八幡町をゆく(6) 叺(かます)
・・・・農家の耕作の田鍬きはすべて役牛に頼っていましたので、たいていの農家は温和な牝牛を飼っていました。
小学校の高学年になると、草刈りをしたり、牛に稲わらや米ぬか・麦などの餌を与えることが学校から帰っての仕事でした。
また、昭和初期は現在のような会社や工場は少なく、農家はカマスや筵(むしろ)を生産して現金を得ていました。
そのため、子供たちはこづかいをもらう楽しみに、よく手伝いをしたものです。
注:叺(かます) 袋の一種。藁蓆(わらむしろ)を二つに半折し、両端を縄で閉じて封筒状にした容器である。肥料、石炭、塩、穀物などを入れる。多木肥料からの注文がありました。
冬の問は裏作として麦を作り、五月上旬に種籾を苗代に蒔き、6月上旬に麦の収穫と田植えをします。
手植えで大勢の人手が必要で、稲の成育中は、手押しの除草機で草取りをします。病虫害の予防もはとんどできない状態で、誘蛾灯で殺虫するくらいでした。
また、肥料も堆肥が主で、硫安や過燐酸・石灰・大豆粕・魚粉などは高価で、あまりつかいませんでした。
稲の収穫も手で一株ずつ刈り取り、稲架で干し、足踏みの脱穀機で脱粒。
それを唐箕(とうみ)で選別し、筵(むしろ)で乾燥していました。
その当時、籾摺り機だけは石油発動機による自動籾摺り機があり、それを
持つ人は村中で一人か二人でした。その自動籾摺り機で村中の籾を賃摺りして、短時間に多量の玄米にすることができました
また、わずかな先進的な農家が、動力脱穀機を使い始めたのもこの頃でした。
昭和12年より、日中戦争が起こり→国中が軍事一色になり、戦闘用の兵器は長速の進歩を遂げましたが、農具は役牛用の物くらいがわずかに改良されるにすぎませんでした。
昭和16年、第二次世界大戦が始まり、戦争が激しくなると、兵器・軍需物資の生産に全力を注ぎ、農具の改良どころではありませんでした。・・・
*以下、省略
宗佐 小田太一 『ふるさと やはた』より
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