平荘町・上荘町をゆく(51) (平荘町)野の仏たち(2)
石棺仏・一結衆十六人
加古川地域には不思議な石仏がたくさんあります。
石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏です。
これらの石棺仏は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られたが、その後、なぜかプツリと姿を消しました。
鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾され、この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのでしょう。
でも、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。
石棺仏は、全国に120基ほど確認されているが、その8割が加古川史、加西市地域に集中しています。
その理由は、はっきりとしません。加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺仏ですが、珍しいものです。
写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏です。
一結衆十六人
県下で、鎌倉時代から室町時代にかけてのこれら石造物は、すべて死者の追善や生者の逆修(ぎゃくしゅ)のための供養塔です。
「逆修」は、「死なぬ前に、あらかじめ自分のために77日の仏事を修めて冥福をを祈ること」で、当時、生きているうちに自分の死後の供養を行えば、死んでから遺族の行う追善供養の七倍の功徳があると信じられていました。
しかし、鎌倉時代の庶民は一般的に裕福ではありませんでした。
これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われるが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎます。
個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばなりません。
神木の石棺仏も写真では確認しにくいのですが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいます。