているのだ。