元京都市会議員鈴木マサホ「ひとくち日記-日々是好日」

鈴木正穂の身辺雑記として「ひとくち日記」を復活。人生100歳時代。コロナに負けないでどこまで書き続けられるか。

東北を視察  9月9日ー14日

2011年09月10日 | 日記
●9月14日(水)

     <福島市を視察>

 東北視察も最後の日。大隈氏が車で迎えに来てくれる。石原洋三郎議員は40歳。政治家としては3代目で福島では著名な一族だという。
 まずは南矢野目というところの仮設住宅に。浪江町から避難された200所帯が住む。市内には15箇所の仮設住宅があり、双葉町、飯館村からの避難者が居住している。ゆっくり住民とゆっくり話をする時間がなかったのは残念。

 それから地元の人から汚染された土が捨てられているのではないかと連絡があったそうで、一路近くの丘陵地帯の残土捨て場に。早速、大隅さんの線量計を見るが、0・6ミリシーベルトぐらいで大丈夫のようだ。現場責任者と思われる人物が飛んできたが、汚染された土ではない模様。ご近所の人は、ひとまず安堵感。

     <飯館村にて>

 そして、途中、安彦(あびこ)さんという染工場の経営者が同乗されて、国道114号を飯館村に向かう。市街地に近い渡利というところは、ホットスポットだという。一気に線量計の数字が0・83に上がる。

 トンネルを越えて小さな峠を越えて川俣町から飯館村に。飯館村に入ると、線量計の数字は2・88まで一挙に上がる。
 南相馬市につながる国道には、トラックや乗用車が行きかうが、家々や商店、郵便局やコンビニは閉ざされている。人は歩いていない。山に囲まれた風景はのどかだが、花きを栽培しているビニールハウスが時折見えるが、放置されたままで、畑や田んぼだと思われる農地には、人の姿は無く、まったく耕作も行われていない様子。その静かな風景に愕然とする。

 昼前、緑豊かな飯館村役場に到着。京都でいうなら京北町の風景に良く似ている。人口は6千人。違うのは、原発事故による計画避難地域であること。役場の前にはモニタリング計が設置されていること。3・07の数字。ちょっとヤバイなあ。役場はいちおう10時から4時まで開いていて4人の職員さんが交代で勤務しているという。

 役場の隣の「いいだて活性化センター」に今日は特別に住民が集まったという。佐藤長平飯館村議会議長ら議員さんたちも来られていた。議員定数は12人。
 今日はオーストラリアの食肉生産者事業団の一行が復興支援ということで来て、テントではオージービーフの焼く匂い。福島市内の避難先から交代で見守り隊として巡回されている住民が100人ほど会場内で懇談。佐藤議長は民主党、除染の問題などあるが、2年先にはなんとしてでも大人は帰れるようにしたいと熱望。
 この交流には、安彦さんと大隈さんたちが協力された。警戒の為に四国から派遣されてきた若い警察官たちとともにオージービーフをぼくもご馳走になる。
 今、飯館村の役場機能は、福島市内に支所が設けられていて、村には7つの事業所が通勤する人によって維持され、特別養護老人ホームも残っているという。美しい村に、いつの日に住民は帰ることができるのだろうか!そんな想いをしながら、福島駅まで大隈さんに送ってもらう。

 少し時間があったので駅前で無料!のレンタサイクルを借りて、市街地を走る。並木の綺麗な商店街、この1月に新築なった立派な市役所、そして学校のグランドでは表土を入れ替えて保管してあると思われるブルーシートを張ってあるところなど足早に走る。帰宅する子どもたちは元気そうだった。

 新幹線を乗り継いで京都に戻ったのは、午後11時前だった。

 3・11から半年。残暑厳しくむし暑い日が続いた東北での4泊5日の視察の旅。頭が真っ白になった。2万人を越える、亡くなった方々と行方不明の方々の御冥福を心よりお祈りし、被災されたみなさんが元気になられ、東北が復興するとともに、原発事故の収束を願う。道中お世話になったみなさん、ありがとう。

●9月13日(火)

     <仙台市役所へ>

 10時前仙台市役所に。広場では復興へがんばろう!と「東北のへそ」観光祭りが開催されていた。山形県最上地域・秋田県雄勝地域・宮城県大崎地域が「東北のへそ」になるという。それらの地域の物産展。リンゴジュースは牛乳を賞味。芋煮を食べたかったが自重。
 議会棟の民主党の議員団室を訪問。「市民フォーラム仙台」が会派の名称。8月28日に選挙が終わったところ。自粛ムードで逆風下、民主党は候補者を12人擁立、当選は7人。みんなの党が4議席を確保したという。政令指定都市政策協議会の副会長の渡辺公一議員と被災状況や復興策について懇談。牛タンランチをご馳走になる。美味しかった!

     <仙台の被災状況>

 午後、近くの青葉区役所へ。仙台市災害対策本部を訪ねて担当の齋藤健一課長から3・11からの被害状況などをお聞きする。

 9月2日現在、死者は704名。いまだ行方不明の方26名。負傷者2269名。多くの方は沿岸部で津波の犠牲になられた。地震直後の避難者は10万人。建物の全壊は2万2千棟。大規模半壊は1万5千棟、一部損壊は8万棟。罹災証明の申請数は19万件を超えるという。丘陵地では、宅地造成されたところで地すべりなども発生。想像を遥かに超える被害だった。

 京都市は消防レスキューに続いて3月15日に門川市長と奥山仙台市長とのホットラインで市役所職員を150人派遣、以降延べ1200人の職員が派遣されているが、力強かったという。多忙にもかかわらず時間を割いていただいて感謝したい。

 新幹線で福島入り。ちょっと時間があったので、市内循環バス「ももりん」に乗って市内を一周。料金は100円。

     <福島にて>

 夕方、衆議院議員石原洋三郎議員の大隈秘書と高橋秀樹県会議員、粟野啓二市会議員と懇談。全壊した住宅は171件あったそうだが、地震による被害は亡くなった方は3人。行方不明者はゼロ。地震そのものの被害は軽度だった。

 しかし問題は、なんといってもフクシマ原発事故による放射性物質の飛散による子どもたちへの健康被害への影響と原発周辺地域からの避難者への仮設住宅の確保などが大きな課題としてのしかかっているのだ。
 学校の校庭の表土改善、汚染された地域の除染作業、子どもや妊婦への個人線量計(ガラスバッジ)の配布。そして、これから大きな問題になる除去された土の処分地の確保など原発事故がもたらしたものは計り知れない。
 大隅氏も議員も線量計を手に持っているのには、正直驚いた。必需品なのだ。高浜、大飯、美浜原発からそれほど遠くない京都なので、ぼくも買っておこうかな、とふと思う。
 席上、今週の17日土曜日にはわが2区総支部長の前原誠司政調会長が福島入りするということで大隈秘書は連絡でばたばた。また福島県会議員選挙は11月に行われるとのこと。ご奮闘を。歓待していただき感謝です。

●9月12日(月)

      <石巻へ>

 朝の陽光に輝いた海は穏やかだ。カモメが部屋の窓際に数匹留まりこちらを見ている朝。南三陸町を後にして、国道45号から三陸自動車道を石巻市に向かう。途中、各県警から派遣されたパトカーと多数すれ違うのが国道の風景。

 石巻港のインターチェンジから降りて石巻市内は工場地帯に入る。日本製紙は稼動を始めたのかトラックなどの動きがある。

 愕然としたのは海岸から直ぐにある石巻市立病院の無残な姿。前日のニュースで当時、孤立した病院の中で医師がビデオを取り続けて、ヘリコプターで患者が避難されるまでのビデオが公開されてインタビューを受けておられたが、建物の3階まで津波ですべてが破壊された。頭上の樹木にはビニール袋などゴミがぶら下がり、カラスの群れが飛び交う。隣の敷地は官舎のアパートが2棟あったが、建物は残ったもの各部屋は所帯道具が散乱し流されてきた瓦礫でぐちゃぐちゃ。

 そして周辺はといえば、家々はすべて流されて、瓦礫の処理はだいぶ進んだのか、夏草に覆われ始めている。そして日和山の下にある門脇小学校にも津波が襲いかかり、火災で校舎が黒ずんでいる。あまりにも無惨な光景。呆然と立ち尽くすのみ。グランドでは作業車が整地する作業。
 石巻の街が見渡せる日和山に登る。街があったところが、なにもない。遠くには穏やかな海が光っていた。

     <松島に>

 石巻から航空自衛隊松島基地の近くを通って海岸沿いに奥松島に。丘の傍に石巻・仙台間を走っていた列車が線路に放置されたままの姿が遠くに見える。
 海岸の松林の中にあるかんぽの宿や野蒜駅も津波に襲われて時間が止まったまま。海岸から望む海は広くて穏やかな夏の終わり。悲しい。

 そして日本三景の松島には、観光客がだいぶ戻ってきたのか散策する人々が多く観光船も復活したようだ。気分はなんとなく安堵感。

      <仙台空港>

 松島から三陸自動車道と仙台東部自動車道で一気に仙台空港へ。津波で水没するテレビの映像も衝撃であったが、7月25日に再開された。仙台を結ぶ鉄道は10月からという。屋上デッキが開放されていたので、海岸のほうを臨む。松林の向こうに海がある。そして、建設時は誰も津波のことを考えなかったのだろうな、とふと思う。空港は名取市にあるとは知らなかった。

      <名取へ>

 海岸沿いに北上。津波にすべてが流されたところ。
 宮城県農業高校は海岸沿いにある。幸いなことに学校に当時いた生徒たちには犠牲者は出なかったらしいが、そのときの恐怖は想像できない。今は、遠くの農業高校まで3校に分かれてバスで出向いて授業を受けているという。

 さらに北上。道路上に漁船が置き去りになっていたところを過ぎて、「閖上(ゆりあげ)」浜に向かう。この地域も壊滅的な被害を受けたところ。日和山という造成された小さな丘には震災で犠牲になった方々の碑が建てられて、ご家族が献花をされていた。

 そして仙台市内は、若林区は荒浜地区に。夕暮れ時、トラックが行き交うが、この地も多くの犠牲者が出た所。重い重い気分になる。荒浜小学校近くで黙祷する。犠牲者の皆さんの心より御冥福を祈るのみ。

      <ゆさ議員らと>

 夕方、6時この2日間付き合ってくれた諸岡氏に県庁近くのビジネスホテルまで送ってもらい投宿。夜は、河北新報社の記者だった穴澤さんと宮城県会議員の遊佐美由紀さんと懇談。地震当日のこと、仙台の被害のこと、仮設住宅のこと、避難所でのボランティア活動のこと、仙台復興のこと。
 遊佐さんは、社民党時代からの知り合いで現在4期目。この11月に県会議員選挙がある。がんばってね!穴澤さんからは原発事故のことを寄稿した「山脈」をいただく。夜の仙台の繁華街は、日常が戻っていて若者たちで賑わっていた。

      
●9月11日(日)

     <東北大震災から6ヶ月、石巻、女川へ>  

 3・11東日本大震災からちょうど半年。アメリカの同時テロから10年。京都市会の海外視察で、2週間ほど前にニューヨークにいて、ビルを見上げていた。

 午前9時過ぎ、宮城県は、加美町の中新田を諸岡氏の車で出発。1時間ちょっとで石巻市に入る。道路などの瓦礫の処理はだいぶ済んでいるようだが、津波に襲われて全壊・半壊している建物が次から次へ出現。

 国道398号線を進み、女川の入江を遥か先に望む小さな峠を越えたところの高台に諸岡氏の親戚の家があった。津波はこの高台にまで押し寄せてきて、彼の親戚の家も流された。家の基礎部分が残っているのみ。流されてきた車が山裾に数台放置してある。こんなところまで押し寄せたのか。

 そして海岸沿いの女川のまちは壊滅。津波によってすべてが流され、また瓦礫の光景に呆然。沈黙。
 リアス海岸沿いの道路を北上。小さな入り江の集落もすべて壊滅状態か。硯で有名な雄勝には建物上にバスが載っていた。入り江近くの川では地元の人が遡上してくる銀鮭を釣り上げていた。

 峠を越えると北上川。多くの子どもたちが津波の犠牲になった大川小学校では、追悼の碑が建ち遺族の方々がお線香を上げられていた。言葉がない。心より御冥福を祈るのみ。

       <南三陸町にて>

 対岸に渡る大橋は通行止め。10キロほど上流の橋を渡って、峠を越えて登米市から南三陸町は志津川に入る。ここも甚大な被害を受けたところ。海辺の町はここもすべて津波に襲われた。

 高台にあるベイサイドアリーナと呼ばれる総合体育館では、南三陸町の慰霊祭が終わっていて跡形付けの最中だったが、黙祷。ちょうどあれから半年。入り口の所には、ご遺体の特徴を書いた紙が何枚も貼ってあるのが悲しい。

 駐車場には他府県のナンバーの車があり、テントには災害ボランティアセンターの本部のテント。センターを運営されている社会福祉協議会の担当の方と暫し懇談。頭が下がる。些少だがカンパさせてもらいました。
 この高台がこれからの街の復興の中心地になるのか。仮設住宅も近くにあり、またボランティアのメンバーの簡易テントも見られた。ご苦労様です。ぼくも若かったら来ていたかな。今回は、何もできないけれど、ともかく現地を見ること。

        <気仙沼にて>

 そしてさらに北上、3月11日夜の火災の光景が目に焼きついている気仙沼市に入る。気仙沼に来たのは実は2度目。2003年7月に議員団の視察で同僚と本吉広域防地災センターを視察し津波対策を聞き、防波堤も見た。今回の津波は防波堤を越えて流れ込み人々の命と生活をすべて奪い去ったのだ。

 漁港周辺の地域は、多くの商店や倉庫などが無残にも焼き尽くされ、瓦礫があちこちに積まれて、海水がどす黒くなって、周辺が池のようになっている。魚の腐った臭いが充満し、そこにカモメが舞うなんともいえない光景。言葉がない。この周辺の復興はどうなるのであろうか。
 宿は海岸沿いの高台にあるホテル観洋。一時は避難所にもなっていて、建物の所々には亀裂も入っている。かつては漁火が夜の海に見られたのだろうが、この夜は、見られなかった。
 疲れているはずなのに、今日一日の衝撃的な光景を思い出し、ショックか、なかなか寝付かれず。

●9月10日(土)

         <民主党自治体議員フォーラム世話人会>

 9時過ぎの新幹線で東京へ。地下鉄で永田町下車。土曜日で国会周辺は閑散としている。暑いよ。

 民主党本部へ。自治体議員フォーラムのブロック代表者会議。北海道から九州・沖縄ブロックまで9ブロックの代表者が集う。ぼくは近畿ブロック代表ということで参加した。11月に全国フォーラムを開催するのでその打ち合わせ。

 野田内閣が発足して支持率もだいぶ上昇したので安堵感。分科会や総会と全体集会をどうするか協議。マニフェストの見直しや財政、エネルギー問題や農業や産業の空洞化など色々と地方には課題があるが、なんといっても大きなテーマは震災復興と原発問題だよ。

 ぼくの提案が受け入れられて、宮城、福島の被災地の自治体議員に取り組みを報告してもらうことに。ぼくはエネルギーと原発防災についての分科会を担当することになった。民主党は、国会議員だけの政党ではないということ、自治体議員の存在感を示したいというのが、ぼくの想い。

         <宮城県加美町にて>

 午後4時前の東北新幹線に乗って、仙台から15分ほどのところの古川駅に午後7時着。サークル「山脈の会」で30年ほど前に出会った、加美町は中新田の諸岡氏が迎えに来てくれる。彼の娘さんは京都造形大学卒業で結婚して我が家の近くに住んでいる。かつての町長、本間某氏がバッハホールを建設したことで中新田はちょっと有名になったときもあったかな。
 友人の武田氏とも再会。数年前までソーセージ作りを生業としていたが、今は、石山けいき衆議院議員の後援会の役員として地元で後援会の拡大に向けて頑張っているということで、びっくり。
  話題は、3・11東北大地震のときのこと。揺れがひどかったこと、停電したこと、水が出なかったこと、などなど。また被災地から避難してきた人たちのことなど夜遅くまで聞き取り。

●9月9日(金)

        <十二提灯神輿保存会> 

 思い立って東北に行こうと思ったので、宮城や福島の関係者に連絡。午後は歯医者に行って、被せ物をしてもらう。

 夜は、十二提灯・子ども神輿保存会の世話人会。もうすぐ秋のお祭りの季節。吉田の東部を巡幸する十二提灯を復活させ、とあるスーパーの抽選で町内のオバサンに子ども神輿が当たってご寄付いただいてから、かれこれ20年ぐらい経つのだろうか。
 毎年吉田今宮社のお祭りの前の日に2日間巡幸をしていたが、この5年ほど前からは一日で済ますようにした。大元講社や剣鉾保存会や地元の有志のメンバーによりお世話してきた。昨年は雨で巡幸は中止、夜店だけになった。
 この間の反省や今年の世話人の確保のことなど打ち合わせ。その後、夜遅くまで、明日から京都を留守にするので雑務。
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