ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(60) 蔭山新田(現:西磐・にしいわお)誕生

2024-05-16 10:40:24 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

       平荘町・上荘町をゆく(60) 蔭山新田(現:西磐・にしいわお)誕生


 昔、加古川は、もっと東の方を流れていたようですが、それが、鎌倉時代の嘉禄元年(1225)年の大洪水で流されてしまい荒地になってしまいました。
 その後も開墾しては流され、また開墾をするという歴史を繰り返しました。
 『村翁夜話』に「・・・山角村前は往古の大川筋なり、今字に雁南と言う所ありて九十石の高あり・・・」とあり、山角・養老(もと芝村)前あたりを雁南新田といいました。
 万治元年(1652)、この地を大洪水が襲いました。
 村人は困り果て、翌年6軒が移住を決め、そして、蔭山(現:西磐)の地に移住し蔭山新田を開きました。
 その後、収穫も安定した村になったようです。
 100年後、村人は、蔭山新田(現:西磐)の歴史を後世に伝えるため、「開拓紀念碑」(写真)をつくりました。
 文面は、次のようです。(一部元文を書き改めています)

 「印南郡蔭山新村は、多田吉左衛門・高橋新兵衛・井上与右衛門・同市兵衛・同惣兵衛・同八兵衛の六人が開発した。
 姫路藩主・忠次様のご命を受け、新しい村をつくることができた。
 (蔭山新田は)万治元年に雁南新田(古くは中島新田)より移ってきた。
 今に至る百年、藩に感謝すると共に祖先の功績をあらわすため、この碑をつくる・・・」
 この記念碑は、現在西磐の墓地の入り口にあります。
 元文は、『印南郡史』に記録されているのでご覧ください。

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平荘町・上荘町をゆく(59) 磐(いわお)と紅山(べにやま)

2024-05-15 09:19:59 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

    平荘町・上荘町をゆく(58) 磐(いわお)と紅山(べにやま)

 紅山は、小野市の観光スポットになっており、184㍍の山頂は加古川市と小野市の境界でです。
 登山口が小野市側にあるので、加古川市としては観光地になりにくかったのでしょう。
 山頂からの南側(加古川市側)の風景がほしかったので写真を撮りに出かけました。
 「30分ばかりで降りてこよう」と考えたのが間違いでした。結構きつく、何回も休憩をとりました。
 でも、山頂での気分は爽快でした。
 南側(小野アルプス)に降りるとスリル満点ですが、歳を考えて来たコースを引きかえしたました。

        加古川市平荘町磐(いわお)

 紅山の南側の山麓に磐(いわお)の集落があります。
 写真では、山陽自動車道の南に谷がりますが、その両側の小さな山塊に隠れています。
 集落は見えませんが、東(左)側の山塊の向こうが東磐(寺谷)であり、西に西磐(蔭山)です。

 

 ・・・明治11年12月、寺谷新村と蔭山新田が合併して磐村が誕生しました。
 蔭山新村(現:西磐)は、もと里(平荘町里)にあったのですが、万治元年(1658)年の洪水で流出したため、この地に移住し開拓しました。
 寺谷新村(現:東磐)は、慶長17年(1612)、岸本市右衛門らが開拓に当たった新田です。
 これら二村が、明治12年に合併し、村名を山肌が赤い紅山にちなんで磐村(いわおむら)としました。・・・・」
 単純な村名ですがが、下から眺める紅山はどうどうとした山塊です。
 磐は、紅山が壁になり北風を防いでいます。
 水は岩肌を流れ、あるいは地下水となり村に集まります。
 最近、東磐からミネラルをいっぱい含んだ天然水が湧き出す場所がみつかっています。

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平荘町・上荘町をゆく(58) 村名二題、上原村と養老村 

2024-05-14 09:26:28 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

    平荘町・上荘町をゆく(58) 村名二題、上原村と養老村   

    〈上原・かみはら〉
 天文元年(1532)の報恩寺の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。
 ここに見える原村は、現在の上原(かみはら)です。
 志方町に原村があり何かと混乱があったようです。
 平荘の原は、これと区別するために、明治11年、村名を原から上原に変えました。
 この時、志方町の原村は下原(しもはら)と変わりましたが、昭和29年、西志方町原は志方町と合併時に元の「原」に戻しています。
 それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されます。上と下では上下関係があるように思われます。詳細はわかりません。
 「上原」は、そのまま今日にいたっています。

    

    〈養老村・ようろうむら)
 もうひとつの村名「養老村」のことです
 明治10年12月、印南郡芝村と同中村が合併して新しく設定された村名です。
 ちなみに、平荘村の初代から五代までの村長を記しておきましょう。
   初代  滝 右左治   二代 滝 信二
   三代  前川 昌三   四代 滝 一二
   五代  滝  悦一
 「養老」村の有力の滝から、養老の滝を連想し、そこから村名を「養老」をしたといいます。

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平荘町・上荘町をゆく(57) (平荘町)野の仏たち(8) 長楽寺(小畑)の六地蔵 

2024-05-13 08:20:53 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

平荘町・上荘町をゆく(57) (平荘町)野の仏たち(8) 長楽寺(小畑)の六地蔵

 小畑(平荘町小畑)の長楽寺を訪ねています。少し風が強いが、暖かな5月春の日差しの中にありました。
 墓地の南に手入れの行き届いた竹林があり、竹をわたる5月の風の騒ぎは気持ちがいい・・・
  ◇六地蔵
 本堂が南面しています。
 その左側が墓地にりっぱな石棺仏があります。
 墓地の西端に六地蔵(写真)があります。
 家型石棺の蓋の内側に彫られ、地面からの高さ183センチの堂々とした石棺仏で、正面の縁取りした内部の平面に二列三段に六地蔵を配しています。
 それにしても、六地蔵の刻み方は複雑で、坐像、立像そして上部の二体だけが蓮華座であり、光背部も二種の違った形式で刻んでいます。
 
 ◇平荘地区は、まさに石棺仏お宝庫です。でも、話題が地味ですこし飽きてこられましたね。次回から話題を変えることにしましょう。 

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平荘町・上荘町をゆく(56) (平荘町)野の仏たち(7) ほほえみ地蔵 

2024-05-12 09:11:33 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     

  

  平荘町・上荘町ゆく(56) (平荘町)野の仏たち(7) ほほえみ地蔵


 昭和54年、西山(加古川市平荘町)の墓地で二基の仏たち(写真)は発見されました。
 見つけたのは西山在住の藤原良夫さんで、ウルシやツタが生い茂った中にで発見されました。
 二基のうち写真右の一基は、「ほほえみ地蔵」として知られています。
 お祭りの夜に、ゆれる灯明の明かりに照らされると、お顔が、にっこりと笑っているように見えたところから名づけられました。
 「ほほえみ地蔵」は「線刻地蔵板碑」で、線刻で鮮明な写真がとれませんでしたので拓本で紹介します。
 説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。
 この板碑は、古墳時代の家形石棺の身の底の部分を再利用し、線刻で蓮華座上に立つ地蔵菩薩を彫り出した珍しいものです。
 地蔵像の左右に銘文があり、応長元年(1311)9月に造られたことが分かります。
 ・・・(一部略)・・・
 制作年代が明らかなこの板碑は、この地域の特徴である、いわゆる石棺仏であり、線刻で仏像が表現された鎌倉時代の石造品としては県内唯一の例と考えられるものです。
 それにしても、この地域に石棺仏の多いのは驚きです。
 今後も新しく発見されるかもしれません。

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平荘町・上荘町をゆく(55) (平荘町)野の仏たち(6) 観音寺(里山条)の石仏

2024-05-11 07:13:18 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(55) (平荘町)野の仏たち(6) 

       観音寺(里山条)の石仏

 平荘町里山条に小さなお寺があります。
 観音寺です。さすがに、山条というだけあって、加古川が少し離れて下に流れています。
 加古川が溢れたときも、水はここまで押してきません。
 観音寺は、名前に不似合いなほどの小さなお寺です。
 この石仏(写真)は、注意しなければ見過ごしてしまいそうな小ぶりの石仏です。
 銘がないので、いつごろの造られたのかはっきりしませんが、室町時代の中ごろの石仏らしい。
 この石仏も石棺に彫られています。
 地元の人は、赤い可愛い前垂れをかけ大切にお守りをしておられました。
 観音寺に行った日は、曇り空で地蔵様は少し寒そうでしたが、写真を撮るために前掛けをはずさせていただきました。
 それにしても、平荘地域に石棺仏の多いのには驚かされます。こんな何気ない石仏も石棺仏です。

 少し西へ行くと古墳時代の西山1号墳、それに、西山大塚があり、さらに行くとそこは平荘湖古墳群です。
 この近辺には古墳が集中しており、石棺仏を造る材料は困らなかったのでしょう。
 観音寺の入り口には、古墳時代後期(6世紀)の大きな家型石棺の蓋が二つ(写真下)無造作におかれています。

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平荘町・上荘町をゆく(54) (平荘町)野の仏たち(5) 地蔵寺の石仏たち

2024-05-10 08:26:28 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

 

 

    平荘町・上荘町をゆく(54) 野の仏たち(5) 地蔵寺の石仏たち 

      大日一尊種子板碑


 池尻(平荘町)の地蔵山の山麓に、地蔵寺はあります。
 山門をくぐると左側に、二基の石棺仏(写真)が並んでいます。
 向かって右の石仏は地蔵像で、この地蔵像の背面に大日如来を表わす梵字が彫られています。
 大日一尊種子板碑です。
 この梵字の下に、弘安四年(1281)四月廿日の銘があります。
 
    六地蔵立像

 写真左側の石仏は六地蔵です。八体であるのに六地蔵とは不思議に思えますが、下の男女二体の像は、供養者の像です。
 銘はないのですが鎌倉後期の石仏のようです。
 供養者はどんな人物だろう。このような立派な像は宗教心だけではできるものではありません。
 当時、この近辺に経済力をもった人物であったのでしょう。

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平荘町・上荘町をゆく(53) (平荘町)野の仏たち(4) 双石仏と四尊石仏残欠

2024-05-09 10:06:49 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(53) (平荘町)野の仏たち(4) 双石仏と四尊石仏残欠

 前号では、平荘町養老の地蔵堂の四尊石仏を紹介しました。
 きょうは、隣の地蔵堂の石仏を訪ねてみます。
 二基の石仏があります。
 左側の石仏(写真上)には、高さ50cm・幅53cmで立像(地蔵)と坐像(阿弥陀)が彫ら、右側一基(写真下)には、高さ約63㎝・幅53㎝の石棺に四体の阿弥陀坐像が彫られています。
 これらの石仏について、説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。

 ・・・堂内にある二面の石仏も石棺の側石にそれぞれ仏像を彫ったもので、一面は阿弥陀像と地蔵、もう一つには阿弥陀三体(欠けたた部分に一体があり、本来は四体)が彫られており、造られたのは二面とも南北朝から室町初期と思われます・・・

 説明板にあるように、これらの石仏は、隣の地蔵堂の四体石仏も含めて、全て一枚の石板に数体の仏像を刻んだ石棺仏です。
 この特色を持つ石仏は平荘町に多く分布しており、この地域の特色です。
 それにしても、養老の地蔵堂の石仏たちは、近くで見つかった仏たちを寄せ集めのようで、一時は橋に利用されたり、長い間忘れ去られたりで、数奇な運命をたどっているようです。

 少し余話をしておきます。
 かつて、これらの石仏は「中村の地蔵様」として親しまれていました。
 明治10年12月、中村と芝村が合併して新しい村「養老」が誕生しました。
 命名にあたり芝村の有力者・滝氏にちなんで養老としたといいます。

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平荘町・上荘町をゆく(52) (平荘町)野の仏たち(3) 四尊石仏

2024-05-08 06:07:21 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

      平荘・上荘町をゆく(52) (平荘町)野の仏たち(3) 四尊石仏


 平荘町養老の西の端に、同じ敷地内に二つの地蔵堂があります。
 きょうは、向かって左の四尊石仏(写真)を訪ねます。
 四尊地蔵にはこんな話があります。

 ・・・ある時、村人が牛(馬)を引いて、この石橋を渡ろうとすると必ず急に牛(馬)の足が動かなくなってしまいました。
 村人は、不思議に思っていました。
 ある時である、村の女の人が洗濯をしていると、小川に架かる橋の下の辺りの水面に仏様の姿をみました。
 村人は、驚いて石橋を起こしてみると、この四体の像を刻んだ仏様のお姿があらわれたのです・・・・
 『加古川市史(第七巻)』でも、「この石仏はもと西山から養老に通じるあぜ道の橋にしていたのを像容を配していたことから、現在の場所へ移したものであるとしています。
 また、正面が黒色を帯びているのは、長い間祀られたもので、香煙によるものである」と記されています。
 説明板(加古川市教育委員会)によれば南北朝(14世紀)としているが、田岡香逸氏は、『加古川市史(七巻)』で「おそらく室町時代のものとしてもおそく、1550年をさかのぼるものではない・・・」と述べておられます。
 四体は、阿弥陀像です。
 *次号では、向かって右の地蔵堂の石仏を訪ねてみます。

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平荘町・上荘町をゆく(51)  (平荘町)野の仏たち(2)  石棺仏・一結衆十六人

2024-05-07 07:56:58 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

  

     平荘町・上荘町をゆく(51)  (平荘町)野の仏たち(2) 

     石棺仏・一結衆十六人

 加古川地域には不思議な石仏がたくさんあります。
 石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏です。
 これらの石棺仏は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られたが、その後、なぜかプツリと姿を消しました。
 鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾され、この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのでしょう。
 でも、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。
 石棺仏は、全国に120基ほど確認されているが、その8割が加古川史、加西市地域に集中しています。
 その理由は、はっきりとしません。加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺仏ですが、珍しいものです。
 写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏です。

      一結衆十六人

 県下で、鎌倉時代から室町時代にかけてのこれら石造物は、すべて死者の追善や生者の逆修(ぎゃくしゅ)のための供養塔です。
 「逆修」は、「死なぬ前に、あらかじめ自分のために77日の仏事を修めて冥福をを祈ること」で、当時、生きているうちに自分の死後の供養を行えば、死んでから遺族の行う追善供養の七倍の功徳があると信じられていました。

 しかし、鎌倉時代の庶民は一般的に裕福ではありませんでした。
 これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われるが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎます。
 個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばなりません。
 神木の石棺仏も写真では確認しにくいのですが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいます。

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平荘町・上荘町をゆく(50) 野の仏たち(平荘町)(1) 石仏は中世からのメッセージ

2024-05-06 11:21:17 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(50) 野の仏たち(平荘町)(1) 

      石仏は中世からのメッセージ


    平荘町に集中する石仏


 平荘町の石仏を訪ねてみましょう。
 加古川市だけでなく、中世の地方史、特に、庶民の生活等についてはほとんど分かりません。
 史料があっても大寺院等に保存されており、中世の庶民の生活はでてきません。
 さいわい、庶民の生活・願い等が想像できる史料があります。それが石仏です。
 庶民は、石仏に病気の回復を、死後の幸せを願ったことでしょう。
 市域には江戸時代以前の銘のある石仏が43基あります。その内、平荘町が18基を占めています。
 特に鎌倉時代中期以前の石仏については、県下で50基を数えるのみですが、そのうち、東播は26基で、加古川市域には11基を占めています。
 しかも、一基を除けば全てが平荘町に集中しています。
 しばらく、そんな平荘町の石仏の探索をしましょう。
 そして、霞の向こうある、中世の平荘町の姿を少しでも再現しましょう。
 *写真:八体仏(平荘町小畑・加古川市文化財)

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平荘町・上荘町をゆく(49) 平之荘神社(1) 平荘神社での一件

2024-05-05 07:34:56 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(49) 平之荘神社(1) 平荘神社での一件

 きょうのブログは以前「東神吉町をゆく(15) 益気神社建設・平之荘神社での諍いの一件」として取り上げた記事の再掲です。
      平之荘神社での一軒 
 升田に益気神社(ますきじんじゃ)があり、神社の入り口にその由緒を刻んだ石碑があります。
 その石碑に「・・・・文禄三年(西暦1594)九月二十一日、秋季例祭の故ありて(平之荘神社)から分離すに至り・・・」とあります。

 その「故ありて・・・」の理由を記していません。その理由は次のようです。
 ・・・・事件は、文禄3年(1594)、平之荘神社16ヵ村の代表者の参詣の時におきました。*(16ヵ村:益気郷3ヵ村、平之荘13ヵ村)
 益気・・・平の面々、益気の中にも御歴々(おれきれき)がいるのだが、毎年益田の者は下座に座っている。座を改めて我々を上座にすればどうか。
 平之荘・・・御歴々であることは承知しているが、益気の人の中には、殺生を仕事とする者がいる。・・・穢しい。(益田の者に川漁の権利が認められていることを指す=秀吉の免状)
 売り言葉に買い言葉、日ごろの不満が燃え上がりました。その勢いは、すさまじいものでした。
 この時、近郷からこの喧嘩を見ようと数万の人が押しかけたといいます。
 この事件のあと、慶長四年(1599)益気郷は益田山(加古川市東神吉町)に益気神社(ますきじんじゃ)を創建しました。
 その後、池尻村も平之荘の氏子から抜け、池尻村・益田新村(出河原村)も益気神社が創建され、3つの益気神社が誕生しました。
 益気神社という名称から、奈良時代の創建を想像してしまいますが、升田村の益気神社は慶長四年に、平之荘神社から分かれた比較的新しい神社です。
 *写真:平之荘神社

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平荘町・上荘町をゆく(48)  報恩寺(10) 神仏混淆(こんこう)

2024-05-04 05:54:53 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(48)  報恩寺(10) 神仏混淆(こんこう)
 平之荘神社への階段下の左右に板碑があります。
 向かって、右側(写真下)の板碑には、ほとんど読めないが梵字で阿弥陀三尊と弘安二の銘が刻まれています。
 弘安二年(1279)は、二度の元寇の間であり、現在確認されている加古川市内の石造物記銘としては最も古いものです。
 平之荘神社に阿弥陀三尊とは不思議な感じもします。
 このことについて『知っておきたい日本の神様(武藤誠著)』を読んでおきましょう。
ました。
 ・・・・6世紀のなかば、仏教が伝わった。そこには有益な知識や技術が含まれていた。
 平安時代のはじめになると、神社側では「このままでは、自分たちは時代おくれになるぞ」と言う声がひろまった。
 そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事を行った。
 また、仏教側も、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めた。
 中世以降、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)によって、「日本の主だった神様は、仏が仮の姿で現れたものだ」とされた・・・

 このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合しました。
 しかし、明治政府は、仏教と神道の分離を命じました。
 明治以前、神と仏は融合(神仏混淆)していたのです。報恩寺と平之神社は、その例です。

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平荘町・上荘町をゆく(47) 報恩寺(9) 報恩寺の奉加帳

2024-05-03 08:07:41 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

    平荘町・上荘町をゆく(47) 報恩寺(9) 報恩寺の奉加帳

 報恩寺には、県指定文化財の三冊の奉加帳があります。
 この奉加帳ついて、『加古のながれ』(加古川市)に詳しいので、お借りします。
 写真は、少し見にくいが三冊のうち第一帖です。
 奉加者の名前に驚きます。


  ◇第一帖の奉加者◇
    左大臣     花押  
    右京大夫    花押  
    尾張守      花押
    治部大輔    花押 
    性具       花押

 これでは誰のことかわかりにくですが、左大臣は足利義教、右京大夫は細川持之、尾張守は畠山満家、治部大輔は斯波義淳、そして性具は赤松満祐でのことです。
 日本史の教科書に出てくる、そうそうたる人物ばかりです。
 この奉加帳には年号を記していないが、畠山満家と斯波義淳は永享五年(1433)に亡くなっているのでこの奉加帳は、それ以前に書かれたことになります。
 そして、足利義教が左大臣になった永享四年以後に書かれたことにになります。
 つまり、1432年から1933年の一年間に限られます。
 この奉加帳には趣意文がないので何のための奉加帳なのか不明ですが、当時の報恩寺の再興の資を得るためのものであろうと思われます。
 それにしても、どうして呼びかけ人にこれほどの人物が賛同したのでしょう。
 以下は推測である。
 第二帖に伊豆守、つまり赤松貞村の名があります。
 貞村の娘が将軍義教の側室であり、その関係から、貞村はこの奉加帳面を義教のところへ持ち込んだのではないでしょうか。
 しかし、この奉加帳の効果がどれほどのものであったかは分かりません。
*『加古の流れ』(加古川市)・『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)・『兵庫県史(第二巻)』(兵庫県史編集専門委員会)参照

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平荘町・上荘町をゆく(46) 報恩寺(8) 大日如来坐像

2024-05-02 07:14:43 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(46) 報恩寺(8) 大日如来坐像

 報恩寺の本堂に大日如来坐像があります。
 写真は、『仏と神の美術』(加古川総合文化センター)からお借りしました。
 寄木造で、忍者のような智拳印(ちけんいん)を結んで、金箔が残っており、元は金箔の大日如来と考えられます。
 光背は、後の修理がなされていますが、当初(南北朝時代)のものと思われます。
 この仏像は、観応二年(1351)の姫路市の如意輪観音、延文四年(1359)の書写山円教寺の金剛薩埵とほぼ同じ作風です。
 これらの像は、銘文から播磨の守護赤松氏の造仏にも関わった仏師・康俊が製作したものであることが分かっています。
 赤松氏の庇護を受けた報恩寺に伝わる大日如来坐像も康俊のものである可能性が高いと思われます。
 報恩寺には「報恩寺文書」として知られる多数の赤松氏との関係の文書が保存されており、報恩寺は、赤松氏と深い寺院です。

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