ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(8) 下村の綿作

2024-05-28 09:57:16 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(8) 下村の綿作


  江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれ、交通も発達し、商品の流通は盛んになりました。
 江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培されるよういなりました。
 特に、姫路藩は、財政改善の切り札として綿を藩の専売として奨励しました。
 姫路木綿は、品質がよく、江戸で大好評を得た。木綿の多くは、加古川地方で栽培されました。
 文化14年(1817)、上西条(加古川市八幡町)では全耕地面積の21.9%に綿が植えられ、新田のみでははるかに多く、本田の2倍以上を占めていました。
 ここに下村(加古川市八幡町)の綿作の記録があります。下村も畑地と新田畑に集中しています。
 綿作比率は、文化4年(1807)まで、全耕地の10%に満たなかったが、文化 10年後に急速に増加し17.3%を占めるようになりました。
 特に、畑における増加は著しく、享和年間の2・3倍の面積を綿花が占め幕末にいたっている。
 下村の総面積に対する綿作比率(%)の推移を挙げておきます。 


    享和元年(1801)   8.2     文化4年(1807)   8.2  
  文化10年(1813)    17.3     文政5年(1822)  17.4
  天保3年 (1832)  13.4     天保13年(1842)   16.2  
     弘化4年 (1847)  14.5 

  
 秋には真っ白い綿花の風景が広がっていました。
*『近世農業経営の展開(岡光夫著)』(ミネルヴァ書房)参照
 

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