平荘町・上荘園町をゆく(63) (民話)芝村の天神さん
むかし、仁明天皇の頃の話です。
平荘の芝村(現:養老)の医者の娘に、きくのという人がいました。
京都の貴族の家に奉公をしていました。きだての良い娘でした。
お嫁入りの年頃になったので、おひまをいただいて家に帰り、25才で結婚し男の子が生まれました。
とっても、かわいい子でしたが、ふとした風邪がもとで亡くなってしいました。悲しいことが、重なりました。
夫も二ヶ月後になくなったのです。きくのは、生きる望みがなくなりました。
ちょうどその頃、都の菅原是善卿(すがはらこれよしきょう)夫妻に男の子が生まれ、乳母を捜しておられました。ある人の紹介で、きくのが是善卿のところへあがることになりました。
是善卿の若君は、後の道真公です。
きくのは、道真公が8才になるまで大切にお世話をしました。
きくのは「・・・若君も、もう8才になられ、ことに優れたかたになられ、たのもしく思っています。このあたりで、故郷へおひまをいただきとうございます。・・・」と是善卿に申し出ました。
その後、道真公はたいそう位の高い方になられました。
道真公が57才の時でした。
道真公が偉くなるのを恨んだ藤原時平が、道真公が悪いことをたくらんだと陰謀をめぐらし、罪をかぶせました。
道真公は、筑紫の大宰府に流されることになりました。
道真公との再会
都をあとに、船で播磨灘にさしかかったとき、にわかに海が荒れて船が沈むばかりになりました。
やっとの思いで、別府(加古川市別府町)の浜にこぎつけ上陸されました。
そして、あたりをご覧になりながら、「私が小さい時、乳をもらった乳母は、この近くの芝村というところだったが、ここからどれほどの道のりですか・・」と村人にたずねられました。
「一里ばかりです」と村人は答えました。
道真公は「きくのは、生きていないかもかもしれないが、せめて乳母の住んだあとだけでもたずねてみたい・・」と芝村にでかけられました。
きくのは、生きていて二人は再開するができました。
別れの時です。道真公は、きくのにもう二度と会えないかもしれないと、歌をお詠みになりました。
ながらえて ありとも我は おもはじな
逢見るそ社(こそ) つきぬ奇縁を
(わたしは、生きながらえて もういちどお目にかかれようとは思いません。今日こうしてお会いできましたことこそ、尽きない不思議なご縁がありましたから)
その翌年、きくのは亡くなりました。
きくのには、子どもがなく家が絶えたため、短冊は村長(むらおさ)に預けられました。
芝村では、この短冊をご神体として、きくのが住んでいた場所に天神社(写真)を建て、お祭しています。
後、芝村には雷が落ちたり、火事がおきたりする心配がなかったと言い伝えられています。
*こんな民話が、芝村に伝わるのは、姫路から大坂・京都への道、湯乃山街道が平荘を通っていたからではないでしょうか。