三条河原町東入る北側(三条木屋町西入る北側)に、『池田屋跡』の石碑があります。
『三条小橋』に至る途中のパチンコ店の前にあるので、分かりやすいと思います。
『池田屋』とは、歴史上で、新撰組の名前が大きく出てくる、“池田屋騒動”のあった現場です。
この事件がなければ、新撰組は歴史の中に埋もれてしまっていただろうと思います。
『池田屋騒動』とはどういう事件だったのか、少し説明します。
幕末には、いろいろと、時世を動かすような事件が起こります。1863年の八月十八日に薩摩藩と会津藩によるクーデターが起こり、京都の政治の中枢からは、尊王攘夷派が一掃されました。
その中心であった長州藩は、京を追われましたが、勢力挽回の機会を狙っていました。
翌年の1864年、長州藩を中心とする尊皇攘夷派は、祇園祭りの前の日に、御所に火を放って、中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、会津藩の松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去るという計画を立てました。
新撰組の探索により、不審人物として、古高俊太郎が捕らえられました。
古高俊太郎は、備前藩御用達商人、桝屋右衛門と名乗っていたのですが、裏では、尊皇攘夷派の長州や土佐藩の浪士に援助をしていました。
古高俊太郎が捕縛されたとことを知った尊王攘夷派の浪士たちは、御所を焼き払う、一連の計画を中止するかどうか話し合うために、1864年の新暦の7月8日に、『池田屋』に集結していました。
この集会には、桂小五郎も参加予定でしたが、池田屋に到着が早すぎたので、一度池田屋から本拠地に戻っていたために、難を逃れたということです。
古高俊太郎の自白から、尊王攘夷派の浪士たちが、その日に集結することを知った新撰組は、近藤隊と、土方隊のふた手に分かれて、捜索をして、近藤隊が『池田屋』で、尊王攘夷派の浪士が集結をしていることを突き止めました。
この時の近藤隊は、10名でした。集結していた、尊王攘夷派の浪士は20人名でした。
20名の浪士の中に、近藤と沖田のわずか2名で斬り込んでいったのです。
この事件が、後々、新撰組の武勇を後世に伝えることになるわけです。
この事件で、土佐藩の浪士も死亡しています。北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太の3名です。
この事件の1ヶ月後には、『禁門の変』が起こります。
一般的には、この『池田屋騒動』のために、明治維新が2年は遅れたとも言われていますが、逆に、明治維新が早まったとも言われます。
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