野口町をゆく(68) 「新井用水」完成
承応3年(1645)の野口地方の旱魃です。太陽が大地を容赦なく照りつけました。
溜池に頼るこの地方の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。
寺田池の水も完全に干上がってしまいました。
それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。
野口・平岡・播磨の村々の百姓は、五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。
古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、「加古川から用水を引けないものか」と考えました。
しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。
そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。
しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。
藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。
難問は、ひとつ解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。
伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。
*写真:新井用水(野口町水足あたり)
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