八幡町をゆく(8) 下村の綿作
江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれ、交通も発達し、商品の流通は盛んになりました。
江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培されるよういなりました。
特に、姫路藩は、財政改善の切り札として綿を藩の専売として奨励しました。
姫路木綿は、品質がよく、江戸で大好評を得た。木綿の多くは、加古川地方で栽培されました。
文化14年(1817)、上西条(加古川市八幡町)では全耕地面積の21.9%に綿が植えられ、新田のみでははるかに多く、本田の2倍以上を占めていました。
ここに下村(加古川市八幡町)の綿作の記録があります。下村も畑地と新田畑に集中しています。
綿作比率は、文化4年(1807)まで、全耕地の10%に満たなかったが、文化 10年後に急速に増加し17.3%を占めるようになりました。
特に、畑における増加は著しく、享和年間の2・3倍の面積を綿花が占め幕末にいたっている。
下村の総面積に対する綿作比率(%)の推移を挙げておきます。
享和元年(1801) 8.2 文化4年(1807) 8.2
文化10年(1813) 17.3 文政5年(1822) 17.4
天保3年 (1832) 13.4 天保13年(1842) 16.2
弘化4年 (1847) 14.5
秋には真っ白い綿花の風景が広がっていました。
*『近世農業経営の展開(岡光夫著)』(ミネルヴァ書房)参照
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